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怜
206
碧瑠(みどる)&理雨
44
中太とか太中とかの作品見た後さー、
すっごい最高のがあって「面白かったです!!」ってコメントしたらさ、
たまに私の作品読んでくれてる人とかいてさ。
めちゃくちゃ嬉しいです。
どうも夏の穂です。
ネタがなくなったので太中♀に彼シャツさせます。
今までちょっとだけ彼シャツシーン書いたことあるけどこれメインは一回もないからね…。
夕闇が薄れ、街の灯りがまばらにともり始める頃、武装探偵社の寮の一室では、いつもと変わらない静けさと、しかしそれだけでは到底片付けられない異様な熱気が渦巻いていた。
同棲を始めてからというもの、この部屋の空気の大部分は一人の男の奇行によってかき乱されている。ソファに突っ伏しては床団扇のように手足をジタバタさせ、あるいは机に突っ伏してこの世の終わりのような呻き声をあげるのは、他でもない太宰治その人だった。
その原因を作っているのは、決まって部屋の隅で腕を組んで眉間を寄せている中原中也である。
「ねえ中也、頼むよ。一回だけでいいんだ。ね?」
「うるせえ、百回言おうが千回言おうが答えは一緒だ、却下だ。ふざけんじゃねえ」
数日間にわたる籠城戦、否、太宰の執拗なまでの「ごね」は、もはやこの部屋の恒例行事と化していた。太宰が中也に求めているのは、いわゆる「彼シャツ」という代物である。太宰のワイシャツを中也が着るという、ただそれだけの、しかし中也にとっては羞恥心とプライドの二点において絶対に踏み越えてはならない一線だった。
なぜそんなものを着なくてはならないのか。中也には理解の範疇を超えていた。第一、男のシャツを着たところで、ぶかぶして動きづらいだけだし、何より太宰の趣味の悪さに付き合わされるいわれはない。そもそも中也には中也の誇り高きお洒落の基準というものがあるのだ。それを他人の、しかもよりによってあの太宰のシャツに身を包まされるなど、地獄の釜の底で茹でられるよりも耐え難い屈辱であった。
しかし、太宰の執念は中也の想像を絶していた。
ある夜は、中也が風呂から上がってさあ寝ようとパジャマを取ろうとしたところ、枕元に置かれていたはずの寝巻が綺麗さっぱり太宰のシャツにすり替わっていた。中也が「お前なァ!」と怒鳴り散らしながら濡れた髪のまま太宰を殴り飛ばしたのも今となっては懐かしい。また別の日には、ヤケクソになってブランデーをあおった中也の隙を突き、甘ったるい声で「ねえ中也、着てくれたら今度こそ高級なワインをご馳走するよ」と耳元で囁いてきたが、酔っていても理性を保っていた中也は即座にその顔面を枕で押し潰した。
ありとあらゆる手管を尽くし、あの手この手で迫り来る太宰だったが、中也の鉄壁のガードの前にすべて玉砕していた。太宰は「くっ……!」と悔し涙を拭うフリをしながら床を転げ回り、中也はそんな相棒を横目に「勝手に転げてろ」と冷ややかな鼻息を漏らしていたのである。
それが、ここ数日ぴたりと止んでいた。
最初は、「ようやくあのバカも自分の無駄な労力に気づいたか」と中也は胸をなでおおろしていた。毎日のようにまとわりついてきてはねっとりとした視線を送ってくる気色悪いプレッシャーが消え、平和な日常が戻ってきたことに安堵すら覚えていたのだ。
だが、人間というのは不思議なもので、毎日のようにうるさくつきまとってきた存在が急に大人しくなると、それはそれで奇妙な空白感が生まれてしまう。流石にあれだけ執着していた熱が急に冷めるものなのだろうか。まさか、他に興味の対象でも移ったわけではまいだろうが――そんな不穏な思考が中也の脳裏をかすめた時、中也は自分の胸の内で渦巻くドス黒い感情に気づき、慌ててそれをかき消した。
