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のぞみ、か。
翌朝、のぞみは支度をしながら、夕べ、京平が恥ずかしそうに呼んだ、
『のぞみ』
を何度も思い出していた。
なんだろう……。
なんか照れるな、と思っていたのだが、朝、迎えに来てくれた京平はまったくいつも通りで。
のぞみにも、普通に、
「おはよう」
と言い、あとはのぞみより、両親と話していた。
京平の車に乗って、シートベルトを閉めながら、のぞみは思う。
……うーむ。
これでは私ひとりが専務を意識してるみたいではないですか。
そんな莫迦な、と思いながら、見送ってくれた父母に、
「行ってきますー」
と手を振った。
父、信雄の出勤時間はまだなので、ついでに見送ってくれたのだ。
信雄は京平が迎えに来てくれたことについて、特に文句は言わなかったが。
玄関先で、腕を組んで仁王立ちになり、門番か? と問いたくなるような体勢で見送っている。
角を曲がり、広い道に出ると、それまで笑顔だった京平がいきなり、片手で、のぞみの頬をつかんできた。
「なんだ、お前、昨日の窓閉めたときの勝ち誇ったような顔はーっ」
なんの話だーっ?
「俺は、あれから、何度も昨日の別れ際のことを思い出していたんだ」
気が合いますね、私もですよ。
あのときのことを京平も思い出していたと聞いて、ちょっと負けた感が薄らいでいたのだが、京平は、
「お前、俺が別れ際に、のぞみって呼べなかったあと、ふっと小莫迦にするように笑って、じゃあ、失礼しますーって、窓閉めたろーっ」
と叫び出す。
「小莫迦にするようには笑ってませんーっ」
ちょっと可愛いなと思ってたんじゃないですかーっ、と心の中で絶叫する。
「しかも、あのあとのメールはなんだ。
『着きました?』はいいが。
『着きました? 専務』ってのは、なんだ。
先生でなかったのは、まあいいが。
普通、そこは、京平さんだろっ。
俺がのぞみって呼んだんだからっ。
今後は、釣り合いってものを考えて、京平さんって呼べよっ。
俺だけがお前に夢中みたいじゃないかーっ」
いや、名前呼んだだけで、夢中ってこともないと思いますけどね……。
「今後、京平さん、以外の呼び名は受け付けないからなっ」
「いや、じゃあ、仕事中に京平さんって呼んでもいいんですか……?」
一瞬、うっ、と詰まった京平は、
「……呼べよ」
と言ってくる。
どんだけ負けず嫌いなんですか、貴方。
ほんとに呼ぶぞ、と思っていると、
「ところで、今日、もし、遅くなったらだが」
と話をすり替えてきた。
「あ、大丈夫ですよ。
私、電車で帰りますから」
とのぞみが言うと、
「めんどくさいんだろうが、乗り継ぎが」
と言ってくる。
ほら、と京平は鍵をのぞみの膝に投げてきた。
え、と思っていると、
「うちの鍵だ。
会社から近いから、お前、そこ行って待ってろ」
と京平は言ってくる。
「え、でも……」
と言ったが、京平は黙って外を見ていた。
車が線路脇を走る。
いつも、自分の車か、電車から見ている風景を京平の車の助手席から眺めるのが、なんだか不思議だった。
職場に着くと、万美子が回覧を回してきた。
「はーい。
一年生は強制参加よー。
新人歓迎会」
誰が一年生ですか、と思いながら、のぞみは今日も朝から完璧な美人秘書の万美子を見る。
「いい男居ないかしらねえ、新人」
と笑いながら去る万美子を見ていた祐人が、
「……懲りねえな」
とデスクで呟いていた。
そういや、御堂さんは、永井さんのおねえさんと付き合ってたんだっけ? とこの間、万美子が言っていたことを思い出す。
そのせいか、特に親しそうに見えた。
ふーん、と思いながら、歓迎会のことが書いてある回覧をのぞみは眺める。
「へー。
ボウリングかあ。
ボウリングでなにするんでしょうね~」
「……ボウリングでボウリング以外のなにをするつもりだ、お前は」
ノートパソコンを見たまま、祐人が言ってくる。
いや……、場所の確認のつもりで言った特に意味のない呟きですよ、聞いてないでくださいよ、と赤くなりながら、
「あの、これ、社員全員が来るんですか?」
と訊いてみた。
「そんなわけないだろ。
ボウリング場に入り切らないし。
新入社員以外は、来たい奴だけだよ。
ちなみに役員は来ないぞ。
みんな緊張するから」
と祐人は言ってくる。
「ええっ?
役員は入れてあげないんですか?
