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ととせ
「アイリスさん、また貴族の屋敷から注文が来てますよ!」
ルカが、果実の箱を抱えながら笑っていた。
「“風の輪パイ”、今や貴族の集まりには欠かせないってさ」
カイが、皿を磨きながら言った。
私は、少し照れながらパイ生地を伸ばしていた。
「ただのパイなのに…風って、どこまで届くんでしょうね」
そのとき、酒場の扉が静かに開いた。 入ってきたのは、王宮の使者だった。
「アイリス殿。ヴェルディア王宮より、正式な招待状をお持ちしました。 王子殿下が、あなたの“風の味”に興味を持たれたとのことです」
私は、手を止めた。
「王宮…ですか?」
「はい。貴族の間で広まった“風の輪パイ”が、王族の耳にも届きました。 殿下は、あなたの空気の通し方に一目置かれているようです」
その言葉に、酒場の空気がふわりと揺れた。
「アイリス、ついに王宮か…」
ミラが、紅茶を飲みながらぽつりと呟いた。
「でも、王宮にいたことは伏せてるんですよね?」
ルカが心配そうに言った。
「うん。今の私は、ただのパイ屋です。 風を通す者として、素直に向き合うだけです」
数日後、私は王宮へ向かった。 ヴェルディアの王宮は、白い石造りで、静かな風が流れていた。
「アイリス殿、お待ちしておりました」
案内された広間には、若い王子が立っていた。
彼の名は、シリル。 穏やかな瞳と、どこか風を読むような静けさを持っていた。
「君が、あのパイを焼いた人か」
シリル王子は、微笑みながら言った。
「はい。名前を呼び合うことで、空気が整うんです。 それを、パイに込めて焼いています」
「面白い考えだ。 我が国は、風が止まって久しい。 君の風が、少しでも揺らしてくれるなら――それは、価値がある」
私は、果実パイを差し出した。
「渋みもあります。 でも、芯は甘いです。 それが、私の焼き方です」
シリル王子は、一口食べて、目を細めた。
「…確かに、芯が優しい。 君の優しさ、気に入ったよ」
その言葉に、私は胸が少しだけ温かくなった。
王宮の空気は、まだ重たい。 でも、風は確かに届き始めていた。
王宮の庭園は、静かだった。 果実の木々が揺れるたびに、風が少しだけ香りを運んでいた。
私は、焼きたてのパイを籠に入れて、シリル王子のもとへ向かった。
彼は、白い石のベンチに腰かけ、遠くを見つめていた。
「今日のパイは、芯を少し甘くしてみました。 風が通るように、優しく焼いてあります」
シリルは、パイを受け取りながら、静かに言った。
「君の風は、いつも柔らかい。 でも、僕の周りは…風が通らない」
悲観的な言葉、とても悲しそう。
私は、隣に座りながら尋ねる。
「何か、あったんですか?」
シリルは、しばらく黙っていた。 そして、ぽつりと呟いた。
「父は、民を見ていない。 彼にとって民は、数字でしかない。 声も、顔も、名前も…空気の一部ですらない」
私は、パイを一口かじりながら言った。
「それは…風が止まっている状態ですね。 空気が重くて、誰も呼吸できない」
「僕は、そんな空気を変えたい。 君のように、名前を呼び、話を聞き、風を通したい」
その言葉に、私は目を見開いた。
「シリル王子…それは、簡単なことではありません。 でも、風は誰でも起こせます。 名前を呼ぶだけで、空気は揺れますから」
シリルは、パイを見つめながら言った。
「君のパイが貴族の間で広まったのは、味だけじゃない。 君が風を通したからだ。 僕も、そんな風を起こしたい。 父とは違うやり方で、民と向き合いたい」
私は、そっと頷いた。
「それなら、まずは名前を呼んでみてください。 誰か一人でも、心を開いてくれたら――風は通ります」
シリルは、静かに笑った。
「君の風、僕の空に届いたよ。 今度は、僕が誰かの空に風を吹かせる番だ」
その夜、王宮の空気は少しだけ揺れた。 王子の心に風が通り、止まっていた空気が動き始めた。
ヴェルディアの王宮の一角に、民との対話の場が設けられた。 それは、シリル王子が自ら準備したものだった。
「名前を呼び合い、声を聞く。 それだけで、空気は変わるはずだ」
彼は、そう言って、広間の扉を開いた。
私は、果実パイを並べながら、空気の流れを感じていた。 町の人々は緊張しながらも、少しずつ集まり始めていた。
「アイリスさんのパイがあるなら、話すのも悪くないかも」
「名前を呼ばれるって、こんなに嬉しいんだな」
風は、確かに通り始めていた。
そのとき――広間の奥の扉が、重々しく開いた。
「…何の騒ぎだ」
現れたのは、ヴェルディア王。 シリル王子の父であり、民を“管理対象”としてしか見ていない男。
空気が、一瞬で凍った。
町の人々は言葉を失い、貴族たちは顔をこわばらせた。 シリル王子は、静かに立ち上がった。
「父上。これは、民との対話の場です。 彼らの声を聞き、町の空気を整えるためのものです」
王は、冷たい目で広間を見渡した。
「民の声など、風に流れるだけのもの。 空気を整える? くだらん。 王族が民に頭を下げるなど、秩序を乱す行為だ」
私は、パイ皿をそっと置いた。 空気が重い、私も口が重くなる。
でも、止まるわけにはいかない。ここが私の戦場だもの。
「王様。 風は、誰かが頭を下げることで通るものではありません。 名前を呼び合い、声を聞くだけで、空気は柔らかくなります」
私の言葉を聞いた王は、私を見下ろすように口を開く。
「貴様は何者だ。 王族でもない者が、風を語るな」
シリル王子が、静かに言った。
「彼女は、ただの平民です。でも、誰よりも空気を整える力を持っています。私は彼女を始めてみた時に軽くなるのを感じたんです」
王は、しばらく黙っていた。 広間の空気は、張り詰めたまま。
でも――その中で、誰かがぽつりと呟いた。
「美味しいです。アイリスさんのパイ、今日も芯が甘くて」
その言葉に、空気が少しだけ揺れた。
王は、広間を見渡し、静かに言った。
「…風など、気まぐれなものだ。 だが、その気まぐれが秩序を乱さずに空気を柔らかくするのなら――見届ける価値はあるかもしれんな」
そして、彼は広間を後にした。
その瞬間、空気がふっと軽くなった。
シリル王子は、深く息を吐いた。
「…風が、言葉が通ったかもしれない」
私は、パイを差し出しながら言った。
「王様も何かを感じてくれたのかも。少し思うところがあったから聞いてくれた」
その日、王宮の空気は確かに揺れた。 止まっていた風が、少しだけ動き始めたのを感じた。