嫉妬などしているわけがない。あの魚の死んだような目をしている駄目男に、他の女がいなかろうが知ったことではない。ただ、あの手この手で自分を陥れようとしていた企みが不発に終わったことへの、いわば物足りなさに似た何かであると、中也は必死に自分に言い聞かせていた。
そんなある日のことだった。
太宰の帰りが、いつになく遅かった。
普段であれば、仕事が長引こうが、あるいはあちこちでサボってぶらぶらしていようが、夜更け前にはのそのそと帰ってくるのが常だった。しかし、時計の針はすでに夜の十時を回っており、十一時に差しかかろうというのに、玄関の扉が開く気配はない。
中也はソファに腰掛け、ワイングラスを傾けながら、幾度となくスマートフォンの画面を点けては消していた。しまいには我慢できずにメッセージアプリを開き、太宰とのトークルームを覗き込む。
最後に送られてきたメッセージには、「今日は同僚たちと飲み会だから遅くなるよ。中也は先に寝ていてね」と、どこか他人行儀で、かつ妙にさっぱりとした文字が並んでいた。
――飲み会。
その三文字を見た瞬間、中也の胸の奥がチクリと嫌な痛みを伴って波打った。
誰と飲んでいるのか。事務所の連中か、それともまたどこぞの怪しげな情報屋か。もしかすると、お洒落なバーで、見目麗しい女性を相手にいつもの軽口を叩いているのではないか。
「……っ、馬鹿野郎が」
中也はグラスを乱暴にテーブルに置き、舌打ちをした。自分がこんなにも帰りを待ちわびていることなど、向こうは露ほども思っていないだろう。酔っ払っていい気になって、どこかの赤ちょうちんか洒落た店でくだを巻いている姿を想像するだけで、腹の底からじわじわと黒いものが湧き上がってくる。
認めたくはなかったが、紛れもなくそれは嫉妬という感情の澱だった。自分が彼シャツを拒絶し続けたせいで、太宰は愛想を尽かしたのではないか。自分以外の誰かに、あんなねっとりとした甘い執着を向けているのではないか――そんな不気味な想像が、疲労の色濃い中也の精神を容赦なく蝕んでいく。
その日の任務は肉体的にも精神的にもハードなものだった。ポートマフィア時代の残党始末に駆り出され、異能を酷使したせいで、中也の身体は鉛のように重かった。頭のてっぺんから足のつま先まで疲労が蓄積し、普段なら跳ね起きるような時間であっても、まぶたが重くて仕方がなかった。
ソファにもたれかかり、浅い呼吸を繰り返しながら、中也はぼんやりと考えていた。
どうしてこうも自分は素直になれないのか。ただの一枚のシャツを着るだけで、あの面倒くさい男があれほど嬉しそうに、満足げな笑みを浮かべるというのなら、最初から折れてやっていればこんな鬱屈した夜を過ごさずに済んだのではないか。
ふと、奇妙な考えが中也の脳裏を掠めた。
もしも、今、自分が自発的にあの太宰のシャツを着てみたら、どうなるだろうか。
疲労で思考回路の歯車が少しばかり狂っていたのかもしれない。あるいは、嫉妬と焦燥感に頭が支配されていたせいかもしれない。中也は、普段なら絶対に思いつかないような、いや、思いついても秒速でゴミ箱に捨てるべきその謎のアイデアに、ふと囚われてしまった。
太宰があれほど執着していたのは、それを着た自分の姿を見たかったからだ。ならば、もし今、自分がそのシャツを身にまとって待っていたとしたら――帰ってきた太宰は、一体どんな顔をするだろうか。
驚愕するか。歓喜のあまり奇声をあげるか。あるいは、あまりの予想外の出来事に言葉を失うか。
「……馬鹿な、俺は一体何を考えてやがる」
中也は頭を振ってその思考を追い払おうとしたが、一度芽生えた奇妙な好奇心と、心の奥底にある焦燥は、疲弊した脳みそをジワジワと侵食していった。
