雨が降っていた。
季節の変わり目にしては冷たすぎる雨だった。
午前二時過ぎ、玄関のチャイムが鳴ったとき、俺は机に突っ伏して眠っていた。
「白石圭介さんですね。警視庁の者です」
声の主は、傘の下に立つひとりの刑事――吉岡と名乗った。
彼が差し出した封筒の中には、一枚の写真。
川面に浮かぶ白い布。その下で、桜の花びらが揺れていた。
その日から、俺の世界は静かに崩れはじめた。
妹・美咲が“殺人犯”と呼ばれたのは、翌朝のニュースでのことだった。
美咲は内気な子だった。
他人の言葉に強く反応し、少しでも責められるとすぐに黙り込む。
それでも、俺にだけは笑顔を見せてくれた。
小さな湯呑みに紅茶を淹れながら、「兄さんは優しいね」と言う声が、今も耳の奥に残っている。
――だが、あの事件の夜だけは、何も言わなかった。
高城涼、大学のゼミ仲間。
彼が部屋で刺殺されたとき、美咲の指紋がナイフから検出された。
警察は早かった。
動機は「交際を拒まれたことによる逆上」。
証拠も、証言も、すべて彼女を指していた。
俺は信じられなかった。
信じたくなかった。
彼女の部屋を調べると、机の引き出しに古い手帳があった。
そこには、崩れた筆跡でこう書かれていた。
「兄さんは覚えていない。あの日、誰を殺したのかも。」
文字を追う指が、震えていた。
事件から三か月。
美咲は無実と判明した。
現場の血液型が一致しなかったのだ。
世間は早かった。
昨日まで“殺人犯”だった妹を、今日から“悲劇の少女”と呼んだ。
だが、俺の胸には重い影が残っていた。
退院した美咲は、何も話さなかった。
以前よりさらに静かになり、夜になるとベランダで空を見上げていた。
ある晩、俺は問いかけた。
「お前は本当に、誰も殺していないんだな?」
彼女は少し笑って言った。
「兄さん、それを知っているのは、兄さんだけだよ。」
その声の響きに、確かに何かが違っていた。
その夜、夢の中で俺は血のついた手を見た。
目を覚ますと、指先に赤い線が残っていた。
春が来た。
警察からの連絡は突然だった。
――妹が、遺体で見つかったという。
葬儀のあと、俺は遺品を整理した。
ノート、携帯、そして見知らぬ写真。
そこに写っていたのは、知らない部屋で笑う“美咲”。
カレンダーの日付は、事件の二年前。
その頃、彼女は遠くの大学にいたはずだ。
なのに、映っている部屋は、俺たちが今住んでいる部屋と同じだった。
部屋の壁に、古いメモが貼られていた。
「兄さん、私はあなたの中で生きている。」
その瞬間、全ての記憶が蘇った。
雨、血、床に倒れる男。
ナイフを握っていたのは――俺自身だった。
俺は、妹を作り出していた。
罪を押しつけるための“もうひとりの自分”を。
だが、刑事の言葉はすべてを覆した。
「白石美咲さんのDNAが、実際に確認されています」
幻ではなかった。
“彼女”は、確かにこの世にいた。
そして、どこかで、まだ息をしているのかもしれない。
記録者:警視庁捜査一課 吉岡修司
私は白石圭介という男を忘れられない。
彼の語る“妹”は、幻覚にしてはあまりにも現実的だった。
調書を読み返すたびに、妙な違和感が残る。
――圭介の供述と一致する防犯映像が、実際に存在したのだ。
そこには確かに、白い服の女が写っていた。
長い髪。表情は不明。
だが、映像の解析結果に、あり得ない数値が出た。
彼女の姿だけ、影が存在しなかった。
私は報告書にこう記した。
「本件、物理的説明困難。
白石美咲の存在は、観測時にのみ顕現するものと推定。」
最後の報告書を書いた夜、私の家の前に封筒が届いた。
中には、一枚の写真。
――カフェの前で、私と笑う“美咲”。
撮影日は、昨日だった。
春の風が街を撫でていく。
あの川辺には、もう桜の花びらさえ残っていない。
誰もいないはずの歩道を歩いていると、
ふいに肩を叩かれた。
振り返ると、そこには誰もいなかった。
風に乗って、かすかな声がした。
「兄さん、嘘はまだ終わっていないよ。」
振り向いた街のガラス窓に、ふたり分の姿が映っていた。
俺と、もうひとりの――“彼女”。
その笑みは、春の光よりも静かで、確かに生きていた。
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