「コルル……待ってくれコルル! 君はどうして機神と――」
呼び止める声に一切耳を貸さず、コルルは森の奥深くへと消えていく。
聞きたい事は山程あったが、今は少女の余韻に浸っていると、ふと足音が聞こえてきた。
「驚いたなぁ。まさかこんな森の外側で、あの“神の花嫁”を見られるなんて」
ヒョコヒョコと杖をつきながら現れたのは、実に奇妙な人物だった。
声からしてややフェミニンな少年なのだろうが、ちょっと声が低いボーイッシュな少女と言われたらそう信じるだろう。一方で大人びた少年の様にも見えるが、童顔の青年にも見える。
こちらでは珍しいくすんだ土色の肌を旅装束で包み、軽薄という言葉を張り付けたような薄っぺらい笑みを浮かべた不可思議な少年は、遠慮なくズカズカとミツキの傍に寄ってきた。
「あれれぇ、僕が仕掛けた罠壊れてるや。おっかしぃな、小物なら簡単には逃げられない強度だったんだけど。ねぇお兄さん、不思議だよねぇ。何か知らない?」
「……さぁな。俺も今来た所だから。一つ聞きたいんだが、どうして君は機神を――」
「僕の名前? ロキって言うんだ。よろしくね。えーっと?」
「よ、よろしくロキ、俺の名はミツキ、今はヴアルの町で世話になってる」
右手を差し出すロキに応じようとしたものの、罠を壊した後ろめたさからか、ミツキは一瞬右手を強張らせ、差し出された手には応じなかった。
ロキは空ぶった右手をどうでもよさそうに引っ込めると、心底愉快そうに微笑む。
「その右手、キシンの呪いだね? 噂は色々聞いているけど、実際見るのは初めてだ」
ミツキの心を見透かす様に笑うロキは、もう興味がなくなったのか、それまで手先でいじくっていた虎挟を放り捨て、這い寄る蛇の様にミツキの右手側に回り込む。
「噂って、たとえばどんな?」
「う~ん、僕も詳しくは知らないけど……」
勿体ぶったロキはニヤニヤと笑みを浮かべた後、心の奥まで踏み込んでくる様に囁く。
「このままだとミツキさん、あと半年位で死んじゃうよ」
「……どうすればいい?」
「教えてあげてもいいけど、どうしよっかなぁ……な~んて、うそうそ」
クツクツと微笑んだロキは、スッと森の奥深くを指差した。
「ミツキさん、イグドラシルを探すんだ。呪いを解くにはそれしかないよ」
今自分は夢の中にいる。そう確信出来たのは、ヴアルではなく我が家のリビングにいたからだ。
これは夢だ、だから大丈夫……そう何度も言い聞かせるミツキの右腕から、内側から肉を食い破るコードが黒い狼を象り、鼻息荒く獲物を求めていた。
【痛イ、憎イ、熱イ。血ヲ寄越セ。神ノ赤イ血ヲ……痛イ、憎イ、熱イ】
黒い管で形成された牙が、肩口からゆっくりとミツキの首に食い込む。ブヨブヨとした牙は痛み以上に熱さが不快で、そこから注ぎ込まれる憎しみが容赦なく心を蝕んでくる。
――これは夢だ、だから大丈夫。また半年はもつ筈だ……。
逃げたくてもケーブルは身体から生えているのでどうにもならない。
だからミツキに出来る事は、一刻も早く夢から覚めろと祈る事だけだった。
――痛イ……これは夢だ……憎イ……だかラ大丈夫……熱い……コれハ夢ナンだ……。
狼と溶け合いグチャグチャになったところで、ようやくミツキの目が覚めた。
汗を吸って重くなった掛け布団を押し退け、全身の脂汗を拭うように上着を脱ぎ捨てる。
その時だった。信じられない事に気付いたミツキは、唖然と自分の肩を凝視する。
「呪いが、もう肩まで……」
見たくないものから目を背ける様に、脱いだ上着を手繰り寄せ顔を覆う。
全身から熱が抜け落ち、冷静になった頭が、昨晩のロキの言葉を思い起こさせた。
「もってあと半年……それまでに呪いを解かなければ、俺は死ぬ」
肩口からちらつく死の恐怖で身が竦むも、怯えている暇などない。それに、悪いニュースばかりではない。まだあの少年の言葉を鵜呑みには出来ないが、それでも指針は与えられた。
いい加減寒くなってきたので、汗で濡れて不快ではあるが、湿った上着を着直す。
それとほぼ同時に、朝食を持ったラクスが、元気よく入室してきた。
「おはようございますミツキ様! 昨夜はよく眠れましたか?」
「おはようラクス。焚いてくれたお香がいい匂いで、おかげで朝までぐっすりだったよ」
満足そうに配膳するラクスに、ミツキは「その分寝汗がびっしょりだ」と茶目っ気たっぷりに微笑むと、風邪でも引いたら大変だと慌てたラクスは、着替えを取りに退室していった。
そう、昨夜ミツキはどこにも行かなかった。そういう事にしようと言うロキの提案に従い、ミツキはロキの仲間に匿われヴアルに帰り、人知れずラクスの家に戻ったのだ。
しかも、帰還に協力する見返りにロキが提示した条件はたった一つ。“次会ったら、初対面のフリをする事”、これだけである。
思い返せば返す程気味の悪い、それでいて引き込まれる雰囲気を持った不思議な少年だった。
特に去り際の一言は、およそ無視出来ない重みを持っていた。
「イグドラシル……一体なんなんだ? 薬か何かなのか?」
ロキとはすぐ別れてしまったので、どこをどう探せばいいのかまでは聞けなかった。しかし、この世界に来て初めてミツキは目標を持つ事が出来た……今はそれに、縋ってみようと思う。
