この作品はいかがでしたか?
83
この作品はいかがでしたか?
83
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
少しでも謙也から離れたくて、ベッドの端で眠った。
いつもの月曜、朝食を二人で食べて玄関まで見送る。
賢也が「行ってくるよ」と言って手を伸ばしてきたが、つい身体を引いてしまった。
触られたくない
そんな私に苦笑いをしながら賢也は出て行った。
賢也と出会ったのは、叔父の経営する印刷所の事務をしていたとき、販促パンフレットの打ち合わせで事務所に来たことがきっかけで知り合った。
ネットを通しての注文ももちろん可能だったが、なにか会社でミスがあったらしく即日に必要だと直接会社にきて頭を下げていた。
なんとか、間に合ったようで菓子折りを持ってお礼に来た。超急ぎとはいえ仕事だから気にすることは無いのに、自分のミスで大きな損失が出るところを助けられたと言っていた。その姿がとても爽やかで素敵だった。
その後も、冊子やチラシ、名刺などを注文してくれるようになり、ランチに何度か誘われたのちディナーに誘ってくれた。
ずっと女子校でクラスメイトや友人のように合コンとかにも参加しなかったため、男性にはまったく免疫がなく、さらに叔父の経営する印刷所に就職したことで出会いの機会は全く無いに等しかったが特に気にしてはいなかった。
いつかはだれかと結婚するだろうな
と、漠然と思っていた程度だったが、賢也との何度目かのディナーで交際を申し込まれた時に、もともと常識的で優しい人柄に惹かれていたこともありその場で交際を受けた。その後、半年もしないうちにプロポーズをしてくれて、披露宴は行わず身内だけで結婚式をした。
お互い派手なことを好まなかったからそれでよかった。
賢也の両親にもかわいがってもらっていて幸せな日々を送っていると思ったのに・・・
家に居ても嫌なことしか考えないので、気分転換に買い物に出た。
今夜は何にしよう・・・
スーパーなら一軒ですべてが揃うが、商店街の八百屋、精肉店、鮮魚店でおすすめや料理法を聞きながら買い物をするのが好きだ。
サラダに使おうかと思ってレッドオニオンを手に取ったとき、目の端に映り込んだのは「探偵」の二文字。
いつもの風景で、もう何年も来ているのに初めて目に入った。
人間って不思議だ、ずっとそこにあったのに必要としないときには認識できない物が、必要だと思っていると気がつくのかも知れない。
八百屋の前にある街灯に貼られている看板に、“この先一つ目を右”と書いてあるのを確認してからレッドオニオンと小松菜とレタスの代金を支払うと看板に書かれていた場所に向かった。
目的の場所は路地に入ったところにある築年数がかなりいってそうな雑居ビルの3Fで、暗い階段を上り通路を歩いて行くと“松崎探偵事務所”と書かれたドアがあった。
いざ扉の前に来るとその先に行くことが怖い。
建物の空気感に飲まれていることも、怪しげに見える事務所も、賢也の本当の姿を知ることもすべてが怖かった。
「どうしよう・・・」
なにも詮索せず見ない振り、気付かないふりをすれば賢也は優しくて大切にしてくれる。
このままでもいいんじゃ無いかと思ったり、浮気をしている相手に本気になれば、優しさもその人のモノになっていくんじゃないか、それなら現実を見た方がいいのか
それ以前に、このドアの先がどうなっているのかも怖い
どんな人なんだろう・・・
やっぱり今日は帰ろうかな
そう思ってドアから離れようとした所に、どこかで買い物をしてきたのかビニール袋を手にぶらさげ、無精ひげにぼさぼさの黒髪、ノーネクタイのシャツを第二ボタンまで開けて、スラックスの先はサンダル履きの背の高い男が立っていた。
「お客さん?」
「あっ。いえ・・・」
思わず涙がこぼれてきた
泣くつもりなんて無かったのに、ちょっとした事で涙が落ちてしまうほど私は家で気が張っていたのいたのかもしれない。
「話を聞くだけなら無料だけど?」
背の高い男はそう言って優しく微笑むと事務所の扉を手で押し開けて「どうぞ」と言った。
どうぞと言われて扉の先に入ると、室内は荒れていた。
「事務兼、アシスタントがやめてしまってからこんな感じになっていて」
頭を掻きながらそう言うと、ソファに置かれた雑誌や服をまとめ端に寄せると、どうぞとすすめられた場所はかろうじて人一人が座れるスペースしか無かった。
おずおずと座ると、男は松崎朗(まつざき あきら)と名乗って名刺をくれた。
ソファに座ると堪えていた物が緩んでしまい涙がとまらなかった。
誰にも相談できず、ずっと不安に襲われていた
松崎は泣いている私に何も言わずココアを淹れてくれて泣き止むまで待っていてくれた。
「毎週金曜日は残業で、ワイシャツからはいつも同じ香がするということだね?」
「はい」
「まぁ、言いにくいけどダークグレーだね」
賢也を信じたいと思っている自分でもそう思うのだから、第三者からみればそうなんだろう。
松崎は気を使ってダークグレーという言い方をしているが、きっと真っ黒だ。
「金曜日という曜日や時間もほぼ決まっているならピンポイントで動くことができるので、手付金が10万で出来高報酬として証拠と報告書の作成で15万、合わせて25万で調査をできます。出来高制なのでご主人が浮気をしていなかったら、手付金の10万しか掛かりません」