もしかしたら、そんな格好をして待ち構えていれば、太宰は今日一日の遅れの言い訳など吹き飛んでしまうかもしれない。何より、自分がこんなにも気をもんでいるという事実を、一番分かりやすい形で叩きつけてやりたかった。
中也はふらつく足取りで立ち上がり、寝室のクローゼットへと向かった。
太宰の私物が雑然と詰め込まれている一角を探り、一番上にあった、太宰がよく着ている白の無地シャツを引きずり出す。生地にはうっすらと、あの男特有の甘い上品な匂いが染みついていた。
「……っ、あ……」
どこか安心する匂いが鼻をくすぐる。中也は上着とシャツを脱ぎ捨て、そのぶかぶしたシャツに腕を通した。
一瞬にして、視界が奇妙な感覚に包まれた。
身長差があるため、中也が着るとそれはもはやシャツというよりは、ミニ丈のワンピースのような様相を呈した。裾は太ももの真ん中あたりまでダラリと垂れ下がり、袖を通した腕の先は完全に布のなかに埋もれてしまっている。手のひらを動かそうとしても、余った長い袖口がヒラヒラと空を切るだけで、指先すら満足に外に出ない。
「なんだこれ……動きづれえのなんのって……」
鏡に映った自分の姿を見た。
ぶかぶかの白い布に包まれた小柄な身体は、自分の知っているそれよりも何倍も幼く、そして滑稽に見えた。首元は大きく開き、鎖骨から肩にかけてのラインが露わになっている。男の服を着ているという背徳感と、自分のサイズに全く合っていないという不格好さが入り混じり、中也の顔はみるみるうちに真っ赤に染まった。
その場で頭を抱えて蹲りたい衝動に駆られる。こんな姿、絶対に他人に見られてはならない。ましてや、太宰本人に見られようものなら、一生の不覚、墓穴を掘るとはこのことだ。
「やっぱやめだ、こんなの……脱ぐ、今すぐ脱ぐぞ……!」
しかし、身体は疲労のあまり重く、ぶかぶかの袖が邪魔をしてボタンを外すのにも一苦労だった。指先がうまく使えず、もたもたしているうちに、玄関の方でカチャリと鍵が回る音がした。
――嘘だろ。
心臓が跳ね上がる。
帰ってきたのだ。あの男が、今、まさに扉を開けて入ってきたのだ。
逃げ場はない。寝室からリビングへ通じる通路の途中で、中也は真っ赤な顔をしたまま、大きな白シャツを纏った異様な姿でピタリとフリーズした。
ガチャリ、と重い扉が開く音がして、酔いと疲労の入り混じった足音が廊下に響く。
「ただいまー……ん? 随分と暗いねえ、中也はもう寝たのかい?」
気だるげな声を出しながら、太宰がリビングの敷居を跨いだ。その目は少し潤んでおり、今日の飲み会がそこそこ楽しかったことを物語っている。しかし、その視線が、部屋の真ん中で立ち尽くしている小さな人影を捉えた瞬間、ピタリと動きを止めた。
太宰の足が止まる。
数秒間の、完全な沈黙。
中也は恥ずかしさと怒りと焦燥がごちゃ混ぜになり、頭から湯気を出しながら、ぶかぶかの袖の中で拳を固めていた。何か言い返さなければならない、こんな格好をしてしまったのは気の迷いだと、そう叫ばなければならないのに、喉の奥がつかえて一言も声が出ない。
太宰の顔が、信じられないほどの速度で歪んだ。
それは絶望でも困惑でもなく、人類史上稀に見るほどの、底抜けの歓喜と、可愛さに打ちのめされた者のそれだった。
「……なっ……」
太宰は息を呑み、次の瞬間、まるで幻を見るかのように目を丸くして、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
「なっ、中也……? え、私ついに飲み過ぎて幻覚を見るようになったかい……?」
「うるせえ! 黙れ! 見るなバカ野郎!!」
中也は引っ込めることのできない羞恥心を誤魔化すように怒鳴り散らしたが、ぶかぶかの袖が邪魔をして威圧感のかけらもない。むしろ、その揺れる袖のせいで、小動物が威嚇しているかのような愛らしさしか醸し出していなかった。
