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すでにバミノムの町で宿を取っていたが戻れるわけもない。三人は営みの温もりに後ろ髪を引かれながらも街を飛び出し、グリュエーの風に驚いた鴨の騒ぎを背に受けて、星と神秘の流れる夜の川に沿って川上へと逃げる。暗い河原に身を潜めつつ、追手がいないことを何度も確認する。諦めたのか、見失ったのか、油断を誘っているのかは分からない。
「何でサンヴィアに来たんだろう? 私たちを追って来たのかな」とユカリは息を切らしながら愚痴っぽく呟く。
「いや、反応を見る限り、ワタシたちがいたのは予想外だったように思う」ベルニージュは大きく息せき切って苦しそうに言う。「メヴュラツィエを探すとか言ってたけど、どういうことだろう」
「メヴュラツィエ。何だか聞き覚えがある、気がする」ユカリは温かな光の灯る町の方から目を離さず、記憶を探るが思い出せない。「有名人?」
レモニカの方も見るが、レモニカは首を横に振った。
「グリュエーは知らない」とグリュエー。
「グリュエーですら知らないなら私はお手上げだよ」とユカリ。
ベルニージュが記憶をたどるようにぽつぽつと話す。「救済機構の上位の尼僧だよ。著名な魔法使いでもある。救済機構の、何とかって研究機関の偉い人だった。でも、確か彼女は殉教者だよ」
冷たい空気が心の中にまでも冬をもたらそうと我が物顔で吹き込んでくる。
ユカリは小さくため息をついて言う。「じゃあ、彼らは死者を探しているってこと?」
「彼らが何かを勘違いしているのでなければ、考えられるのは」ベルニージュは淡々と答える。「メヴュラツィエが実は生きているか。同名の別人を追っているか。遺骸が盗まれでもしたか。あれだけの会話では何とも言えないね」
ユカリは他にも何か可能性はないかと考えたが特に何も思いつかなかった。
「まあ、どこかのメヴュラツィエさんのことは良いとして」ユカリは、救済機構の焚書官らしき想像上の母親の姿をしたレモニカに顔を向ける。「蛇と、蛇が嫌いな人、見つかっちゃったね」
ユカリは焚書官ルキーナのこと、そして彼女が目に見えない蛇を使役していることをベルニージュとレモニカに説明した。
「ああ。あれは、あれか」ベルニージュは合点がいった様子で話す。「ユカリ、覚えてる? 焼け野原になったデノク市から砦に戻ってきたユカリに、何を連れてきたんだってワタシが怒鳴ったこと」
ユカリはよく覚えていた。まさにサイスと初めて出会った直後のことだ。
「うん、覚えてるよ。結局あれって、少年の形をした魔女シーベラの呪病のことだったんだよね?」
ベルニージュは不意を突かれたような顔をして言う。「え? 何のこと?」
ユカリとベルニージュは二人のすれ違いを一つ一つ検証していく。
要するにデノク市から戻ってきたユカリの後を見えない蛇が追っていて、ベルニージュはそれを追い払ったのだという。
そしてベルニージュの方は少年、魔女シーベラの呪病に関しては気づかなかったという。
「この違いって何?」ユカリは首をひねる。「私には呪病の少年が見えて、ベルニージュにはあの蛇が見える」
「ユカリの場合は魔法少女関連の何かなのかもしれないけど。ワタシの方は分からないね。それに、確かに見たはずの蛇の姿が思い出せないんだよ。蛇を見たという事実は覚えているのに、どんな姿だったか思い出せない。そのルキーナって焚書官の何かの魔術なのかもしれない」
これ以上思い悩んでも、何も分からないような気がしてきて、ユカリは話を戻す。「それはそれとして【睡眠】。サイスのそばにレモニカを連れて行くのが確実だよね」
「嘘でしょ?」とベルニージュが非難するように言う。「わざわざ首席焚書官を狙うことはないんじゃない? いくら何でも博打が過ぎると思うんだけど。べつに蛇嫌いな人間なんていくらでもいるんだからさ」
ユカリは腕を組んでベルニージュの言葉についてよく考え、答える。「それはそう。たしかに蛇嫌いは沢山いるかもしれない。だけど蛇が一番嫌いって人は限られてくるんじゃない?」
ベルニージュはため息をつきつつ、渋々認める。「確かにそうかもしれない。どれくらいの割合かはよく分からないけど。だけどわざわざ焚書官の群れの中に飛び込むなんてさ。ねえ?」
ベルニージュはレモニカに視線を向けるが、レモニカは肯定も否定もしなかった。
