テラーノベル
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夜の水上都市は、まだ眠る気配を見せていなかった。
窓の外では桟橋に連なる灯りが湖面に揺れ、酒場からは歌と笑い声が漏れてくる。湿った風が窓枠をすり抜け、木の壁を冷やしていった。けれど、その賑やかさは、この部屋の空気を少しも温めてはくれない。
エリーの自宅は、昼と変わらず足の踏み場が怪しかった。床には読みかけの魔導書や巻物、用途不明の魔道具が散り、シンクには昼間のカップと皿が無造作に積み上げられている。テーブルの上には茶葉の缶と干からびた薬草束が転がり、どこかで乾いた薬草の匂いが残っていた。
ミラは部屋をきょろきょろ見回し、近くに置かれていた魔道具を興味津々とつついている。指先で叩くたび金属が小さく鳴った。ソファには、オットー、ダリウス、エドガー、そしてエリーが並んで腰を下ろしていた。革がきしみ、誰かが体重をずらすたびに沈む。
「で——」
エリーが、頬杖をついたまま口を開く。美しい脚をくいっと組み替えると、布がこすれて小さく鳴った。
「今まで、どうやって生き残ってきたの?」
「いや、だからさっきみたいな連携で——」
ダリウスが困ったように答えかける。言葉の途中で喉が止まった。エリーが、先に空気を切る。
「その“連携”が崩れたとき、どうなってた?
誰か、犠牲にならなかった? 何か、代償を払わなかった?」
問われて、三人は同時に口を閉ざした。
オーガ戦で吹き飛ばされたオットーの足。
ワーウルフ戦でダリウスの肩から大量の出血。
オーク戦で、エドガーが腹部に致命傷。
エルダードラゴンの爪がオットーの腹を貫き、阿修羅の炎が彼の寿命を削った、ついさっきの戦い。
「…………」
ダリウスは唇の内側を噛み、視線を落とす。エドガーは魔導書の背表紙を指でなぞり、同じ場所を何度も往復した。オットーは腕を組んだまま、天井の一点を見つめて動かない。胸の上下だけが大きい。
その重さの中で、ミラだけが部屋の隅にあった魔道具をひねり、「わー、風出た」と遊んでいる。紙切れが舞い、床に落ちた。
エリーが大きく息を吐き出した。鼻から抜けた息が、薄い白になりそうなほど冷たい。
「……約束を破る形になるけど」
視線を少し外し、指先で頬を軽く押す。
「やっぱり、私は一緒には行けないわ」
言い切ってから、口元が一度だけ硬くなる。次の言葉は、喉の奥で削ったみたいに小さかった。
「……もう、知り合ってしまった誰かを看取るのは嫌なのよ……」
その一言が落ちると、ダリウスの肩がわずかに跳ねた。
(卑怯だ……)
喉の奥で、乾いたものが鳴る。
(ここであの名を出すのは、きっと彼女の誇りを踏みにじるやり方だ。
でも——それでも)
オットーの、残り二十年になったと笑う顔。
エドガーの、魔導書を抱きしめる横顔。
ミラの、震えながらも手を伸ばしてきた、あの夜の涙。
(仲間のためなら、いくらでも汚れてやる)
ダリウスは背もたれから身体を起こし、真正面からエリーの瞳を見据えた。
「コンラートが——借りを返せって言ってた」
「っ」
エリーの肩がびくりと震えた。頬杖が少しずれ、爪が頬の上で止まる。青い瞳が大きく見開かれ、息が一度だけ詰まる。
「……あのおっさん」
舌打ちが、はっきりと聞こえた。
「だから人の子は嫌なのよ……そういうところが」
ぼやきながら、膝の上の指先がきゅっと握られる。視線だけは逃げない。逃げ場を探す癖が、そこで止まったみたいだった。
「じゃあ——」
ダリウスが言葉を継ごうとすると、エリーが先に息を吐いた。吐いた息が、観念の形をしている。