太宰は地面に手をついたまま、しばらく我が目を疑うように瞬きを繰り返し、やがてその口元を両手で覆い隠した。肩が小刻みに震えている。声に出さないように必死に笑いをこらえているのが、中也には痛いほどよく分かった。
「待って、待ってくれ中也。可愛い、可愛すぎる……! あれだけ何日も拒絶し続けた中也が、どうして突然……? もしかして、私の帰りが遅いからって寂しくなっちゃったのかな? ねぇそうかい?」
「ふざけんじゃねえ! 寂しくなんかなかったわボケ! ただ、その、なんだ……お前がうるさいうるさい言うから、一回着たら静かになるかと思っただけだ!!」
「あははっ、言い訳が下手くそすぎるよ中也!」
太宰は一気に立ち上がると、まるで獲物を狙う野獣のような、しかしこの上なく甘ったるい笑みを浮かべて中也へと歩み寄ってきた。
「待て、来るな! 来るんじゃねえ!」
「何言ってるんだい!こんな最高のご褒美を目の前にして、何もしないわけがないだろう!」
太宰は一気に距離を詰め、その大きな両腕で中也の身体ごとふわりと抱きしめた。
ぶかぶかのシャツ越しに、太宰の体温がダイレクトに伝わってくる。中也の身体は緊張でガチガチに硬直していたが、太宰の腕は優しく、しかし絶対に逃がさないという強い執着を込めて、中也をしっかりと包み込んでいた。
「……っ、おい、苦しい、袖が……手が動かねえだろ……」
「だって、こうしていないと中也がどこかへ逃げちゃいそうなんだもの。ねえ、本当によく似合っているよ。私のシャツが、世界で一番似合うのは間違いなく中也だね。…ねぇ、毎日着てくれても一向に構わないよ? なんなら、今度から私のシャツは全部中也の専用にしてあげる」
「ふざけんな、二度と着るかこんなもん!」
文句を言いながらも、中也は結局、太宰の腕から抜け出そうとはしなかった。
太宰の胸元に顔をうずめる格好になり、そこから漂う微かな酒の匂いと、いつもの香水の匂いを嫌でも鼻腔の奥に吸い込まされる。
外であんなに募らせていた嫉妬も、焦燥も、この不格好で馬鹿馬鹿しい状況のなかで、まるで嘘のように溶けて消えていくのを感じていた。
太宰は満足げにふふっと笑い、ぶかぶかの袖の端っこをそっと自分の手で包み込むようにして握りしめた。
「お疲れ様、中也。遅くなってごめんね」
「……馬鹿野郎」
静まり返った部屋の中で、二人の影が一つに重なり合う。
中也が着た太宰のシャツは、その夜の甘い熱気の中で、いつまでも温かく、少しだけ大きすぎた。
午前十時の武装探偵社、その一角のソファに転がりながら、太宰治は大きくため息をついた。
「あーあ」
骨の髄まで気怠げな声を響かせる。隣の机で書類に目を通していた国木田が、眼鏡を押し上げた。
「おい太宰、何度目だその溜息は。仕事がないなら窓でも拭いてろ」
「国木田君、仕事の有無と私の精神的枯渇は全く別問題なのだよ。私の心は今、砂漠の如く乾ききっている」
「勝手に干からびていろ。で、どうせくだらない理由だろうが、なんだ」
国木田が冷たくあしらうと、太宰はむっくりと起き上がり、机に突っ伏した。
「ねえ、同棲している恋人が、自分のシャツをただの一度も着てくれたことがないとしたら、君はどう思う?」
「……は?」
「あれだよ、巷のカップルで流行っているという『彼シャツ』だ。どうして我が家の可愛い相棒は頑なにそれを拒絶するのか、手をこまねいていてね。昨日もねだったら、盛大に蹴り飛ばされたんだよ。ひどくないかい?」
「自業自得だ。中原がそんな子供の悪ふざけに乗るわけがないだろう。だいたい、お前たちが同棲していること自体、未だに信じがたいがな」
呆れ果てたように吐き捨てる国木田を無視して、太宰は再びソファに沈み込んだ。
脳裏に蘇るのは昨夜の光景だ。
