ケイヴェルノの体に貼られた祈る者には巨人の骸を奪うまで時間稼ぎに暴れまわることを【命じ】、かわる者の力を通して魔法少女に変身した虚無は杖に跨り、大王国の要塞に寄港しつつある船へと直行する。
心の内で、アンソルーペが主導権を奪い返そうと暴れているが、かわる者によって抑えつけられている。
救済機構とガレインの連合軍がライゼン大王国の要塞へと攻めかかる戦場を越え、当の要塞の上空に差し掛かった時、直下から矢が飛来する。人間業ではない力と精確さだ。使い魔の放った驚異の矢を、しかし虚無は避け切った。
射る者の矢、嗾ける者の猛禽、それに飛ぶ者自身。それらの攻撃は想定内だったが、飛んでくるのは矢だけだった。しかし何射しても杖から風を吹き出す魔法少女を捉えることはできない。射る者は無数の矢を緩急付けて放ち続けている。にもかかわらず、そのどれも虚無を追って来ない。矢が標的を追う魔術、クオルの矢は射る者も習得しているはずであるが。
その疑念が、危ないところで虚無を救った。強さも狙いも違う射る者の放った矢は全て虚無が避けることを計算して、虚無の頭上で重なり合った。十分な質量の矢が空中で重なり合い、使い魔の一柱を顕現したのだった。何もかもを盗み取る盗む者の手は、しかし深奥までは届かなかった。
深奥に潜らせたのはかわる者で、しかし虚無が命じたわけでもなかった。
「どういうつもりだ?」と虚無が問う。「……ああ、答えていいぞ」
「助けるな、とは命じられてないからね。さっさと出て行ってほしいだけだよ」とかわる者は軽口に答える。
そうして次にアンソルーペが浅い方向に姿を移したのは、大王国の帆船の上、巨人の死骸の上だった。防水布を通した骸の感触は、今にも崩れそうな泥のようだった。船は既に港に、要塞内部に着いており、戦士たちに取り囲まれている。
「私を信用していなかったのですか」とアンソルーペが悲しげに問う。「巨人の肉体を得る邪魔などするつもりなどなかったのに」
アンソルーペは虚無が祈る者と手を組んでいたことにまるで気づいていなかった。それは、信用していたから、とも言えないのだが。
「この体に巣食ってからの長い付き合いだ。疑っちゃいねえよ。が、お互いの優先順位の違いも分かり切っていた。まあ、念のためってやつだ。それじゃあな」
そう言って虚無は惜しむことなくアンソルーペの体を去った。同時に足元の巨体が動き出し、アンソルーペは慌てて飛び降りる。船は大きく傾くが、虚無の宿った巨人が両手を伸ばして均衡を取る。干からびた体を無理矢理に動かしているせいで乾いた皮膚がぼろぼろと剥がれ落ち、内部で筋肉が軋んでいた。
「巨人よ! 貴様の望みは何だ!?」そう港から呼びかけたのは不滅公ラーガだった。
南の戦場に背を向けながら動き出した巨人を見上げて言った。巨人の屍はラーガと取り巻きの戦士たちを見つめて、痙攣のような笑みを浮かべる。
「俺の世界! 返してもらうぞ! 神々の末裔よ!」
「それは俺のものだ! 行くぞ! 戦士たち! 加減はいらん!」
ライゼンの戦士たちが地響きの如き鯨波の声と共に船へと突撃する。が、巨人の方は船の上で片足の爪先で立ち、くるくると回り出した。そしてその巨体の重みなど感じさせない軽やかな舞い、華麗なる踊りを見せる。目の当たりにしている人間にとっては災厄の如き肉体の躍動であるが、遠くから眺めたならば可憐な少女の如き繊細な舞踊だった。しかしその巨体ではささやかな動きでも戦士は弾き飛ばされ、現にアンソルーペの目の前で帆柱がひと蹴りでへし折られた。
そしてほんの一瞬の出来事だが、アンソルーペは見逃さなかった。巨人の肉体が消え失せ、刹那の時で再び姿を現し、しかしその姿は骸などではなくなっていた。血色良好な艶めく肌を取り戻し、潤いを持った黒髪を翻し、若々しい角を高々と掲げる。
「ちっせえがきだが、丁度いい。巨人の魔術を見せてやろう」
そう言って名も無き巨人は宙返りで陸に飛び移る。その衝撃で船は引っ繰り返り、アンソルーペは海に放り出されたが、やはり見逃すことはない。巨人の体は宙で一瞬だけ消え、そして戻って来た時には魔法少女のような派手な衣装を身に纏っていた。かわる者の姿を模したらしいが、対抗するように装飾がより派手なものになっている。アンソルーペは急いで海面に浮上しする。。
