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『一目惚れ』
「……全部、話して」
俺がそう言うと。
れんはしばらく黙っていた。
隣では、なぎが俯いている。
さっきまで俺を連れ戻そうとしていたのに。
今は何も言わない。
「……みすず」
なぎが小さく俺の名前を呼ぶ。
俺は振り返らなかった。
「俺、知りたい」
「……何を?」
「なぎが、どうして俺をここに連れてきたのか」
その言葉に。
なぎの肩がわずかに揺れた。
れんが静かに口を開く。
「……一目惚れだ」
「え?」
思わず振り返る。
れんはなぎを見る。
「こいつは、お前に一目惚れした」
「……」
なぎは何も言わない。
ただ、苦しそうに目を閉じている。
「いつ?」
「かなり前だ」
「……俺が、なぎと会ったのって……」
「お前が覚えているより前だ」
「……」
頭が混乱する。
俺はなぎを見る。
「本当なの?」
なぎは答えなかった。
「なぎ」
「……本当」
やっと聞こえた声は。
驚くほど小さかった。
「僕は……みすずを見たときから」
なぎが顔を上げる。
その目には、今まで見たことのない色が浮かんでいた。
「好きだった」
「……」
「初めて見たときから」
胸がざわつく。
「でも、僕は声をかけられなかった」
なぎは苦しそうに笑った。
「みすずは僕のことなんて知らなかったし」
「……」
「僕なんかが話しかけても、きっと迷惑だと思った」
「そんな……」
「だから、遠くから見てた」
その言葉に。
背筋が少し冷たくなる。
「毎日じゃない。でも、みすずがどこにいるのか探して……」
なぎの指が震える。
「今日もいるって確認できるだけで嬉しかった」
「……なぎ」
「笑ってるところを見るだけで幸せだった」
そこで、なぎは一度言葉を止めた。
「でも」
その声が低くなる。
「ある日、怖くなった」
「何が?」
「みすずが、誰かと話してた」
「……」
「楽しそうに笑ってた」
なぎが俺を見る。
「その人が、僕じゃないことが嫌だった」
「……」
「僕の知らない人と笑ってるのが嫌だった」
れんが眉を寄せる。
「そこからだ」
「……何が?」
「なぎがおかしくなったのは」
なぎは否定しなかった。
「僕は……みすずが誰かのものになるのが怖かった」
「俺は誰のものでもないよ」
「分かってる」
即答だった。
「頭では分かってた」
それなのに。
なぎは笑った。
泣きそうな笑顔だった。
「でも、心が分かってくれなかった」
「……」
「みすずが誰かと仲良くするたびに、僕じゃなくてもいいんだって思った」
拳を握る。
「僕じゃなくても笑えるんだって」
「……なぎ」
「だったら」
なぎが呟く。
「僕のところから離れられなくすればいいって思った」
空気が止まった。
「……え?」
「そうすれば、みすずは僕のそばにいる」
なぎの声は震えている。
「僕だけを見てくれる」
「だから……」
「うん」
なぎが頷く。
「連れてきた」
俺は言葉を失った。
れんが静かに続ける。
「俺は止めた」
「……」
「何度も」
なぎがれんを見る。
「でも、こいつは聞かなかった」
「だって」
なぎが初めて、れんに言い返した。
「だって、怖かったんだ」
「……」
「みすずが僕の知らないところへ行くのが」
声が震える。
「僕のことを知らないまま、誰かを好きになるのが」
「だから監禁したのか」
れんの声は冷たかった。
なぎは俯く。
「……うん」
「みすずが嫌がっても?」
「……」
「怖がっても?」
「……」
「外に出たいと言っても?」
長い沈黙。
「……それでも」
なぎの目から、涙が落ちた。
「離したくなかった」
胸が苦しくなる。
「最低だよね」
なぎが笑う。
「僕も分かってる」
「……」
「みすずが嫌がってることも」
「……」
「僕がしてることが間違ってることも」
それでも。
なぎは俺を見る。
「好きなんだ」
その言葉だけは。
迷いがなかった。
「初めて見たときから、ずっと」
俺は何も言えなかった。
なぎが一歩近づいてくる。
「だから、みすず」
「……」
「僕のことを嫌いになってもいい」
「なぎ……」
「怖がってもいい」
なぎの目から、また涙が落ちる。
「それでも、僕はみすずを手放せない」
その瞬間。
れんが俺の腕を引いた。
「……行くぞ」
「え?」
