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空調の音すら聞こえない、静かな午後だった。
試験管を立てたラックの間を、光がゆっくりと横切る。
ツナっちはいつものようにデータをまとめていた――はずだった。
けれど、視線の端にいるくられから、どうしても目が離せなかった。
手の動き、息づかい、髪の揺れ。
何もかもが、以前よりずっと近く感じる。
いや、近いのは距離じゃない。
自分の心が勝手に踏み込んでいるのだとわかっていた。
「ツナっち、ピペット取ってくれる?」
くられの声が、静けさをやぶる。
ツナっちは慌てて手を伸ばした。
けれど、ガラスの器具を掴むより先に――その手が、くられの掌に重なった。
一瞬の出来事。
けれど、指先ではなく、掌全体が触れた。
温度が混じり、心臓が跳ねる。
逃げなきゃ、と思うのに、どちらの手も動かない。
くられがわずかに目を瞬く。
けれど、そのまま手を離さずに、軽く笑った。
「……あ、ごめん。冷たいでしょ?」
「い、いえっ、そんな……!」
言葉がうまく出てこない。
冷たいのはガラスで、熱いのは自分の手だ。
それがわかっているのに、伝えられない。
掌の中で、鼓動の音が響いていた。
どちらのものか、もう区別がつかないくらいに。
「……ありがと、助かったよ」
くられがやっと手を離した。
その指先が滑るように離れていく瞬間、ツナっちは思わず指を握りしめた。
触れた温もりが、消えてしまわないように。
――こんなにも覚えてしまうなんて。
一度、重なっただけで、手の中に相手の形が残るなんて。
ツナっちは息をひとつ吐き、机に視線を落とした。
心臓が落ち着くまでには、しばらく時間がかかりそうだった。