正直25万円が安いのか高いのかはよく分らないが、25万で今までの生活が変ってしまう。
でも
何も無ければ、自分の思い違いだったら
「この金額が片桐さんにとってどれくらいの重みかは分らないです。分割でももちろんかまわないですが、25万もしくは10万で気持ちをリセットすることができるのではないですか?」
「もちろん俺は仕事だからこの案件を引き受ければお金になる。だからビジネスで話をしていると思われても仕方が無いとおもいますが、このままずっと疑って不安になって今のようにちょっとした刺激で涙が止らなくなる。そんな生活をずっと続けていくんですか?」
何も言えずに俯いていると
「それでも今はここに来たときよりも顔色がいいですよ。調査についてはもう一度じっくりと考えて見ればいいと思います。」
そうだ、今私はここに来る前よりも気持ちがすっきりしている。
ずっとモヤモヤとして、誰かに話すこともできなくて苦しかった。呼吸が難しかった。
松崎さんに話して泣いたら呼吸が安定した。
「今日一日考えてみます。ありがとうございました」
松崎は優しい笑顔で「どういたしまして」と言うとドアを開けて見送ってくれた。
このままずっと・・・・
賢也を疑って、不安になって・・・
夜も・・・できなくなったら、ますます賢也は・・・・
手には橘有佳(たちばな ゆか)と書かれた預金通帳がある。
結婚前に預金していたもので旧姓のままになっている。
「口座なんだけど、全部を名前変更する必要は無いんじゃ無い?結婚前に貯めたお金は共有財産じゃないんだから何かあったときにそのまま保管しておいた方がいいよ」
結婚するときに友人に言われた言葉だ、彼女の両親は離婚していて母親は父親からの慰謝料の支払いが滞って離婚した後の生活に困ったそうだ。
披露宴をしていないし、独身の時は叔父の会社だったこともあり誰かに口説かれると言うことも無かった、もちろん合コンなどもしないし、分不相応な買い物もしなかったので気がつくと結構な預金額になっていた。
結婚するときはこんなことになるとは思っていなかったから、彼女の話をきいてもピンとこなかったが、賢也の浮気調査に賢也の給料を使うわけにもいかず、言われたとおり旧姓の預金をとっておいてよかったと彼女に感謝したいと思った。
ダークグレーとは言われたけど、ブラックとは言われていない。
もしかすると本当に残業で一緒に働いているのが
あの・・・下品な香水を付けている人なのかも知れない・・
松崎さんの言葉を思い出す
「ワイシャツにそんなに分るほどの移り香って、浮気相手がわざと匂わせてる気がするよ。旦那さんは会ってすぐは匂いに気付くかも知れないけど、ずっと至近距離にいれば匂いになれて気にならなくなるから」
そう、仕事中だって至近距離になることはある・・・・
気がつくと賢也の帰宅時間が近づいていた
慌てて夕食をつくった。
普段は本当に普通だ。
食事中の何気ない話題、今までと変らないが確実に私は変わっているかも知れない。
テーブルの上に置いてある賢也のスマホから通知音がする。
一瞬みてスマホを裏返す。
「どうしたの?みていいよ」
「いや、いいんだ。同僚からちょっと相談ごとをされていて」
ブブッ ブブッ ブブッ ブブッ
連続でお知らせが入る。たぶんLINEの通知だろう
「そんなにたくさん通知が来るって、急ぎかも知れないよ?」
「そ・・そうかもね」
賢也は慌ててスマホを持つとリビングに向かった。その間も通知音が鳴っていた。
慌てて裏返すとか
場所を移動するとか・・・・
気になりはじめると、すべてが怪しく感じてしまう。
LINEぐらいその場で返せばいいし、
それに、LINEの通知がしつこい・・・あんな風にメッセージをしつこく送る?
スタンプを沢山とか?
少しすると賢也は戻ってきて「ごめんね」と言って食事の続きをした。
何に対しての「ごめんね」なの?
片付けものをしてから、リビングのソファに座って見るでもなしにテレビの液晶画面を見つめていた。
「このドラマ、いつも見てたっけ?」
「え?」
賢也に唐突に話しかけられて何のことか分らなかった。
「いや、このドラマいつもみてたのかな~って」
テレビ画面を見つめていても心は他のことに捕らわれていたため連続ドラマが流れていることにすら気付いていなかった。
「あっ、ごめんなさい。ちょっとぼんやりしてしまって、好きな番組を見ていいよ」
「いや」
そういうと、抱きしめてきて顔を近づけてきた。
どうしよう・・
きもちわるい・・・
唇が触れる寸前に手で賢也の身体をおさえ「私、コーヒーを飲むけど何か飲む?」と、とっさにすり抜けてキッチンに向かった。
賢也はしばらく固まっていた。
衝動的にはねのけてしまった、変に思ったかも知れないが賢也が近づいて来たとき、胸のあたりがムカムカとして気持ち悪くなった。
「ごめんね、やっぱりちょっと気持ち悪いから先に寝るね」
コーヒーを淹れるためにキッチンに向かったが、早く横になりたかった。
「大丈夫?なにかして欲しいことある?」
「平気、ただ横になりたい」
そう言ってベッドに入ると、賢也もベッドルームに入ってきた。
「本当に大丈夫?」そういって、髪を撫でてくれたが、吐き気がしてきて辛かった。
賢也はちゃんと私を心配してくれている・・・