朝食後、ラクスを伴いミツキが向かったのは町の図書館だった。文化や歴史、習慣などこちらの世界を学ぶ上で、これ以上の場所はない。もっとも、何故か会話だけなら問題ないが、ミツキはこちらの文字が分からないので、読んで貰う必要があるのだが。
図書館に向かう道中、メインストリートがいつもより活気だっているなと眺めていると、すかさずラクスが説明を挟んでくれた。
「輸送ギルドの方々が帰ってきたみたいですね。今晩の食事は腕によりをかけちゃいますね」
「そりゃ楽しみだ。ラクスは料理が上手いからな、いいお嫁さんになるよ」
「本当ですか? 嬉しいです! 日頃からお手伝いしてきた甲斐がありました」
最近ようやく掴んできたが、どうやらこちらには役所に該当する組織が存在しないらしい。
ギルドという山師の集団が、商業や医療施設、はては町の防衛等も独自で運営しているのだ。
「でもラクスも大変だな。山師じゃないのに、手伝いで遺跡にまで駆り出されるなんて」
「一般町民はギルドのお手伝いをする見返りに恩恵を得る。持ちつ持たれつですよ。それに、そのおかげでミツキ様と出会えたのですから、むしろありがたい位です」
「トラブルは起きないもんなのか? 上に立って仕切る人がいないんじゃ、利益を独占する奴や、サボる奴が出てくると思うんだが」
「そうでしょうか? 皆が好き勝手な事をしたら町が成り立ちません。そうなって困るのは結局自分達です。ならば各自の役割を果たすのは当然の義務でしょう?」
「仰る通りだ。ぐうの音もでない正論だが、俺の世界じゃそういう風に思ってる奴は、あまりいなかったな。皆自分が楽する事しか考えてなかったよ」
「素晴らしいじゃないですか。誰もが働かずとも戦わずとも成立する世界。やはり赤い血の神々が楽園で暮らしているという言い伝えは本当だったんですね」
瞳を輝かせるラクスは、きっと皮肉ではなく正直な気持ちだったのだろう。こちらの世界はあまりにも余裕がなく、だからこそ無駄がない。文字通り働かざる者食うべからずなのだ。
誰もが正しく社会に参加し、誰もが必要とされる世界……あまりにも不謹慎なので口には出せないが、正直ミツキは少し羨ましかった。
はたしてミツキは、日本でどれだけ必要とされていただろうか?
勤勉ではあったので職場で頼られる事は多かったが、それは必要とされている訳ではない。
こうして急に失踪してしまったが、きっと他の誰かの負担が増しただけで、ミツキがいなくなって何かが成立しなくなるという事はないだろう。ましてや家庭では……、
「ミツキ様? 御気分が優れない様でしたら、少し休憩なさいますか?」
「……いや、大丈夫だ。なんでもないよ」
心配そうにこちらを見上げるラクスを他所に、ミツキは渋い顔でずんずんと進んでいく。
ふと気づいてしまったのだ。必要とされていないのはこちらでも一緒ではないかと……今のミツキは崇められているだけだ。役割など、何も無い。
初めの頃は仰々しい挨拶にやれ座布団だの飲み物だの、露骨な特別待遇に辟易させられたものだが、通い慣れてきた証か、図書館の受付は軽く会釈しただけで奥に通してくれた。
ロキの言っていたイグドラシルが何かは分からないが、真っ先に調べるべきはやはり神話だろうと探してみると、拍子抜けする程あっさりと目当ての物が見つかった。
「あらゆる命を内包するイグドラシルの赤い生き血は、万病を癒し不老不死を与える、か……」
「伝承によると、この地域の遺跡に眠っている可能性が高いそうです。ミツキ様も最初は、イグドラシルなんじゃないかって言われてたんですよ?」
「期待させて悪いが、俺の血なんて飲んでも感染症になるだけだぞ」
「勿論そんな恐れ多い真似しませんよ。昔から神様の血を飲むのは禁忌とされていますから」
禁忌じゃなければ今頃ミイラになっていたかもしれないと、内心怯えるミツキ。
何故だか知らないが、最初に決めた者に感謝しておく事にした。
「何か他に記述はないか? どんな形とか、どんな遺跡に眠ってるとか」
「森の遺跡のどこかに、更に奥に通じる洞窟があって、そこには人を寄せ付けない深ぁい谷があるんだ。イグドラシルの揺り籠って呼ばれてるんだけど、いるならそこだろうね」
会話に混ざってきた幼い声を聞き、ミツキは人知れず目を見開く。
愉快そうに現れたのは、昨夜出会ったばかりの少年ロキだったのだ。
「どもども、最近よく来るって噂のお兄さんかな? 僕はロキ、ギルドレイヴンの山師だ」
「初めまして。私の名はラクス、こちらはお客人のミツキ様といいます」
白々しく挨拶してくる少年に、お行儀よく頭を下げるラクスに倣いミツキも軽く会釈する。
「お嬢さんに伝言だよ。お屋敷の人達がすぐ来てくれってさ。受付で待って貰ってる」
心当たりでもあるのか特に驚きもせずに頷くと、ラクスは少々待つよう頼み駆けていった。
「……再会するだろうとは思っていたが、まさかそっちから声を掛けてくるとはな」
「びっくりしたでしょ? 我慢するミツキさんの顔、傑作だったなぁ」
まさか本当に、ただの悪戯であんな条件を提示したのだろうか?
