夜風が
アラインの黒髪をそっと揺らしていた。
高台に設けられた仮設指揮所。
司令官専用の装甲車両が据えられ
展開された戦術マップには
部隊の移動、損耗率、交信状況が
淡く光の粒となって浮かんでいる。
その全てを、アラインは見ていなかった。
手には白磁のティーカップ。
そこに注がれたのは、特製のアッサム。
けれど
味わう気など、初めから無い。
アラインの目が捉えていたのは
ただ一つ──
「⋯⋯止まったね、第一小隊。
戦車が潰れたのか⋯それとも、潰された?」
高台から望む戦場。
花のように爆ぜる戦車の残骸
落下したヘリの尾部が引き起こした爆風
制御を失い、斜面に転がり落ちるIFV。
「ふふ⋯⋯さすがだねぇ、時也」
指をすべらせると
拡大表示された映像に
蔓が巻きついた車両と
その前で花弁をまとう黒髪の男の姿。
その動きには無駄がなく
それでいて根拠のない選択も見受けられる。
「⋯⋯知らないんだね、機械の構造を。
だけど、〝止める〟ことには迷いがない。
まさに、役割に徹してる。
そういう男、嫌いじゃないよ?」
アラインの指が
もう一つの映像へと滑る。
今度は、上空の情報。
「二機墜落、三機は逃走中。
あぁ⋯⋯重力って、空にとって最悪だよね」
そこに映るのは
空を落とす喫茶 桜の番犬──ソーレン。
「⋯⋯愉快だ。
彼は⋯⋯破壊することに迷いがない。
それがどれだけ他者を恐怖させるか
ちゃんと知ってる目をしてる」
そして、もう一人。
擬態の能力でソーレンに化け
戦車を紙のように折り畳んでいく存在。
「……あれは、あの男を
〝 理解〟したうえで、再現してる。
性格も、感情も、揺らぎすらも。
あの子も⋯⋯実に面白い事をしてくれるね」
アラインは
椅子に深く身を預け、瞳を細める。
映像の中で三人がそれぞれの役割を遂行し
次々と兵を圧倒していく。
その動きはまるで舞台。
完璧に呼吸が合い、余計な言葉もない。
三人は
一人の役者のように
動き、壊し、止め、削っていく。
そして──
その中に、確かに宿っていた。
疲労。
幾台もの戦車を止め
数機のヘリを落とし
百を超える兵士を無力化した代償として
──彼らの呼吸に、揺らぎが見えた。
「⋯⋯そう、それ。
それだよ。ボクが、見たかったのは」
ティーカップが、かすかに揺れる。
唇に触れる寸前
アラインはそっとそれを置いた。
「あとは、撤収しようか。
駒を減らしすぎても、勿体ないし。
もう十分⋯⋯〝彼らの体力を奪った〟から」
アラインは立ち上がり
背後に控えていた中佐に片目を向けた。
「部隊全体に撤退命令。
記録は全て
〝演習中の錯乱による想定外の損害〟
として処理して」
(前線に出てる指揮官たちには
もう記憶は処理済み。
彼らがボクを
〝誰とも認識しない〟っていうのも⋯⋯
楽しいよね?)