「……一旦、あなた達の現状を確認して、鍛えるわ」
口の端が、ほんの少しだけ上がる。笑いというより、諦めの折り目。
「上に行くのは、それから」
「へへっ、いいじゃねぇか」
オットーが、待ってましたと言わんばかりに笑う。さっきまで動かなかった肩が、やっと揺れた。
「修行なんて、何十年ぶりだ?」
エリーは呆れ半分、苦笑半分でオットーを見て、めんどくさそうに肩を回しながら立ち上がった。床の魔道具を避けて、つま先で器用に歩幅を取る。
「まず、《鑑定》させてもらうわよ」
「《鑑定》が使えるんですか!? 失われた魔法ですよ!?」
エドガーが反射的に前のめりになる。膝の魔導書がずれ、手で押さえ直す。目の奥が一気に明るくなった。
「長生きしてるから」
エリーは短く言って、どや顔で胸を張った。次の瞬間、視線がふっと遠くへ泳ぐ。眩しさを避けるような一瞬の間が落ちたが、誰も口に出さないうちに彼女は目を戻した。
「まずはあなたからよ、ダリウス」
名前を呼ばれ、ダリウスはまっすぐエリーを見上げる。
「どうすればいい?」
「座ったままでいいわ」
エリーは正面に立ち、すっと片手をかざした。指先に集まる魔力で、髪の産毛がわずかに逆立つ。
「フェルン・ディスゥ・スフィアォン・ダヌゥ・イロォ・フィッツィ……」
聞き馴染みのない言語が滑らかに紡がれる。音が転がり、部屋の空気の密度が変わる。エドガーは息を止めたまま、口の端だけがわずかに動いた。
「——《鑑定》」
ぱん、と音もなく光が弾ける。
ダリウスの足元に青白い魔法陣が浮かび上がった。円形の紋様が幾重にも重なり、その中に淡い文字と数字のようなものが流れていく。光が肌に当たり、影が短く揺れる。
(やっぱり《深き森》が使える。けど、まだ発展途上ね……)
エリーの瞳が文字を追う。瞬きが減り、呼吸が浅くなる。
(ステータスはどれも平均。ここまで“綺麗に平均”なのも逆に珍しいわね。
剣技は……《月下無痕》。東の剣術か。これは使えそう。
間合いを読む才能は十分。でも、このままじゃ活かせるのはせいぜい低層階まで……)
そこまで読み取って、エリーの眉がぴくりと跳ねた。視線が一行で止まり、もう一度そこへ戻る。
(……デバフに《息切れ》!?)
指先が無意識に宙で止まる。唇が一瞬だけ開き、閉じる。
(長命種の私が初めて見るわよ、そんなデバフ……世界は広いのね……)
ダリウス本人は何も知らず、きょとんとしたまま瞬きをした。エリーは喉の奥でため息を飲み込み、魔法陣を消す。光がほどけ、床が元の色に戻った。
「次はあなたいくわよ、オットー」
「お、おう」
呼ばれたオットーが腹をぽりぽり掻きながら前に出る。足が一歩目だけ変に遅い。
エリーは同じように手をかざし、再び詠唱を始めた。
「フェルン・ディスゥ・スフィアォン・ダヌゥ・イロォ・フィッツィ……《鑑定》」
青白い魔法陣がオットーの足元に展開される。光が鎧の縁をなぞり、汗の跡を浮かび上がらせた。
その紋様を覗き込んだ瞬間、エリーのまつ毛が震え、口元が止まった。
(デバフが……多すぎない?
アルコール中毒、痛風、腰痛、脂質異常……)
文字列が視界に並ぶ。彼女の視線が、上から下へ一度では追いきれず、途中で引っかかる。
(……生きてるの? これで?)
一拍。思考が止まる。エリーは顎を引き、息を一つだけ整えた。
(落ち着きなさい、エリー。驚くのは後。先に全体を見なきゃ)
視線を走らせると別の項が目に飛び込む。彼女の瞳が、そこでだけ鋭くなる。
(……規格外のシールドバッシュ。数値がおかしい……。通常の三倍どころじゃないわね、これは。
それに——)
項目のひとつで、エリーの喉がごくりと鳴った。
(《阿修羅》の呪い……?)