目的が分からず訝しむミツキの視線を躱し、ロキは相も変わらず軽薄な笑みを浮かべる。
「それにしても、ちゃんとイグドラシルを探しにきたんだね。感心感心」
「まさか本気で神がいるとでも思っているのか? ただの言い伝えなんだろ?」
「いるよ。フェンリル一族が隠してるけど、森のどこかに必ず」
煙に巻く様な喋り方ばかりするロキが、珍しく断言した口調はどこか冷徹で、子供特有の無邪気さを持ちつつも、不思議と戯言と聞き流せない一種の凄みを纏っていた。
「それで? ギルドはどこに入るか決まった?」
「山師になれって事か? そこまでしなくても、山師の付き添いで外に出――」
「今のままじゃ、ミツキさんは決して外に出れないよ。それがこの町の意思だから」
まただ。生暖かい戯言に挟み込まれる氷の様な一言。あまりの温度差についつい聞き入ってしまうその言葉は、信じられなくも嘘だと切り捨てる事も出来なかった。
「……だったら、どうすればいい? ロキのギルドにでも入ればいいのか?」
「うちみたいな弱小じゃ町には歯向かえないよ。でも、彼の率いるギルドなら別だ。ヴアルの防衛を一手に担う“神殺しの焔”と、ルシャ=ヴォータンには誰も逆らえない」
「そんな物騒なギルドに、俺みたいな余所者が入れるのか?」
「紹介状を出してあげるよ。彼とはちょっとした知り合いでね。まぁそんな物なくても、ルシャは実力至上主義のゴリラみたいな奴だから、ミツキさんが誰であろうと差別しないけど」
「そりゃありがたいが……見返りはなんだ? 俺に出来る事なんてそうないぞ」
「そんなの気にしないでいいよ。僕とお兄さんの仲じゃないか……常連さんへのサービスさ」
意味深に微笑むロキに見送られ、町の中央部に向かう道すがら、ラクスはずっと不機嫌そうに頬を膨らませていた。普段大人びているだけに、拗ねた顔は珍しく年相応に見える。
「な、なぁラクス……勝手に話を進めたのはすまないと思ってるから、機嫌直してくれないか?」
「別に! 私如き、ミツキ様にご意見出来る立場ではありませんので! お気になさらず!」
――参ったな……こんな時、花夜だったらどうすれば許してくれたっけか。
頭を捻ってみるも妙案は浮かばず、そうこうしている内に目的の建物に着いてしまう。
「ここがギルドの本部か……この町自体そうだけど、まるで砦だな」
一筋縄ではいかなそうな雰囲気を感じつつ、ミツキは恐る恐る戸を叩いた。すると、
「む……ここがどこか分かっているのか? 親子でピクニックがしたいなら他所へ行け」
ノックに応じた、というより丁度建物から出ようとしたのは、艶のある長髪が美しい妙齢の女性だった。野蛮そうなギルドなだけあり右眼は眼帯で塞がれ、残った左眼だけでも射殺しそうな視線を放ち、呆けるミツキに無言で「どけ」と強く訴えかけてくる。
「邪魔してすみません。ここにはレイヴンのロキからの紹介で来たんです」
ロキの名を聞いた途端、眉間の皺が更に深くなった女性は、紹介状を文字通りふんだくると、露骨に不機嫌な視線で手紙を読み始めた。
「あの、ルシャという男性にお会いしたいのですが、今御在席でしょうか?」
「……私だ」
「え? すみません、今なんて――」
「ルシャ=ヴォータンはこの私だ。悪かったな、男でなくて」
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