風呂上がりの中原中也に、自身の白シャツを差し出して「これを着てみておくれ、中也!」と満面の笑みで迫ったのだ。結果として、中也は顔を真っ赤にして「ふざけんなクソ太宰! 誰が手前のシャツなんか着るか!」と怒鳴り散らし、見事な回し蹴りを繰り出してきた。回避したものの、シャツは壁に叩きつけられ、あえなく撃沈したのである。
悔しい。悔しすぎる。
小柄で、普段はスタイリッシュに仕立てられた黒いコートやタイトな服を着こなしている中也が、自分のぶかぶかのシャツを一枚だけ着て、裾からすらりとした太ももを覗かせている姿を想像して見る。最高だ。絶対似合う。間違いなく尊い。
それなのに、あの生娘のような恥じらいというか、妙なプライドが邪魔をして、中也は絶対に首を縦に振らない。
「……むぅ」
太宰は唇を尖らせた。力ずくで着せるという手も考えたが、それをやると本気で愛想を尽かされるか、自宅が半壊するほどの重力嵐に見舞われるかの二択である。頭脳派の自分としては、スマートに、かつ絶対的な不可避の状況を作り上げて、自発的に(あるいは渋々)着せるほかない。
太宰は瞳を怪しく光らせると、クスクスと不敵な笑みを漏らし始めた。
「……おい、太宰。なんか悪巧みしてる顔だな」
「まさか。私はただ、愛しい恋人との健全なスキンシップについて考えていただけさ」
国木田の疑わしげな視線をサラリと受け流し、太宰は社を飛び出した。
```
*
```
夕暮れ時。
横浜の街並みが夕陽に染まり、赤茶けたグラデーションを描く頃、太宰は鼻歌を歌いながら帰路についていた。
すでに頭の中では完璧な作戦が組み上がっている。用意周到、隙のない罠だ。これにはの中也も一本取られるに違いない。
鍵を開けて自宅の玄関に足を踏み入れると、すでに帰宅していたのか、心地よい夕食の匂いが漂っていた。キッチンからは、トントンと小気味よい包丁の音が聞こえてくる。
「ただいま、中也」
「お、おう、おせぇぞ。もうすぐ飯にすっから手洗え」
エプロン姿のまま振り返った中也の姿を見て、太宰の口元がニヤリと歪んだ。作戦の第一段階、すでにクリア。
夕食を済ませ、ソファでくつろぐ時間。
テレビからはニュースの音声が流れ、リビングには穏やかな空気が満ちている。中也はソファの端に腰掛け、熱い緑茶をすすりながら今日の任務の報告書に目を通していた。
その隣に、太宰がスルリと滑り込む。
「なんだよ、近ぇぞ」
「いいじゃないか、恋人同士なのだから」
ベタベタとまとわりつく太宰に、中也は鬱陶しそうに眉をひそめつつも、追い払うことはしない。これが長年連れ添った(同棲している)二人の距離感だった。
しかし、本日の太宰には明確な目的がある。ここからが本番だ。
「ねえ、中也」
「んだよ」
「実はね、今日の帰り道で、ちょっとアクシデントがあってね」
太宰はわざとらしく深刻そうな、それでいて少し困ったような声音を作ってみせた。中也が怪訝そうに視線を上げる。
「アクシデント? お前、また面倒事に巻き込まれたのか」
「いや、抗争とかそういうのじゃないんだ。……その、水溜まりに盛大に突っ込んじゃってさ」
「は? お前が?」
「見てよこれ」
太宰は着ていた自身のシャツの裾を少しだけ持ち上げた。そこには、あらかじめ道すがら泥水(に見せかけたコーヒーと泥のブレンド)を器用に塗りつけておいた、おぞましい染みが広がっている。
「うわっ、汚なっ! なんでそんなとこにピンポイントで泥かぶってんだよ、お前は本当に手がかかるな!」
中原中也という人間は、根が面倒見が良すぎるというか、こういう時に反射的に世話を焼いてしまう性分なのだ。眉間にシワを寄せながらも、呆れたようにため息をつく。
「で、どうすんだよそれ。替えの服はあるのか?」
「それがね、運悪く今日の荷物に予備のシャツを入れていなくてさ。しかも、このシャツ、お気に入りの特注品なんだ。今ここで脱いで洗濯して、乾かさないといけないんだけど……」
