「意味わかんない」
ホテルに着くと、スーツの上着とショルダーバックを傍らに放り出し、奈緒子はやけに沈むソファに腰かけた。
「私にムカつくことを言われた仕返し?」
視界が回る。
趣味の悪い壁紙も、無駄に星空が照射されている天井も、自分を見下ろしながらネクタイを外している男も、全てが回っていく。
「仕返し?まさか」
時崎は笑いながら、シュルシュルとそれを取って、壁にかかっているハンガーに引っ掛ける。
「ただ、面白い話を聞いて」
言いながら、1人分くらいの間を開けてソファに腰かけてくる。
「入社してからずっと違和感があったんですよ。他の人は女性も男性もみんな苗字で呼ぶのに、奈緒子さんだけ、なんで下の名前なんだろうって」
言わんとしていることが大体想像できて、奈緒子は僅かに顎を上げた。
「離婚したんですってね、3年前に。苗字が変わった奈緒子さんに気を使って、みんな下の名前で呼び始めたって聞きました」
ふんと鼻で笑う。
「それのどこが面白い話なのよ」
言うと、確かに数秒前まで一人分開いていたはずの2人の距離が詰められていた。
ソファの背もたれに長い時崎の腕が回り、数センチ斜め上からその切れ長の目がこちらを見下ろす。
「面白いですよ。だって、奈緒子さん、3年間もセックスしてないって事でしょ」
(――いや、そこイコールとは限らないでしょ。私だって、言い寄ってくる男の一人や二人、いないわけじゃないし、それに――)
触れた唇がくいと奈緒子の顎をもっと上に向かせると、一気に舌が入ってきた。
3年じゃない。もっと前。
元夫から最後にされた誰かの真似をした形だけのキスとは全く違う。
可愛がるように大切に、でも侵食するように強く、深い。
舌と唇がタッグを組んで、吸い付き絡めとり、嘗め上げ咥える。
いつだったか、女友達が「セックスよりキスの方が気持ちがいい」と言っていた。
それを聞いたときには「物理的にあり得ない」と笑い飛ばしたが。
(やばい、今なら、わかるかも……)
目を閉じると、なぜだか余計に目が回った。
落ちていくような感覚に、思わず逞しくて長い腕にしがみ付くと、時崎の両腕が奈緒子の小さな背中を包み込み、より一層激しく舌を絡ませる。
思わず漏れた声に、自分で驚き、身体が勝手に逃げようとする。
目を少しだけ開けた時崎がイラついたようにこちらを睨む。
背中に回していた手を後頭部に回し、ぐいと自分の顔に押し付けた。
後ろにはもう逃げられない。
奈緒子はその熱い穴の中に落ちるしかなかった。
シャワーを浴びてバスローブを羽織り、ベッドに足を投げ出して座ると、少し酔いが醒めた気がする。
壁の向こうからは少し乱暴なシャワーの音が聴こえてくる。
少しずつ頭が冷静になっていく。
これは、どういう状況なのだろうか。
時崎は独身だ。それは確かだが、彼女はいないのだろうか。
高身長、人相は悪いが笑うと今風の爽やかな男子に見えなくもない容姿、柔らかい物腰、そつのない仕事ぶり。
もし今特定の女がいなくても、女には不自由していないはずだ。なんで奈緒子とこんなことになっているのだろうか。
こき使われた腹いせ?
後腐れないだとうと踏んで一夜の遊び?
3年も男に抱かれていない身体に興味があって?
そもそも30を過ぎた女とセックスをしてみたいから、とか?
軽くドライヤーを当てたものの、まだ少し濡れているセミロングの髪の毛を撫でる。
というか、現実問題、できるのだろうか。
時崎と自分の腕の長さと太さの違いを思い出した。
比喩ではなく、本当に生き物として骨格が二人が、遺伝子を合わせる行為が出来る気がしない。
そもそも遺伝子が違いすぎるからこんなに差が出ているのに。
マイクロメーター単位の彼の精子でさえ、自分の卵子に入る気がしない。
ガタン ガタガタ。
シャワーをフックに掛ける音がした。
下着にバスローブを引っ掛けただけの自分の姿を見る。
(逃げるなら、今じゃない?)
