テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
闘技場の喧騒が
ようやく落ち着きを取り戻す深夜過ぎ――
倉庫の裏口
薄暗く錆びついた鉄扉の影に
一人の男が立っていた。
艶のある黒褐色の髪に
乱れ一つない着物姿。
場にまるで
似つかわしくないその佇まいにも関わらず
誰一人として
声をかけようとは思わなかった。
その空気が
圧と気品で張り詰めていたからだ。
時也は
腕を組んだまま静かに待っていた。
扉の向こうから
戦いを終えた男達が出てくる。
酒に酔った声。
勝者の誇り、敗者の怒り。
それらが混ざった匂いの渦の中――
ようやく⋯⋯彼が現れた。
背は高く
肩で風を切るように無言で歩く姿。
ぶっきらぼうな面影を残したまま
ソーレンが群れを抜け、歩いてきた。
「⋯⋯ほんと
なんで来やがったんだよ⋯⋯」
苦々しげに呟いた声は
明確な非難よりも、照れに近かった。
だが
振り返ることもせず
そのまま歩き続ける。
時也は
それに合わせるように歩き出した。
あくまで自然に
何もなかったように
ソーレンの横に並ぶ。
二人の歩む先は――
静かに夜の街を抜けて
喫茶 桜の方角だった。
月は高く、白く
街灯を照らすように通りを染めていた。
「ふふ。お疲れ様です。
格好良かったですよ」
時也の声は
穏やかでどこか嬉しげだった。
ソーレンは一瞬だけ眉をひくつかせたが
言葉にはせず
ただ短く言い捨てた。
「⋯⋯うるせぇ」
それきり、もう何も話さなかった。
何も言わない。
けれど、それでもいい。
どうせ全部
心の中まで読まれているのだろうと
ソーレンは思っていた。
語らずとも、知られている。
怒りも、焦りも、恐怖も――
だからこそ、何も言いたくなかった。
それでも。
「言ってくだされば
いつでもお付き合いしますのに」
その言葉に
ソーレンはわずかに足を緩めた。
視線は前のままだ。
けれど
その眉間には、別の色が浮かんでいた。
「鍛錬とはいえ
身内にガチで殺気向けるのって
難しいんだよ」
言葉は、かすれるように出た。
けれどその響きは
先ほどの罵声とは違っていた。
「最近、ハンターが増えてやがる⋯⋯
勘を鈍らせる訳にはいかねぇからな」
その言葉に、時也は僅かに頷いた。
闘う者が持つ感覚。
命を懸けた場所でしか
研ぎ澄まされない本物の生と死の気配。
それを
ソーレンは夜の闘技場でしか養えないと
知っているのだ。
それは
誰にも言わず
誰にも見せずに――
ただひとり
自分の役目として背負い込んだ覚悟だった。
夜風が静かに吹く。
二人の歩く足音だけが
月下の石畳に吸い込まれていく。
その背中には
何も語らずとも通じ合う
守る者と、支える者――
静かで強い絆があった。
「⋯⋯本当に、水臭いお人ですね」
時也の声は
夜気に溶けるように柔らかかった。
彼は着物の袖口から煙草の包みを取り出し
一本を口に咥えると
静かに火を灯す。
赤く燃える先端が
月明かりの中で仄かに揺れた。
そして、もう一本──
ソーレンの前に差し出す。
「⋯⋯歩き煙草は
しねぇんじゃなかったか?」
横目に睨むようにしながら
ソーレンが受け取る。
口元には棘があるが
その手つきは、受け取り慣れていた。
「ふふ。
人通りがまったくない今は、別でしょう?」
そう言って、時也は軽く煙を吐く。
それは淡く
どこまでも静かな夜に似合っていた。
ソーレンは鼻を鳴らすと
煙草に火をつける。
その仕草すら、どこか気怠く
けれど満たされたようなものだった。
「⋯⋯ま、今度また、組手の相手しろよ」
「えぇ、喜んで」
短いやりとり。
だが、それで十分だった。
二人は並んで歩き出す。
肩と肩が触れぬ
微妙な距離を保ちながら
確かに隣を歩いていた。
喫茶桜の暖かな灯りが
ゆっくりと近付いてきていた。
⸻
そしてまた、別の夜。
ソーレンは、そっと自室の扉を開ける。
呼吸を押し殺し
足音ひとつ立てずに廊下を渡ってゆく。
部屋を出て廊下を進むと
時也とアリアの部屋の扉に耳を寄せる。
(⋯⋯今夜は、来ねぇよな)
音はしない。
気配も、反応もない。
ようやく安堵を胸に
ソーレンは外へ出ていった。
そして――
その夜もまた
地下のリングで勝ち進んでいく。
静かに、鋭く、無駄のない動きで
一人また一人と
相手を地に伏せていくソーレンの闘いは
もはや鍛錬ではなかった。
それは確認――
今の自分に何ができるのか
何が足りないのか。
自分自身の中の
闇と誇りとを向き合わせるための
儀式だった。
「続いての挑戦者ァ――ッ!」
場内に再び響くコール。
いつものようにリング中央で
ソーレンは汗を拭う。
そして
対戦者の入り口から姿を現したのは――
「⋯⋯は?」
藍色の着物姿。
左右の袖を襷で綺麗に束ね
整った黒褐色の髪。
端整な面差しに
静かで落ち着いた笑み。
――時也だった。
「⋯⋯なんで、いんだよ⋯⋯」
目を見開いたソーレンが、呆然と呟く。
まるで
あり得ないものを見たかのように。
それでも
相手は笑顔を崩さず、静かに頭を下げた。
「ふふ。
先日、受付を済ませておきました。
よろしくお願いいたしますね?」
その口調は
いつもと変わらぬ穏やかさだったが
目には確かな覚悟が宿っていた。
リングの中心で
二人の間に張り詰めた空気が走る。
ソーレンは、思わず口の中で舌打ちした。
息が詰まる。
(⋯⋯ふざけんなよ⋯⋯っ
来んなよ、マジで⋯⋯!)
怒りに似た感情が
喉の奥からじわりと湧き上がる。
それでも逃げることはできない。
時也は、一礼しながら静かに構えた。
上段に手を置き、腰を落とし
体の中心に意識を集める――
合気道の構え。
対するソーレンは
脚を広げ、両拳を肩の高さに構える。
総合格闘技の構え。
突き、蹴り、投げ
すべてを許す実戦の姿勢。
「⋯⋯始めッ!」
審判の合図が会場に響く。
しかし、どちらも直ぐには動かない。
探るように視線が絡み合い
静かな緊張がリング全体を支配する。
――これは、戦いではない。
言葉の代わりに拳で語る
沈黙の対話だった。
コメント
1件
静寂を裂き交わされる、拳と理。 獣の本能と神域の技が、命を削り合う。 ただ勝敗ではない、魂ごとぶつけ合う夜。 観る者すら息を呑む、孤高と覚悟の交差──