太宰はそこで言葉を区切り、じっと中也の顔色を窺った。
「なんだよ、はっきり言え」
「今、家にある私の服、全部洗濯中でさ。替えがないんだよねぇ」
「は? じゃあどうすんだよ。まさかこのまま寝る気か? 臭いからやめろ」
「だからさ……」
太宰はここぞとばかりに、子犬のような潤んだ目を演出してみせた。
「中也の服を借りようかと思ったんだけど、中也の服はどれもサイズが小さくて、私のこの長い手足が入らないんだよ。パツパツになってボタンが吹き飛んじゃう」
「あ? ふざけんな、テメェの体がデカいせいだろ! 私の服をなんだと思ってやがる!」
「でしょ? だから、困ったなぁって思ってね」
太宰はすっと身を乗り出し、中也の耳元に顔を寄せた。
「ねえ、中也。私の代わりに、今夜だけ私のシャツを着てくれないかい? それか、君の部屋にある私の服のスペア……と言いたいところだけど、実はさっき全部そっちの洗濯機に突っ込んじゃって、今着られるのは、リビングに干してある私の新しいワイシャツ一枚だけなんだよねぇ」
もちろん、そんな事実は一切ない。クローゼットには替えの服などいくらでもある。だが、中也はそんな裏事情など知る由もない。
「……は?」
中也の動きがピタリと止まった。
「つまりだ、選択肢は二つ。私が全裸で過ごして風邪をひくか、それとも中也が私のシャツを一枚だけ羽織って、私の寒さを救うか、だ」
「なっ……! なんでそう極端なんだよ!」
中也の頬が一気に紅潮する。ぐっと言葉に詰まり、顔を真っ赤にして太宰を睨みつけた。
「全裸は風邪をひくから論外だし、かといって私のシャツを着るのも……! お前、それ、私にわざわざ着せようとしてるだろ!」
「まさか! そんな卑怯な真似、私に限ってするわけがないじゃないか。ただ純粋に、我が家の防寒と衛生面を考慮した結果の合理的な提案さ」
しれっと嘘をつく太宰の顔には、微塵の良心の疼きもない。むしろ、内心では「よし、罠にかかったぞ」とガッツポーズを決めていた。
中也は激しく葛藤していた。
太宰の言う通り、全裸でウロつかれては目の毒だし、何より風邪でもひかれたら面倒くさい。かといって、あの憎たらしい男の、しかも首元まである大きな白シャツ一枚を自分が着るなど、羞恥心で頭がおかしくなりそうだった。
しかし、太宰は引き下がらない。
「だぁめ? 中也は冷たいなぁ。私の愛しい相棒は、寒さに震える恋人を見捨てるような薄情な人だったのかい?」
「っるせぇ! 薄情とかそういう問題じゃねぇだろ!」
頭を抱えて唸る中也。その小さな頭の中で、激しい論理の戦いが繰り広げられているのが手に取るようにわかる。
やがて、中也は観念したようにガクリと肩を落とした。顔はトマトのように真っ赤で、耳たぶまで熱を持っているのがわかる。
「……わかったよ、着りゃいいんだろ、着りゃ!」
「おおっ! 本当かい!」
「ただし! 条件がある!」
中也はビシッと太宰を指差した。
「一、絶対に笑わないこと。二、写真や動画の類は一切残さないこと。三、十分以内にすぐ元に戻ること! この三つを破ったら、その場で重力で天井に叩き潰すからな!」
「了解! 十二分に留意するよ!」
太宰の目がキラリと輝いた。勝利の瞬間である。
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数分後。
寝室から戻ってきた中也を見た瞬間、太宰の脳内で盛大な花火が打ち上がった。
「……おい、これで文句ねぇだろ」
不機嫌そうに腕組みをしながら、中也がリビングの敷居をまたぐ。
そこにあったのは、太宰の想像を遥かに超越した破壊力を持つ光景だった。
背の高い太宰のワイシャツは、小柄な中也が着ると、まるでミニワンピースのようになっていた。裾は膝上あたりまであり、そこから覗く引き締まったすらりとした太ももが、夕暮れの部屋の照明に照らされて生々しいほどの白さを放っている。