中佐は一言も返さなかった。
アラインのことを
〝誰かの命令で付き添っている民間分析官〟
と思っている。
それ以上でも、それ以下でもない。
命令には従う。
それが、軍人の役割だ。
「⋯⋯これで
次の一手が打ちやすくなった。
ソーレン、時也、レイチェル。
また、逢おうね⋯⋯⋯アリア」
アラインは高台を背に歩き出す。
喧騒を残して去る戦車の履帯音。
火花を吐く瓦礫。
消えゆく兵士たちの戦意。
その全てを背にただ一人
狂気の脚本家が幕を閉じた。
「⋯⋯次の舞台は
もっと綺麗に燃えるといいな」
⸻
「⋯⋯退いてる?」
最初に異変に気付いたのは
レイチェルだった。
擬態を解き、元の姿へと戻った彼女が
斜面の上で身を起こす。
折り畳まれた戦車の残骸を踏み越えながら
広がる戦場を見渡すと
煙の向こうで
部隊が次々に後退していくのが見えた。
歩兵は陣形を解き、IFVへと乗り込み始め
空では、最後に残った一機のヘリが
旋回しつつも高度を上げていく。
「⋯⋯マジかよ。
あれだけド派手に仕掛けてきた癖に
撤退って⋯⋯」
ソーレンが煙草を咥え直しながら
吐き捨てるように呟いた。
重力の操作を続けていた指先は
既に熱を帯び
手の甲からはうっすらと汗が滲んでいる。
時也もまた
桜の花弁を静かに散らしながら防御陣を解き
足元に絡みつく蔓たちを地に還していた。
その動作には
普段見せるような優雅さはもう無い。
「⋯⋯撤退の兆候は⋯確かに、見えますね」
言葉の端に、わずかに息が混ざる。
いつもなら絶対に見せない
小さな〝乱れ〟
戦車も、ヘリも、兵士も。
確かに、彼らは今、退いている。
だが──
その意図も、理由も
まったく見当がつかなかった。
「⋯⋯何が目的だったんだ⋯⋯
あんな大隊規模で動かしておいて⋯⋯
ただ、様子見か?」
「それにしても⋯⋯
数も、火力も 洒落になってないわよ」
レイチェルが隣で
肩を上下させながら息を吐く。
擬態による神経負荷は
身体よりも心の方が激しい。
ソーレンの〝破壊衝動〟を真似ることは
彼女にとっても
大きな消耗をもたらしていた。
「や、やば⋯⋯爪、めっちゃ割れてるし!
ソーレンに擬態すると
どんだけ力入れてんのよ⋯⋯っ」
「俺のせいにすんなよ⋯⋯
っつーか
お前もよく折り畳んだわ、あの戦車」
ソーレンの皮肉混じりの言葉に
レイチェルは少しだけ笑いながらも
膝に手をつき、その場に座り込んだ。
一方、時也は静かに空を見上げる。
花弁の残滓が、風に乗って宙を舞う。
その瞳は
撤退していく軍のシルエットを追っているが
そこに敵の輪郭を見出せていない。
(⋯⋯いったい誰が
これだけの戦力を動かしたのか)
(何より──なぜ、撤退したのか)
彼のような理性と直観を持つ男にとって
〝理由の無い行動〟は、最も不気味だった。
そして
そんな思考とは裏腹に
身体の芯には
ずしりとした重さが残っている。
手足の関節、呼吸の深さ、思考の回転──
どれも、鈍っていた。
ソーレンも同じように
肩で息をしながら煙草を踏み消す。
「⋯⋯あんだけぶっ壊してても
こっちにだってダメージはあるわけで⋯⋯」
「疲れたぁ⋯⋯
さすがに、ちょっと眠りたい⋯⋯」
レイチェルが地面に寝転がり
草の匂いを吸い込む。
「でもさ」
彼女は、倒れたまま目だけを空に向けた。
「こんだけやっても
まだ〝アリアさんを狙うには足りない〟
って⋯⋯私、ほんと、そう思う」
ソーレンも、時也も、黙って頷いた。
誰が相手だったのか、どこから来たのか。
それすら不明のまま
恐ろしく緻密に仕掛けられ
見事に〝疲弊〟だけが残された。
まるで──
彼らの強さと連携を
正確に見極めた者が、試したかのように。
「⋯⋯どこのどいつか、目的すら知らんが。
でも、俺らのこと⋯⋯
よく知ってる奴が仕組んだな、これ」
「えぇ。
⋯⋯まるで
舞台の上で踊らされていたような⋯⋯」
「なら、幕引きまでは⋯⋯気が抜けないね」
三人の視線が、闇の向こうへと向けられる。
そこには、何も見えない。
だが、その静寂の中で
確かに、誰かが
〝彼らを知っていた〟
という実感だけが残っていた。
コメント
1件
戦の跡を静かに清算し、穏やかな日常へ還る夜。 疲労に沈む喫茶桜の面々と、微笑みを交わす静かなひととき。 傷つきながらも、誰一人欠けることなく──安堵と祈りが、夜を包む。