テラーノベル
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研究室の午後は、ページをめくる音と小さな息づかいだけが満ちていた。
くられは机に頬杖をつきながら、分厚い専門書を静かに読みふけっている。
外から差し込む光が白衣の肩をなぞり、紙の上で影をつくっていた。
ツナっちは、整理の手を止めたままその姿に見入っていた。
わずかに動く唇、指先が紙を滑るたびにかすかに響く音。
どうしてこんな何気ない仕草に、心臓が跳ねるんだろう。
以前なら、こんな距離、当たり前だったはずなのに。
気づけばツナっちは、となりに腰を下ろしていた。
本のタイトルをのぞき込むようにして、そっと身を寄せる。
紙の匂いと、くられの淡い香りが混ざって、息が詰まりそうになる。
もう少しで肩が触れる――その距離が、やけに遠く感じた。
「……あ、ツナっち。これ、見てみる?」
くられが視線を上げずに言った。
指先がページを示す。ツナっちは思わずその手に目を奪われた。
指が長くて、温かそうで、触れたら――なんて、思ってしまう。
「……あ、はい。えっと……」
情けない返事しか出ない。
くられは柔らかく笑って、「そんなに緊張しなくていいよ」と言った。
その声が耳の奥に残って、ツナっちは視線を逸らす。
心の中で何度も呟く。
“触れないように”――そう思えば思うほど、指先が疼いた。
ほんの数センチ。その距離を縮める勇気が、まだ出ない。
けれど確かに、そこにある。
すぐそこの、あの声と温度に――ツナっちは今日も、手を伸ばせずにいた。
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