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#和風
身体が、ひどく熱かった。
意識の輪郭が溶けていくような感覚の中で、私はただ、真っ暗な奈落へと落ちていくのを待っていた。
月の宮から逃げ出し、記憶の糸も
生きていた証も、すべてが千切れて空に散る。
冷たい風が頬を叩き、私は重力に身を任せて、夜の底へと堕ちていった。
(……ああ、ここで終わるのね)
そう思った瞬間だった。
不意に、視界が白銀の光に包まれる。
どさり、という鈍い音と共に、背中に柔らかな衝撃を感じた。
地面に叩きつけられる覚悟をしていたけれど、そこにあったのは冷たい土ではなく
温かな……人の体温だった。
「───なんだ。供物ではないのか」
低く、どこか冷徹な響きを持った声。
私は、震える睫毛を持ち上げた。
視界に飛び込んできたのは、深い夜の闇を溶かしたような、鮮やかな青い髪。
そして、氷のように鋭く、けれど吸い込まれるほど美しい双眸だった。
私を受け止めたまま、その男性は眉をひそめていた。
端正な顔立ちに、狩衣を纏った凛とした佇まい。
「君……名は?」
私を見下ろす彼の瞳が、微かに揺れた。
「……わ、わたし?かぐや、です」
かすれた声で答えると、彼の腕にぐっと力がこもった。
驚くほど強く、けれど壊れ物を扱うような繊細な手つきで。
「かぐや、か」
彼は私の名を反芻すると、それまでの冷たい無表情が一変した。
まるで、凍てついていた大地に春の陽光が差したかのような、熱を帯びた眼差し。
「……信じられない。術の最中に、これほど愛らしい『奇跡』が降ってくるとは」
彼は跪いたまま、私の頬にそっと指先を滑らせた。
その指は、驚くほど震えている。
「君は、どうして空から?」
「そ、それはなんというか……月から逃げてきた…とでも言うような…?」
「逃げてきた?ということは…帰る場所はあるのか?」
問いかけに、私は首を横に振る。
帰る場所なんて、もうどこにもない。
すると、私の予想に反して、彼は満足そうに目を細めると
私の耳元で甘く、逃れられない呪いのような声で囁いた。
「ならば、君の主として私が居場所を与えよう」
彼は私を横抱きにすると、立ち上がった。
周囲には、彼が展開したらしい巨大な結界が、蛍のような光を放って揺れている。
「え?!あ、あの……!!貴方は一体……?」
「名乗り遅れたな。私は月城と言う、この帝都で陰陽師をしている者だ」
「おんみょうじ……様…?」
月城と名乗った男は、私が腕の中で少し動くだけで、さらに力を込めて密着させてきた。
その腕は鉄のように硬く、けれど抱き締め方はどこまでも優しい。
「すみません、無知でわからないんですが…それって、どういうことをする方なんでしょう……?」
「陰陽師とは、妖魔祓いや占いといった神道や道教の知識を用いて世を護る役職のことだ」
彼は歩きながら淡々と語る。しかし腕の中では私が小さく息をするたびに彼の指先がわずかに震え、明らかに異常なほど落ち着きがない。
「つまり……化け物退治とかそういうのをする人ですか?」
「まぁ、そんなところだ」
「ええと、月城様。大体は分かったので…あの、そろそろ、降ろしていただけませんか……?」
恐る恐る申し出ると、彼は歩みを止めることなく、真顔で私を見つめ返した。
「……無理だ」
「え?」
「君は先ほど、空から降ってきたばかりだろう。足元もおぼつかないはずだ。それに、この結界の外は魔物が跋扈している。君のような清らかな存在を、一歩でも地につけるわけにはいかない」
「でも……」
「それに、君を離したくない。私の直感が、君を一生守れと言っている」
(一生……!?)
あまりにも重い言葉が、さらりと
けれど有無を言わせぬ熱量で吐き出される。
彼は私の戸惑いを気にする様子もなく、そのまま夜の帳を切り裂くようにして歩き続けた。
やがて見えてきたのは、高い塀に囲まれ、幾重もの呪符が貼られた巨大な屋敷だった。
門をくぐると、そこはまるで別世界のように静謐で
美しい香木が焚き込められた空気に満ちている。
「ここが私の屋敷だ。今日からここが、君の『月』になる」
月城様はそう言うと、広大な屋敷の最も奥まった場所にある
ひときわ立派な寝殿へと私を運び入れた。
足を踏み入れた瞬間に、肌を刺すような強力な結界の気配を感じる。
彼はようやく私を降ろしたが、それは床ではなく
ふかふかの絹が何層にも重ねられた寝台の上だった。
「……君の言うことが本当なら君のような存在は狙われやすい」
月城様は私の前に跪き、そっと私の手を取って
甲に深く、誓いのような口づけを落とした。
「君は何も考えなくていい。ここで、私に甘やかされていればいいんだ。わかったね、輝夜」
冷徹なはずの天才陰陽師の瞳には
ひどく熱く、そして底知れない独占欲の色が渦巻いていた。
「あ、あの!」
私は思わず制止する。
「助けてくれたこと感謝しますけど、私はまだあなたのことをよく知らないですし…っ」
彼は動きを止め、私と目線を合わせた。
「そうだな。突然過ぎた」
彼の長い指が私の髪をすくう。
「だが一つだけ確かなことがある」
「え、なんですか…?」
「衣食住は保証する。この屋敷の奥で、君を慈しむことをここに誓おう」
彼の低い声に背筋がぞくりと震えた。
けれど、不思議と恐怖はない。
むしろ安心感さえあった。
この人となら、この先何があっても大丈夫だと思えた。
「私、本当に何も知らないです。この世界のこと、自分のことも」
ぽつりと漏れた本心に、彼は微笑んだ。
「構わないよ、輝夜。これから二人で知っていけばいい」
彼は私を布団へと促し、優しく頭を撫でてくれる。
「今夜はもう遅い。ゆっくり休め」
「……はい。ありがとうございます」
横になるとすぐに睡魔が襲ってくる。
彼は傍に控えたまま、いつまでもこちらを見守ってくれていた。