可哀想じゃないですか。
おじさんたち、マイボール、マイシューズとか持ってそうなのに」
と言ったところで、のぞみは自分で、ぷっと吹き出してしまった。
役員がマイボール、マイシューズ、のところで、京平が、マイボール、マイシューズでボウリング場に立つ姿を思い浮かべてしまったからだ。
……持ってそうだ、マイボール。
「なに笑ってんだ」
と言う祐人にその話をすると、
「あの歳で持ってるか? マイボール」
と言ってくる。
「でも、専務、凝り性なんですよ、なんにでも。
学校にも、自分でいろいろ映像関係の機材とか持ち込んで、なにやらやっていました。
そういえば、御堂さんは歓迎会来られるんですか?」
と訊くと、祐人はパソコンを打ちながら、
「……行こうか?」
と言ってくる。
いや、それだと私がお願いして、来てもらうみたいじゃないですか……と答えに詰まっていると、祐人はパソコンから視線をずらし、チラとこちらを見て笑った。
ちょっとからかうような、こういうときの顔は親しみやすくていいんだけどな、とのぞみは思う。
いや、仕事中の顔は、なにも親しみやすくはないのだが……。
そして、夕方、案の定、京平の仕事は終わらなかった。
「自宅には帰らず、俺の家で待ってろよ」
帰り際、専務室に仕事で行くと、京平はそう言い、睨んでくる。
「勝手に帰って寝てたりしたら、夢枕に立つぞ」
ひい。
直接、枕許に立ってそうなんですが。
うちのお母さんの手引きで……。
「ほら、タクシー代」
と渡されたが、地図を見たところによると、無理すれば歩いていけない距離でもなかったので、
「結構です」
と断る。
「途中で、痴漢や暴漢に襲われたらどうする。
お前のお母さんやお父さんに申し訳が立たないだろうが」
いや、私本人には?
と思いながらも、押し付けられたので、結局、受け取ってしまった。
五千円ももらったが、全然そんな金額ではないほどに京平のマンションは近く。
いや、これ、歩いても来れませんかね? と大きな京平の車を思い出しながら、のぞみは思う。
その高層マンションの下に立つと、すぐ側から子どもたちの笑い声が聞こえてきた。
マンションに併設されている広場は、葉桜で青々としていて、子どもたちがキックスケーターで遊んだりしている。
いいところだな、とのぞみは周囲を見回した。
程よく都会で、程よく昔ながらの街並みも残しているというか。
近くに、いい感じの商店街があるのも、タクシーから見えていた。
高価そうなマンションではあるが、近寄りがたい感じではなく、普通に子どもの居る世帯もたくさん住んでいるようだった。
教員だった頃の京平が家族で住んでいても、そう違和感はない感じだ。
のぞみは、京平に言われた通りにして、入り口のセキュリティを開け、マンションの中へと入っていった。
エレベーターホールに行く。
三基あるエレベーターの中の様子は、一階のモニターに全部映し出されているようだった。
……中で、おかしなことをするのはやめよう。
「いや、おかしなことって、なんだ?」
と問われても、すぐには思いつかないのだが、なんとなく……。
そんなしょうもないことを考えてるうちに、エレベーターは京平の部屋のある階に着いた。
風強いな~。
吹きっさらしの廊下を歩くのぞみは突風に目をしばたたかせつつ、思わず、下を見た。
あ~、ゾクッと来る。
専務、高いとこ苦手なのに、なんでこんな部屋に住んでんだ?
この間言ってたみたいに、慣れるためだろうか? と思ったとき、一部屋飛んで、向こうの部屋から出てきた女性と目が合った。
おそらく、のぞみの母親くらいの歳だと思われるが。
上品で美しい。
だが、見た瞬間、ぞわっと来てしまったのは、彼女を見たとき、一緒に、下の街の風景が視界に入ってきたせいではおそらくない。
この顔は何処かで見た……と思ったからだった。
京平の部屋の門扉の前に居たのぞみに向かい、
「あら」
と彼女は言った。
「貴女、京平の彼女?」
ぞわぞわが強くなる。
も、もしや……。
もしや、このお方は――。
「専務……」
と言いかけ、やめる。
専務とか言ったら、部下なのがバレバレだと気づいたからだ。
なんと問うべきか迷ったのぞみは、
「槙京平さんのお母様ですか?」
警察の者ですが、と続きそうな堅い口調で訊いてしまう。
彼女は、この不審な女にも動じず、
「そうよ。
貴女は?」
とのぞみを見据え、訊いてきた。
ひいっ。
やっぱりかっ!
それにしても、何故、専務の隣の隣の部屋にお母様がっ!?
と動転しながらも、慌てて答える。