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プロローグ
四月の海はこんなにも冷たいものか。
白崎萌香はガボガボと口から空気を吐き出しながらも、男の体を羽交い締めにしたこの腕だけは決して離すまいと、残り少ない力を振りしぼった。何人もの女性を手にかけたとは思えぬほど、男にしては華奢な身体。しかしこんなところで死んでたまるかと言わんばかりに、萌香に締められながらも彼は懸命に抵抗する。
――こっちだって、逃がしてたまるか。アンタをずっと追いかけてきたってのに。
萌香は刑事として数々の犯罪者を相手にしてきたが、この男ほど恐ろしいと感じた相手はなかった。一見柔和で繊細な印象を与える青年だが、過去に犯した殺人の件数は十をくだらない。我が国では珍しい、特徴の似た相手ばかりを狙った連続殺人。連日ワイドショーやネットニュースを騒がせた事件の容疑者は、今まさに萌香の支配下にいる。
捜査班の刑事たちと協力し、潜伏場所を暴いて突入した。その段階までは萌香をはじめとしたほとんどの警察官たちが、これでようやく容疑者を上げられると期待していたのだ。だが青年は萌香たちの想定を超える程の抵抗を行い、致命的なことに容疑者の逃走という結末を招いてしまった。
萌香は青年を単身で市のはずれにある埠頭まで何とか追いつめたのだが、その頃には互いに大きく体力を消耗していた。
例え自分の命と引き換えになったとしても、この男を取り逃すわけにはいかない。
すでに疲労困憊の萌香の体を突き動かしたのは、その愚直なまでの正義感だった。なおも抵抗を続ける青年の拳をいなし、残っている渾身の力で彼の両腕を締め上げる。白い波が押し寄せる埠頭の先端までずるずると引きずられたところで、青年にも萌香が何をしようとしているかが分かったのだろう。
「……ッ! 正気かよこのアマッ……」
「あなたよりかはマトモだと思うけど?」
息を切らしながらも、萌香は不敵な笑みを浮かべたまま青年の体を引きずっていく。
互いに生きたまま逮捕できればそれに越したことはない。しかしそれが叶わぬというのなら、せめてその命もろとも道連れにしてやる。
両腕にさらに力を込め、大きく深呼吸をする。そして萌香はひと思いに水面へと倒れ込んだ。
暗い海へと全身が叩きつけられる。ほんの少しでも口を開けば、胃にも肺にも水が流れ込んできた。幼い頃に通っていた道場で、年明けに行っていた寒稽古の景色が不意に脳裏をよぎる。
冷たい。苦しい。でもこの腕だけは絶対に離さない。
もがくように暴れる青年の腕や足が容赦なく彼女の身体にぶつかるが、それでも締め上げる力は決して緩めない。
「……ッ、ぐぁ……」
ついに息が切れたのか、ぐったりとした男の全体重がのしかかっても萌香は最後まで力を緩めなかった。萌香自身も視界がちらつき、徐々に意識が遠くなってゆく。
これで、いい。これで少しでもこの国が安全になるというのなら、私は喜んでその礎になろう。
萌香はそう自分に言い聞かせて、硬くまぶたを閉じた。