壁にかかっている自分のブラウスとスーツを見つめる。
思わず立ち上がったところで、脳みそが急激に回り出した。
時崎はきっとパンツをはいて、ローブを羽織ってすぐ出てくる。
その間に、キャミソールを被って、ブラウスを羽織ってボタンを閉めて、スカートを履いて、ホックを留めてチャックを上げて、スーツを羽織ってボタンを閉めて……。
ダメだ、到底間に合わない。
バスルームのドアが開く。
髪の毛を拭きながら、一際大きく見える男が出てきた。
ワシワシと頭の水滴を拭きとると、そのタオルをカーペットの上に投げ出す。
湿気が籠るでしょうが―――。
そういう濡れているものをソファやカーペットなどに置くのは生理的に受け付けない。
(この男とは結婚できないな)
どうでもいい心配をしながら、奈緒子が目を細めて見ていると、時崎は自分もベッドによじ登ってきた。
男の体重でベッドが大きくへこみ、中央に座っていた奈緒子もバランスを崩して、伸ばしていた膝を折る。
そのバスローブから覗いた膝の裏から、大きな手が入ってくる。一気にその手は裏腿を滑りこみ、ショーツまでたどり着く。
「ちょっと、いきなり……!」
非難の視線に、挑戦的な視線がぶつかる。
「優しい前戯を期待してるんですか?」
ふっと笑いながら時崎がこちらを上目遣いに見つめながらバスローブを開く。
「あんた、俺みたいな男嫌いなんでしょ」
言いながら脹脛に唇を這わせ、ショーツのゴムに指を引っ掛ける。
「俺も、あんたみたいなイタイ女、嫌いです」
はっきりイタイ女と言われ、奈緒子は怒りと羞恥に顔が燃え上がる。
「誰がイタイ女なのよ」
時崎が笑う。
「自分では気づけませんか?誰が見てもイタイ女でしょう。
入社した年上の女性に意地悪をし、少し仕事ができる男性スタッフにはマウント取るためにこれ見よがしにアドバイスをする。
かと思えばよく回る頭と口で言い負かす。
誰よりも忙しい顔をして、ディスプレイから目を離さないで、キーボードを音を立てて叩いて。
業者さんも言ってましたよ。仕事を請け負う側なのに、いつも物の言い方がどこか威圧的だって。
性格の悪さが声に染み出してるって」
衝撃と怒りで身体が震える。
何と言っていいのか頭が回らないうちに、ショーツに引っ掛けた指に力が入る。
「入ったばかりの新人が、出社拒否しているのに、電話の一本もかけない。アパートも会社のすぐそばなのに、帰りに寄ってみることもしない。
心折れて会社に来なくなったのは、長井さんだけが悪いんですか?
右も左もわからない長井さん、俺には頑張っているように見えましたよ?」
一気にショーツが膝まで引き下ろされる。
「でももう俺には関係ない。あんたなんかがいる会社、辞めるんでね」
奈緒子の片足を軽々と担ぐと、ショーツを抜き取った。
「嫌いな者どうし、快楽だけを求めるセックスしましょ?」
言いながら、怒りでまだ震えている奈緒子の唇を奪いながら、大きくて熱い手が内腿を滑り上がってくる。
「バカにしないで。帰る」
顔を背けながらその厚い胸を押し返す。
「バカにしないで、ですか」
時崎は、押し返されないように背中に手を回して引き寄せた。
「バカにしますよ。だって、奈緒子さん。こんなになってるから」
奈緒子は時崎が股間から上げた手を見て、「えっ」と声を上げた。
長い指は、暗い照明でもはっきらわかるほどに光っていた。
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