テラーノベル
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次の国へと向かう道中、森の空気は急激に冷え込み、視界を白く塗りつぶしていった。「霧が濃くなってきたな……」
「ええ、ゆっくり進みましょう。箒(ほうき)で飛ぶのは危険だわ」
私たちは地面に降り立ち、手探りで歩き始めた。その霧は不自然なほどに重く、肺の奥まで湿った冷気が入り込んでくる。
「ただの霧じゃない。……おい、手をつなごう。はぐれたら最後だぜ」
「ええ……。お願いします、カレン」
カレンの、少し節くれだった武骨な手が、私の震える指先を力強く包み込む。先の見えない白濁とした世界。心細さに押しつぶされそうになったその時、鼻腔をくすぐったのは、かつて愛した人の懐かしい香油の匂いだった。
「待ってたよ、水の魔女……。ずっと、君を探していたんだ」
霧の向こうに、あの日、私の身代わりとなって村人の刃に倒れた恋人、シオンが立っていた。
「シオン……? 嘘よ、だってあなたは……」
「シオンだと!? おい、惑わされるな!」
カレンの怒声が遠のく。私の瞳には、生前と変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべ、透明な光を纏う彼の姿しか映っていなかった。彼は愛おしげに手を差し出し、霧の奥へと誘うように後退していく。
「待って、行かないで、シオン! 私を一人にしないで!」
「よせ! 行っちゃだめだ! そいつは偽物だ!」
カレンの制止を振り払い、私は彼を追いかけようと駆け出した。しかし、繋いだ手は離れない。
「離してカレン! 彼は生きているの、そこにいるのよ! 離して!」
「落ち着け! そいつは死んだんだ! お前が一番よく知ってるはずだろ!」
カレンの悲痛な叫びすら、今の私には愛を引き裂く呪詛にしか聞こえなかった。私は狂乱し、無理やり手を振り払おうと、指先に魔力を込める。
その時――カレンが私を正面から、壊れそうなほど、そして痛いほど強く抱きしめた。
「……行くな。私が、ここにいる。お前の隣に、生きて立ってるだろ」
その低く、微かに震える声が耳元に届いた瞬間、シオンの姿が歪み始めた。
穏やかな微笑みは裂けた口へと変わり、温かかった光は泥のような悪臭を放つ闇へと変貌する。それは、不老の時を生きる魔女の心に澱(よど)む「癒えない後悔」を苗床にする、霧の化身だったのだ。
シオンの残像が霧に溶けて消えた瞬間、私は、彼を失った気持ちで胸がいっぱいだった。
「ああ……あああああ……っ!」
正体に気づいた絶望と、今度こそ彼を永遠の彼方へ見送ってしまった喪失感が同時に襲い、私はカレンの胸に顔を埋めて泣き崩れた。
どれだけ時間が経っただろうか。
涙が枯れ、顔を上げると、あれほど深かった霧は嘘のように消え去っていた。
私は、自ら命を断つことすら許されない魔女。
人間とは違い、愛する人の死を幾度も、何百年も背負って生き続けなければならない呪われた存在。
カレンは何も言わず、ただ、再び私の手を握り直した。
その手は、先ほどよりも少しだけ力がこもっていて、彼女自身もまた「私を失うこと」を恐れていたのだと、肌を通じて伝わってきた。
「ありがとう、カレン。……ごめんなさい」
「別に、……平気だ。行こうか。お前がいつか、今のことも忘れるくらい遠くまでさ」
シオンがいなくなって、ずっと私の時間は止まったままだった。
けれど今、隣で不器用に手を引いてくれる彼女の温もりだけが、私を「今」という残酷で愛おしい時間に繋ぎ止めている。
私たちの、終わりのない旅が再び始まった。
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