「もしくはサイスだけさらってくるとか。前回、デノク市では状況が状況だったから諦めたけど、魔導書を奪う好機だよ」というユカリの言葉に呆れたような顔をしたのはベルニージュだけではなかった。ユカリは慌てて弁解する。「別に私だって危険なことをしたいわけじゃないからね。安全確実な方法があるならそれが一番だよ。せっかく三人いるんだから知恵を出し合って作戦を考えようよ。禁忌文字だけなら別に戦う必要もないかもしれない。レモニカが蛇に変身して禁忌文字を作る隙を作れればいんだから。いずれにしても透明蛇、カーサだっけ? を盗み出すよりは簡単なはず」
「まあ、うん。分かったよ。考えるだけ考えてみよう」ベルニージュはようやく息を整えて立ち上がる。「レモニカはいいんだよね?」
レモニカは両の拳を握り、頷く。
「はい。わたくし、お役に立てるように頑張りますわ」
結局作戦といえるほどの名案は思いつかなかった。焚書官たちの宿を特定し、首席焚書官サイスの部屋を特定し、壁越しにでも屋根越しにでもレモニカに最も近い人物がサイスになれば、レモニカは蛇に変身出来る。確実性は担保できないが、それが最も単純で簡単な方法だと三人の意見が一致したのだった。
この町の宿は特別多いわけでもない。加えて焚書官がこの町を訪れているという噂は広がっており、焚書官たちの宿泊している宿を特定するのは難しくなかった。ユカリたちが元々一泊する予定だった宿に比べれば随分上等な造りの宿だ。日干し煉瓦に加えて、この土地では珍しくも木や漆喰を利用している。嵌石細工の壁に小さいながらも色硝子の丸窓が並んでいる。
三人は盗人のひそみに倣い、夜も更けた頃に月が陰ったのを見計らう。ユカリはグリュエーの力を借りてレモニカ、ベルニージュと共に宿の平屋根へと上がる。
冴えたる月の輝きを覆う雲の下、レモニカに屋根の上をあちこち歩いてもらい、屋根の下にいる者たちの嫌う様々な姿に変身させる。
もしかしたら魔法少女に変身するかもしれないと思って、ユカリは不安で心臓に痛みを感じた。赤い蛙、牙を剥く狼、クオル、醜悪な小鬼。様々な嫌われ者がその姿を現したが、魔法少女は現れず、ユカリは一安心した。
少ししてユカリはおかしなことに気づく。
「え!? クオル!?」ユカリはベルニージュに確認する。「いまクオルになったよね!?」
ベルニージュは頷いて答える。「うん。あの人、救済機構の誰かに恨みを買ってるのかな」
「買ってそう」
そして、とうとうレモニカは食堂『真鴨亭』で見せた大蛇の姿へと変じる。宿の入り口から最も遠く、えてして最も上等な部屋がある位置だ。
「今だ、レモニカ!」とユカリが言う前にレモニカは文字の形へと動き出していた。
しかしもう少しという所で再び狼の姿になってしまった。レモニカはくんくんと悔しそうに鳴きながら再びサイスの位置を探る。しかし屋根中を歩き回っても蛇に変身出来なかった。
「いなくなった?」とユカリは呟く。
「単に下の階に降りたんじゃない? ここ三階建てだし」とベルニージュが答える。
「そっか。とりあえず一番奥の部屋がサイスの部屋なのは間違いないだろうし、そこで待ってよう」とユカリは少し離れた場所で屋根の臭いを嗅ぐレモニカに提案する。
レモニカ狼はこくりとうなずき、屋根の端にうずくまった。ユカリとベルニージュもそばに座り、身を寄せ合う。そうしてしばらく凍てつく夜で待ち惚けた。優雅な雲を纏った月は星々を引き連れて行き、その間、何度も冬の風が行き来して愚かな獲物に吠え立てた。しかしついぞサイスは戻って来なかった。
ベルニージュは終始かたかたと震えていたが、毛皮をまとったレモニカまでもが震え始めたので待つだけの作戦を取りやめることにした。
「下の階に行くにしても、中に入るにしても見つかる可能性は高いよね」ユカリは覚悟を決めたように言う。「それなら初めからサイスを捕えるつもりで挑んだ方が良いと思う」
「早く終わらせられるなら何でもいいや」とベルニージュは投げやりに答える。
最も奥の部屋に窓はないが大きな露台があり、鎧戸で室内と区切られている。
ベルニージュが露台や鎧戸、室内に厄介な魔術がないかどうか調べる。しかしこれといって問題はなかった。それよりも鎧戸を音もなく開くのに苦労することとなった。沈黙や静寂は呪文を扱う魔法使いの天敵であるがゆえに、多くの魔法使いの研究対象ではある。しかし強力な魔術ほど複雑な呪文の詠唱を要するものでありながら、当然ながら静寂は非静寂と相性が悪い。
ベルニージュの背中を見守るユカリとレモニカも自然と押し黙って、心の中で応援することとなった。
赤髪の若い魔法使いは苦労しいしい音を調伏する強力な魔術を組み上げる。夜に潜む者の身につける吐息と森の狩人に従って獲物を捕らえる梟の眼光、そして西の亡国に捧げられる黙祷を混ぜ合わせた魔術だ。
ベルニージュの許可を得て、ユカリは屋根から露台へと降りる。そして、もう大丈夫だと分かっていてもユカリはゆっくりと鎧戸を開く。音もなく開く。