「変身の魔法。巨人は何にでも変身できたと言い伝えられているけど」
息も絶え絶えなアンソルーペの独り言に同じ口でかわる者が返す。「あんなの見た目だけの……、それは私もか」
巨人はご丁寧に杖まで取り出しており、その愛らしい装飾を纏った靴で戦士たちを蹴飛ばしていた。分厚い筋肉と鎧の戦士が小石のように宙を舞う。
「かわる者。こっち」海面に浮かぶアンソルーペに桟橋から手を差し出したのは盗む者だった。
黒づくめの衣装は存在感を薄めさせる力を宿しており、朧気に霞んでいるように見えた。その手を掴み、アンソルーペは桟橋へと上がる。
「世界って何? 受肉してしたいことって世界征服だったの?」とかわる者が戸惑いつつ言った。
「分からない。だけど、世界を求めるなら、相手取るのは人間じゃない」とアンソルーペは服に染み込んだ海水を絞り出しながら言う。「世界が目的なら、目標は神殺し」
「そこにいるんだろ!? 出て来いよ! パデラの娘!」巨人の大音声が響き、何もかもをびりびりと震えさせる。「ぷんぷん臭うぜ! 負け犬どものくっせえ血の臭いがよ!」
巨人は杖を滅茶苦茶に振り回し、港を囲む城の内壁を打ち据える。
しかし別の方向から巨人が業火を襲った。巨人は一瞬で黒焦げになり、しかし一瞬で元の姿に変身する。
「負けたのは巨人の方でしょ!」と火を放ったベルニージュが魔術で拡声した言葉を叫び返す。
「何でそうすぐに挑発に乗るの!?」とユカリがベルニージュに文句を言う。
先ほどまでの怒りが覚めたかのように、巨人は静かにじっとベルニージュを見つめ、そして「お前、座は?」と問う。
「教える必要はない」とベルニージュは答える。
「……ああ、記憶喪失だったか。何だ。じゃあただの人間じゃねえか。興が削がれたな」
「お互い様」
巨人は溜息をつき、「だが殺す!」そう宣言してベルニージュに杖を突き立てる。
しかし何体もの使い魔がそれを阻んだ。衛る者、守る者、侍る者、護る者、打っ手切る者、戦う者、斬る者、穿つ者が大質量を押し返す。
巨人と大王国の戦士たち、それに使い魔たちの戦いが始まる。
「止めましょう」港の端で戦意と殺意の行き交う場を前にして、アンソルーペが覚悟を決めたように呟いた。
「別に良いけど。良いの?」とかわる者が疑念を呈する。「大王国を追い出す好機じゃない?」
「それは虚無が勝った場合の話です。負けたなら遺骸だけではなく、虚無の魂も大王国が手に入れてしまう」
「確かに、どちらかというと巨人の知識の方が有用か。じゃあアンソルーペが奪って、とんずらだね」そう言ってかわる者は揶揄うような口調に変わる。「元の鞘に収まるって訳だ」
「あ、あ、虚無は女の人です!」とアンソルーペは顔を赤らめて言った。「男の人の魂を受け入れる訳ないじゃないですか!」
「そ、そう。まあ、いいよ。それで、どう止めるの? やっぱり封印を貼るのが一番手っ取り早いかな」
アンソルーペはかぶりを振る。「いいえ、こと魂を操る魔術に対して、虚無は無敵です。このアンソルーペの体が貴女に操られなかったことがその証」
虚無が杖を一振りするたびに大量の戦士たちが吹き飛ばされ、命が奪われていく。それでもなお悲鳴よりも鬨の声が上回っていた。誰も彼もが臆していない。むしろ神代の怪物に挑みかかることに興奮を隠せない者たちばかりだった。勝っても負けても、戦士たちにとっては栄誉なのだ。背後から救済機構が迫っていることなど忘れてしまっているかのようだった。
「それじゃあどうするの?」とかわる者が問う。
「魂ではなく、肉体を滅ぼすしかありません。そうすれば私の元に戻ってくる他ないでしょうから」
アンソルーペは盗む者の封印を自らに貼り、その本性へと変身する。黒づくめの女の姿には変わりないが、鹿の角が生え、爪先で蹄が割れ、麝香の香りが辺りに振り撒かれた。そして全ての手続きを省略し、隠匿の魔術を行使する。触れれば崩れそうなほどに柔らかな霧がアンソルーペの姿を隠す。
戦士たちが入り乱れ、矢と魔術が飛び交う戦場でアンソルーペは誰にも気づかれずに駆け抜け、ユカリの元へと向かう。
魔術を次々に放つベルニージュの背後でユカリたちもまた策を練っている様子だった。
「助けが必要です!」そう言ってアンソルーペは姿を現した。
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