さらに、首元は大きく開いており、鎖骨から美しい肩のラインが丸見えだ。袖は指先まですっぽり隠れてしまい、小さな手が申し訳なさそうに袖口からのぞいている。
あまりの破壊力に、太宰は一瞬、呼吸を忘れた。
――尊い。可愛すぎる。言語道断の反則だ。
心臓がバクバクと騒ぎ立てる。あんなに頑なに拒んでいたくせに、いざ着せられてみれば、本人の持つ気高さと無防備な色気が奇跡的な化学反応を起こしてしまっている。
「なっ、なんだよその目は……! 気持ち悪いぞ、太宰!」
恥ずかしさのあまり涙目になりながら、中也は袖で顔を隠そうとするが、袖が長すぎてバタバタと空を切るだけだ。その仕草すらも、太宰の理性を音を立てて崩壊させるのに十分だった。
「いやぁ……素晴らしい。実になんというか、感服したよ、中也」
太宰はフラフラと立ち上がり、中也へとじりじりとにじり寄った。
「な、なんだよ、近づくな! 十分経ったらすぐ脱ぐからな!」
「待って待って、そんなに慌てないでおくれよ。せっかくの記念すべき夜じゃないか」
「記念にするな! 黒歴史だこんなもん!」
背中を壁に追い詰められた中也は、逃げ場を失って顔を真っ赤に染め上げた。怒っているのだが、声が少し震えているのは羞恥心のせいだろう。
太宰は中也の目の前でぴたっと足を止め、その華奢な肩にそっと手を置いた。
「……ねえ、中也」
ふざけた調子がスッと消え、太宰の瞳が真摯な光を帯びる。その圧倒的な熱量に、中也は息を呑んだ。
「なんだよ……」
「やっぱり、すごく似合っているよ。私のシャツが、何倍も価値のある代物に見えてくる」
「っ……お世辞なんていいから……」
「お世辞じゃないさ。嘘偽りのない本音だ」
太宰はゆっくりと顔を寄せ、中也の額に自分の額をこつんと合わせた。
中也の体がビクリと震え、目をギュッとつむる。その長い睫毛がわずかに震えているのが愛おしくてたまらない。
「……ずるいぞ、お前」
中也がトロンとした声で呟く。
「何がだい?」
「こんな……こんな格好、二度と言わせんなよ……」
「ふふ、どうかな。一度着てしまったら、次からはハードルがぐっと下がるんじゃないかい?」
「下がらねぇよ! 次なんか絶対ない!」
怒りながらも、中也は拒絶しきれない様子で、太宰の背中にそっと腕を回した。長すぎる袖越しに、しっかりと太宰の背中を掴む。
その小さな温もりが、太宰の胸を温かく満たしていく。
作戦は大成功だった。首尾よく彼シャツを着せることには成功したし、何より、こんなにも愛おしい表情を独占できている。
「じゃあ、今夜はこのままで過ごそうか、中也」
「はぁ!? ふざけんな、寒いし落ち着かねぇよ!」
「大丈夫、私がしっかり温めてあげるからさ」
「そういう問題じゃねぇっ……!」
文句を言いながらも、中也はそれ以上太宰を突き放そうとはしなかった。
静かな夜のリビングで、大きくぶかぶかな白シャツを纏った恋人を優しく抱き締めながら、太宰は心底満足したように目を細めたのだった。
コメント
7件

彼シャツは至高。尊いの極み。太中の身長差がメッッッチャ活かされてて最高です!!!
へっへへへへへっへへへへ(←怖) 表現が好きなんだよ夏の穂さんの…!頑張ってこんなものを書けるようになりたい…!(←書けませんこの人は語彙力がないので)
読み終わりました……! 太宰の執拗なまでの「彼シャTSURU」作戦、見事に決まった瞬間の破壊力がすごかったです。中也が自らシャツを着て待つ展開に至る心理——嫉妬と疲労と、何より「自分がこんなに気をもんでるって分からせてやりたい」という拗れた愛情表現が、小さな身体にぶかぶかのシャツを重ねることで可視化される演出にぐっときました。太宰の「ずるいぞお前」に顔をうずめる中也、最高です。