「今ならまだ間に合う」
なぎが顔を上げる。
「待って」
れんは振り返らない。
「れん」
「お前がみすずを好きなのは分かった」
「……」
「でも、それを理由にみすずの自由を奪っていいことにはならない」
なぎの顔が歪む。
「……分かってる」
「だったら」
「分かってるよ!」
初めて。
なぎが声を荒らげた。
「分かってる……!」
拳を握りしめる。
「だから怖いんだ」
「……」
「みすずがいなくなったら、僕は何もなくなる」
その言葉に。
俺は足を止めた。
「……なぎ」
「行かないで」
なぎが俺を見る。
「お願い」
その顔は。
昨日までの独占欲に満ちたなぎではなかった。
ただ。
大切なものを失うことを怖がっている、一人の人間に見えた。
「みすず」
俺は何も答えられない。
なぎがゆっくり手を伸ばす。
けれど。
今度は、俺には触れなかった。
途中で手を止めて。
拳を握る。
「……触ったら、また困らせるから」
そう呟いた。
俺の胸が痛んだ。
「なぎ」
「……何?」
「俺はまだ、なぎのことを許せない」
なぎの表情が固まる。
「でも」
俺は続けた。
「嫌いになったわけじゃない」
「……」
「だから、俺を閉じ込めるんじゃなくて」
一度、息を吸う。
「ちゃんと俺と向き合って」
なぎの目が大きく見開かれた。
れんも何も言わない。
しばらくして。
なぎが、小さく頷いた。
「……うん」
それは。
今までで一番弱々しい返事だった。
そして俺は思った。
なぎの「好き」は。
優しいだけのものじゃない。
きっとこれからも。
俺を苦しめる。
それでも。
この人がどうしてここまで俺に執着したのか。
その答えを知った今。
俺はもう、知らないふりをすることができなかった。
『必要ない』――その翌日
翌朝。
目を覚ますと、隣になぎはいなかった。
「……なぎ?」
返事はない。
部屋の中を見回しても、姿がない。
いつもなら、俺が起きるまで近くにいるはずなのに。
「……どこ行ったんだ?」
ベッドから降りようとした、そのとき。
テーブルの上に、一枚の紙が置かれているのが見えた。
『少し出てくる。すぐ戻るから、ここにいて』
短い文章。
けれど、その最後に。
『絶対に外に出ないで』
と、強く書かれていた。
「……」
俺は紙を握りしめる。
昨日のなぎの顔が浮かんだ。
――れんのことを知ろうとしないで。
――僕だけを見て。
そして。
――れんに会いたいの?
「……無理だよ」
小さく呟いた。
知らないままでなんていられない。
なぎが何を隠しているのか。
れんが何者なのか。
俺を助けようとしている理由も。
全部、知りたかった。
そのとき。
コン、と。
窓を叩く音がした。
「……?」
振り返る。
もう一度。
コン、コン。
今度ははっきり聞こえた。
窓の向こう。
そこに――人影が立っていた。
「……!」
俺は息を止める。
カーテンを少しだけ開く。
そして。
目が合った。
「……れん」
窓の外にいたのは。
あの男だった。
れんは俺を見ると、静かに人差し指を口元へ当てた。
「静かに」
窓を開ける。
冷たい朝の空気が流れ込んできた。
「どうして……」
「時間がない」
れんはそれだけ言った。
「なぎは?」
「いない」
「どこへ?」
「分からない。でも、長くは戻らない」
れんが周囲を確認する。
「みすず」
「……うん」
「今から俺と来い」
「え?」
「ここを出る」
心臓が大きく鳴った。
ずっと望んでいた言葉だった。
なのに。
いざ言われると、怖かった。
「……なぎが戻ってきたら」
「だから戻ってくる前に行く」
「でも……」
「怖いか?」
俺は答えられなかった。
れんは少しだけ目を細めた。
「怖くていい」
「……」
「俺も、お前を無理やり連れ出したくはない」
その言葉に、俺は顔を上げる。
「だったら……どうして来たの?」
「お前を置いていったら、もう二度と会えないと思ったからだ」
「……」
「それに」
れんが一瞬、視線を逸らした。
「昨日、お前が俺のことを知りたいと言ったと聞いた」
「……なぎから?」
「いや」
「じゃあ、誰から……」
「今はそれより時間がない」
れんが手を差し出す。
「来るか?」
その手を見つめる。
頭の中には、なぎの顔が浮かんでいた。
優しい顔。
笑った顔。
そして。
泣きそうな顔。
――僕だけでいいでしょ?