部屋の中は薄暗く、何者かの吐息が聞こえる。サイスではない何者かが寝台にて寝ているらしいが、姿はよく見えない。まず、その何者かを拘束することにする。生きとし生ける息する者であれば魔法少女の第三魔法、憑依の吐息には抗えない。せっかくの静寂の魔術がグリュエーに吹き飛ばされてもいけないので直接吐息を吹きかけようと、ユカリは部屋の中へと侵入する。足音を忍ばせて、慎重に寝台へと近づく。
寝台に横たわる者の正体にユカリが気づくのと同時に、その体が戒められる。その感触には覚えがある。目には見えないが、蛇に締め付けられていると分かる。
何か言葉を発する前に見えない蛇に口を塞がれ、代わりにユカリは笑みを浮かべて、魔法少女に変身しようとするが、それより先にベルニージュがユカリの知らない暴力的な魔法を見えない蛇に投げつけた。蛇はしゅうと息を吐くとユカリから離れ、部屋の暗がりに身を潜めた。
「ここはルキーナの部屋だった?」ベルニージュが潜めた声で強く言う。「どうするユカリ? あの蛇を連れて行く?」
「ううん。良いもの見つけた。蛇に警戒して」
ユカリは寝台に飛びつき、毛布を包んでいき、最後に大きく腕を広げて抱え上げる。その間、蛇のしゅうしゅうという音が聞こえたが、耳を貸さず、焚書官たちが別の部屋で騒ぎ出す頃には、毛布を抱えて露台に飛び出した。
毛布を抱えたユカリとベルニージュ、そしてレモニカは再びバミノムの町を飛び出して、一目散に逃げ去った。
「もう、一日にこう何度も走らされちゃ、たまらないよ」
ベルニージュは膝に手をついて大きく呼吸する。冬の冷たい空気で苦しそうだ。レモニカもまた同様に辛いようだが、ベルニージュほどではないらしい。
「それで?」とベルニージュは変わらず顔を歪め、辛そうに問いかける。「ユカリはその毛布をどうしたいの? ようやく今が冬だって気づいた?」
「毛布に包まないと運びづらそうだったからさ」
そう言ってユカリは毛布を広げる。冷たく輝く星々の下で、それは複雑な硝子工芸のように静謐な光を煌めかせる。
「これは、蛇の抜け殻ですわね?」というレモニカの問いにユカリは頷く。
「そう。あの見えない蛇のね。抜け殻は目に見えるみたいだけど」
「なるほど」ベルニージュは大きく息を吐く。「これなら”蛇は眠る”という詩に従って、【睡眠】を作れるかもしれない、と」
「上手くいくかな?」とユカリ。
「やってみれば分かるよ」とベルニージュ。
暗くて仕方ないので火を焚く。念のためにベルニージュが人払いの結界を張ってから文字の形成に取り掛かる。
最後に蛇の抜け殻の尾を持ってベルニージュは言う。「【睡眠】の他は?」
「いま授業するの?」と言いつつユカリは指折り数える。「蛇。眠り。不死。憧憬。地の底の神託。裏切りに対する制裁。えーっと、あとは何かあったっけ?」
「夢、です」と言ったのはレモニカだった。「あ、申し訳ございません。出しゃばった真似を」
「レモニカ、もう覚えたの?」とユカリは驚く。
レモニカは面映ゆそうに頷く。「はい。教本に書いてあることは」
ベルニージュの責めるような視線を避けつつユカリは言う。「さあ、まだ上手くいくか分からないよ」
ベルニージュは何も言わず、最後の一画を完成させる。【睡眠】は眩い光で答えた。
強い光に目をしばたたき、ユカリは光源が一つではないことに気づく。
「ベル、いまのって」
ベルニージュが頷き、魔導書の衣を脱ぐ。「うん。この衣の中からも同じくらい強い光が溢れてた」
魔導書の衣を広げるが、今まで通りこれまでに元型文字を完成させた禁忌文字が淡く光っているだけだ。
「今まで気づかなかっただけ?」とユカリは首をひねる。
「うーん」と唸りつつベルニージュは自信なさげに否定する。「そんなことなかったと思うけどなあ」
「あの、いいですか?」とレモニカが言い、ユカリが促す。「わたくしがベルニージュさんのそばにいた時に完成させたのは【追跡】の時だけですが、いまのように光ってはいませんでした。ただ、関係あるかは分かりませんが、一つ気になったことがあります。少しずつ完成時の文字の光が強まっているように感じました」
ユカリとベルニージュは顔を見合わせるが、二人とも心当たりがなかった。元々強い光を放っていたので、あまり違いが分からなかっただけかもしれないが。
ユカリは考えを言葉にする。「だとすれば、今までも完成の時に魔導書の衣の中で光っていて、徐々に強くなったために今回ようやく気付いたってことかな?」
「かもしれない」とベルニージュは納得がいった様子で、また好奇心を隠さないで頷く。「謎は尽きないね」