説明文を追い、エリーの表情がわずかに引きつる。眉間に小さな皺が寄る。
「……あなた」
魔法陣を消し、オットーを見つめる。オットーは笑っていない。肩の力が抜けたまま、目だけが前を向いている。
「……呪われてるのね」
「…………ああ」
オットーは視線を逸らし、低く答えた。喉仏が一度だけ上下する。
「昔の仲間が、生き残るためにってな……生贄になった」
言葉が落ちたあと、部屋の中で外の笑い声だけが妙に目立った。遠いのに、輪郭がはっきりしている。
ダリウスとエドガーは同時に俯いた。指先が、膝の上で動く。止める。動く。言葉を探して、やめた動きだ。
エリーは自分の舌が余計だったことに気づく。目線が一度だけ揺れ、すぐ戻る。
(……しまった。触れちゃいけない傷に、足を突っ込んだ)
「……そう」
それ以上、彼女は何も問わなかった。呪いの出どころも、手順も、掘ればいくらでも出る。けれど、そこに踏み込む靴音を、彼女は自分で止めた。
(これは、彼らの物語。
私が口を挟むのは、助ける時だけでいい)
エリーは小さく息を吐く。
そのとき——
「ぱぁん!」
部屋の隅で派手な音とともに火花が散った。
「きゃっ!」
ミラがいじっていた魔道具が小さな爆発を起こし、薄い煙を上げる。ミラの顔は見事に真っ黒に煤け、髪の先から焦げた匂いが立った。彼女は瞬きを二回して、鼻先を指でこすり、さらに黒くした。
「……ミラ」
エリーは額を押さえた。指の間から黒こげの顔を見ている。
「それ、触るなって言おうと思ってたところだったのに」
「へ、へへ……」
ミラは煤けたまま照れ笑いを浮かべる。歯だけが白い。
重かった空気が、ほんの少しだけほどけた。ソファの革が、誰かの息で鳴る。
エリーは視線を切り替え、次の標的を見るように手をかざした。
「次はエドガーね」
名指しされたエドガーは背筋を伸ばす。だが、その直後、目がきらりと光った。
「あ、その前に少し、いいですか?」
「なに?」
「あなたの詠唱、少しリズムと抑揚が違うのはなぜです?
音節の区切りも一般的な魔法学院教本と異なっていました。“フェルン”と“ディスゥ”のつなぎ方とか——」
言葉が早い。息継ぎの位置まで計算したみたいに途切れない。エリーは一瞬きょとんとし、それからふっと口角を上げた。
胸の前に手を軽く当てる。答えは短い。
「気づいて当然」という顔をしている。
「気づいたようね……訛りよ?」
「!!!!???? ……な、訛り……ですか」
エドガーの目が一度だけ泳ぐ。脳の中で棚が倒れる音がしそうな間が落ちた。
「当たり前じゃない」
エリーはさらっと続ける。
「あなた、本気で“すべての魔導書が同じ地域で描かれた”と思っていたの?」
「た……確かに…………よく考えればわかることだった……」
エドガーの顔から血の気が引く。額に手を当て、小さく呻く。
「なんてことだ……私は馬鹿か……」
エリーは肩をすくめる。
「気にすることはないわ」
言い切ってから、指先で空を軽く切る。
「当時の発声記録なんて、まともに残ってないでしょうし。
そもそも、あの抑揚は“リズムよく発声するため”だけのもの。
魔法そのものの威力には、ほとんど影響しないわ」
エドガーの肩が、がくりと落ちる。背筋に入れていた力が抜け、膝の上の魔導書が少しだけずれる。
彼は唇を動かす。声にならない。喉が鳴り、拳がきゅっと握られた。
(私の……数十年の研究が……
“雰囲気づくり”に全振りだった……?)
視線が床に落ち、また戻り、戻らない。呼吸が浅くなる。
(いや、そんなはずは……でも……いや、でも……!)
そのとき。
肩に温かい感触が置かれた。軽い。けれど、確かに手の重みがある。
見上げると、すぐそこにエリーの顔。青い瞳がまっすぐ覗き込んでいる。距離が近い。外の灯りが窓から入り、その瞳の中で小さく揺れていた。
「悔しいのは、痛いほどわかるわ」
声が低い。さっきまでのぶっきらぼうさが、端から消えている。
「また今度、ゆっくり教えてあげる。
私が知ってる“昔の魔法の話”を、ね」
「……エリー」
エドガーの喉が鳴る。唾を飲んでから、やっと息が入った。顔の熱が少し上がる。
間近で見る瞳は、揺れの少ない青だった。そこに映る自分の顔が、思った以上に情けない。
それでも、目が離せない。
胸の奥で、トゥクン、と心臓が跳ねた。跳ねたことが、皮膚の内側まで伝わる。
(なんだ、今の……?)
エドガーは自分の喉元に指を当てたくなるのを堪え、視線だけで答えを探す。魔法式でも呪文でもない。魔導書のページをめくっても載っていない。
(魔法でも呪いでもない……これは、何だ?)
言葉はまだ見つからない。
部屋の隅で、魔道具を振り回していたミラが、ふと手を止めた。煤けた顔のまま、視線が二人の間の距離へ吸い寄せられる。
(……ん? これは!?)
口元がにやりと歪む。探偵じみた笑いがそこに乗った。
(恋の匂い!!!
ふふん、この“恋愛警察”の目は誤魔化せないんだからね、エドガー)
ミラは、にやにやしながら二人の距離をじっと観察し始めた。エリーはまだ手を引かず、エドガーは顔を上げたまま固まっている。外の歌声が、窓の向こうで一節だけ大きくなった。
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