「……ごめん」
俺は呟いた。
「何が?」
「なぎ」
それでも。
俺は、れんの手を取った。
「俺……知りたいんだ」
「何を?」
「全部」
れんの表情が変わる。
「なぎと何があったのか」
「……」
「俺をここに連れてきた理由も」
「……」
「それから」
俺はれんを見る。
「俺自身が、どうしてこんなところにいるのかも」
れんはしばらく黙っていた。
やがて。
「……分かった」
そう言って、俺の手を強く握った。
「なら、全部話す」
窓から外へ出る。
その瞬間。
遠くから、車の音が聞こえた。
れんの顔が険しくなる。
「……まずい」
「どうしたの?」
「戻ってきた」
「え……?」
俺が振り返る。
道路の向こう。
見慣れた車が止まった。
ドアが開く。
そして。
なぎが降りてきた。
「……みすず?」
その声が聞こえた瞬間。
背筋が凍った。
なぎが家を見る。
窓が開いていることに気づく。
そして。
俺の隣にいる男を見る。
「……れん」
なぎの顔から、血の気が引いていく。
「……なんで」
れんが俺の前に立つ。
俺を隠すように。
「迎えに来た」
「……みすずを?」
「ああ」
「……返して」
なぎの声は静かだった。
けれど。
その手は震えている。
「みすずは僕のところにいる」
「違う」
れんが言う。
「みすずは物じゃない」
「……」
なぎがゆっくり顔を上げる。
その目には。
昨日までの優しさが、どこにもなかった。
「みすず」
俺を見る。
「こっちに来て」
俺は動けなかった。
「みすず」
もう一度。
「僕のところに来て」
れんの手が、俺の手を握る。
「行くな」
「……」
「ここで決めろ」
れんが低く言った。
「お前自身で」
胸が苦しくなる。
俺は二人を見る。
なぎ。
れん。
そして。
今まで知らなかった二人の過去。
「……俺は」
声が震えた。
それでも。
言葉にする。
「もう、何も知らないままではいられない」
なぎの瞳が揺れる。
「……みすず」
「ごめん」
俺は一歩。
れんの隣へ進んだ。
その瞬間。
なぎの表情が崩れた。
「……嫌だ」
小さな声。
「それだけは……嫌だ」
なぎが一歩近づく。
けれど、れんが俺を庇う。
「来るな」
「……れん」
「今のお前に、みすずを任せるわけにはいかない」
「……僕は」
なぎが拳を握る。
「僕は、みすずを傷つけたくない」
「だったら手放せ」
「……できない」
即答だった。
「絶対に」
その言葉を最後に。
三人の間に、重い沈黙が落ちた。
そして俺は思った。
この二人の間には。
俺がまだ知らない、決定的な何かがある。
それを知らなければ。
俺は、どちらの手も取れない。
――だから。
「れん」
「……何だ」
「全部、話して」
れんが俺を見る。
「なぎとのこと」
「……ああ」
「俺がここにいる理由も」
「分かった」
そして。
れんは静かに頷いた。
「全部話す」
その瞬間。
なぎが、苦しそうに目を閉じた。
「……みすず」
その声だけが。
やけに寂しく響いた。