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キッチンから、食器の触れ合う小さな音と、トースターの軽やかな焼き上がりの音が聞こえてくる。
ふわりと広がる、こんがり焼けたパンの香ばしい匂いに、ひまなつは思わず鼻をくすぐらせた。
「……簡単なもんだけどな」
そう言いながら、いるまはトレーを持ってリビングに戻ってくる。
テーブルの上に並べられたのは、きつね色に焼けた食パン、彩りのいい野菜、小皿に入ったオリーブオイル、そして瑞々しいカットフルーツ。
シンプルなのに、どこかカフェみたいで、整った見た目だった。
「……うわ、美味そう……いただきます」
思わず零れたひまなつの一言に、いるまは小さく肩をすくめるだけだったが、その反応を見てひまなつはすぐに一口、パンをちぎって口に運ぶ。
噛んだ瞬間、外はさくっと、中はふんわりとした食感。
オリーブオイルの香りと、野菜のさっぱりした味が口いっぱいに広がる。
「……おいしい……!」
ぱっと目を輝かせ、きらきらした表情で嬉しそうに笑う。
その無邪気な笑顔を見た瞬間、いるまの表情も自然と緩んだ。目を細め、どこか安心したような、穏やかな笑みを浮かべる。
その笑顔が、ひまなつの胸に静かに刺さる。
――ああ……この顔だ。
懐かしくて、愛おしくて、どうしようもなく大切だった表情。
込み上げる感情を抑えきれず、ひまなつの目に、また小さな涙が滲んだ。
「……泣くなよ」
いるまはそっと指先でひまなつの頬をなぞり、溢れかけた涙を拭う。
そのまま何事もなかったように自分の席につき、静かに食事を始めた。
カチャリ、と食器の音だけが、穏やかな空間に響く。
二人並んで食べる、ただそれだけの時間が、ひまなつには夢の続きのように感じられた。
食べ終えると、ひまなつは背筋を少し伸ばし、両手を合わせる。
「……ご馳走様でした」
丁寧なその一言に、いるまは思わず小さく笑う。
「相変わらず、育ちいいよな」
ぽんぽん、とひまなつの頭を優しく撫でてから、食器をまとめて立ち上がる。
「俺も片付ける……」
ひまなつが言いかけると、すぐに遮られた。
「立てねぇくせに、何言ってんだ」
呆れたように言いながらも、どこか心配そうな声色だった。
「……そっか」
ひまなつは苦笑いを浮かべ、ソファに身を預ける。
キッチンへ向かういるまの背中を眺めながら、胸の奥に、静かであたたかな感情が広がっていく。
何気ない朝。
何気ない会話。
それなのに、すべてが、奇跡みたいに大切だった。
リビングに、静かな空気が戻ってくる。
食器の片付けを終えたいるまが戻ってきて、ひまなつの隣に腰を下ろした。ソファがわずかに沈み、その距離の近さに、互いの体温がじんわりと伝わる。
――近いのに、何を言えばいいのか分からない。
いるまは視線を床に落とし、言葉を探すように指先を組んだまま、しばらく黙り込んだ。
その沈黙を破ったのは、ひまなつだった。
「……俺さ……ずっと、忘れられなかった」
ぽつりと落とされた一言は、静かなのに、胸の奥まで深く響いた。
いるまはゆっくりと顔を上げ、ひまなつを見る。
ひまなつは視線を逸らしながら、唇をきゅっと噛みしめている。
「……一緒にいたいって言ったじゃん……離れたくなかった……!」
堪えていた感情が、言葉と一緒に溢れ出す。声は震え、最後には顔を伏せてしまった。
その姿を見つめながら、いるまは一度、深く息を吸った。
「……お前のことが、大切だった」
静かで、迷いのない声。
「喧嘩ばっかしてた俺の隣にいてさ。俺がいない時に、何かあったらどうするんだって、ずっと心配だった」
視線を遠くに向けるように、続ける。
「ただのダチのくせに、束縛してるって、自分でも分かってた。歪んでるって……だから、離れた」
重たい沈黙が、二人の間に落ちる。
ひまなつは、ぎゅっと拳を握りしめ、顔を上げた。
「……だからって、無視すんなよ……電話、変えんなよ……!」
涙で潤んだ目のまま、声を荒げる。
その言葉に、いるまの胸がきゅっと締まった。
――電話、かけてくれたのか。
一瞬、胸の奥に小さな嬉しさが灯る。でも、それ以上に、後悔が押し寄せる。
「……ごめんな」
短く、真っ直ぐに謝った。
しかし、ひまなつは首を振る。
「謝ったって、許さねぇ……! 俺のそばにいろ……一生かけて、償え……っ……」
言葉の途中で、涙が溢れ落ちる。
その瞬間、いるまはひまなつを強く抱き寄せた。
「……わかった」
逃げない、と決めた声で、ぎゅっと抱き締める。
ひまなつは、その胸に顔を埋め、堰を切ったように泣き出した。
「……寂しかった……っ……目、逸らされたのも……っ……全部、悲しかった……!」
言葉が途切れ途切れになりながらも、溜め込んでいた想いをぶつける。
いるまは何も言わず、ただひまなつの背中に腕を回し、その体を包み込むように抱きしめ続けた。
逃げないように。
零れ落ちる感情を、全部受け止めるように。
ひまなつの泣き声が少しずつ落ち着いていくまで、いるまは決して、その腕を離さなかった。
ひまなつの嗚咽が、ようやく小さくなった頃。
胸に押しつけられていた呼吸が落ち着き、ひまなつの指先の力も、少しずつ緩んでいく。いるまは、その様子を感じ取りながら、背中をゆっくりと撫でていた。
しばらく、言葉のない時間が流れる。
その静けさの中で、いるまはふと、思いついたように口を開いた。
「……なぁ」
ひまなつが、ゆっくり顔を上げる。涙で赤くなった目が、まだ少し潤んでいる。
「一緒に……住むか」
唐突な提案に、ひまなつは一瞬きょとんとした。
「今の家、空き部屋あんだ。別に無理にとは言わねぇけど……来たけりゃ」
ぶっきらぼうな言い方の裏に、離したくない本音が滲んでいる。
ひまなつは、数秒だけ考える素振りを見せたあと、
「住む」
間髪入れずに、即答した。
あまりにも迷いのない返事に、今度はいるまの方が目を瞬かせる。
「……即決かよ」
「だって、離れたくないし」
ひまなつは、ぎゅっといるまの服を掴みながら、少しだけ強い声で続ける。
「また勝手にどっか行かれたら困る。俺が監視するから」
半分本気、半分冗談のような言い方だったが、その目は真剣だった。
その言葉に、いるまは一瞬だけ目を見開き――それから、ふっと小さく笑った。
「……好きにしろ」
そう言いながら、ひまなつの頭を軽く引き寄せる。
「今度は、俺も逃げねぇから」
低く、確かな声だった。
ひまなつは、その胸に額を預けながら、小さく息を吐く。
やっと、つながり直せた気がした。
歪んで、遠回りして、傷つけ合って、それでも――
また、同じ場所に戻ってきた二人。
この先はもう、簡単には離れない。