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ナオミのマンションに辿り着き、鍵を開ける。
玄関に一歩足を踏み入れた瞬間、穂乃果はふっと眉を寄せた。
(香水。あと、ヘアスプレー……それと、部屋の熱)
閉め切った空気の中に、甘い香水と整髪料の匂いがまだ薄く残っている。出かける直前にまとめて身支度をしたときの、あの独特の混ざり方だ。その奥に、急いでいた人間の気配みたいなものまで澱んでいて、穂乃果は靴を脱ぎながら、なんとなく部屋の奥を見た。
いつも完璧に「ナオミ」を作り上げている彼は、こういう不意打ちみたいな生活の跡が妙に人間くさい。リビングに入ると、案の定、ソファの背には高価そうなストッキングが半分裏返ったまま引っかかっていた。ローテーブルの上には、開けっぱなしのメイクポーチ。ファンデーションの蓋はずれ、リップは転がり、ヘアピンが二本、炭酸水のペットボトルの横に散っている。
きっちり作られた虚構の中に、ぽろっと落ちたみたいな慌ただしさ。
ダイニングチェアには脱ぎっぱなしの部屋着、足元には片方だけのルームシューズ。鏡の前には開いたままのアクセサリーケースがあって、片耳分だけが取り残されている。
「……ナオミさんってば、どんだけバタバタで出て行ったんだろう」
呆れたみたいに零したのに、声は少しだけやわらかい。
BLACK CATでは誰より綺麗で、隙ひとつ見せないくせに。この部屋に残っているのは、支度の途中で飛び出した気配と、取り繕いきれなかった生活の体温だ。
そんなものを見せられると、ずるいと思う。
完璧なナオミと、この部屋でひとり必死にそれを仕上げて、時間に追われながら出て行った彼が、急にひとつに重なる。その距離の近さに、穂乃果はつまみ上げたストッキングを洗濯籠に放り込みながら、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
少しだけのつもりだった。足を引っかけそうなものをどけて、倒れそうなものを端へ寄せる。それだけで終わるはずだったのに、気づけばテーブルの上を整え、動線を塞いでいた箱を壁際に寄せ、換気のために開けた窓の幅まで調整している。
「本当に……どうしたら毎日こんなに散らかせるんだろ」
今日だけじゃない。ここで暮らし始めて二週間、何度も見た光景だ。
それなのに、片付けるのは不思議と嫌ではなかった。直樹といた頃だって、同じことをずっとやってきた。脱ぎっぱなしの服を拾って洗濯機に入れて、出しっぱなしの物をしまう。それはもう、看護師としての習い性に近い、ほとんど無意識の反射だった。
けれど、同じように手を動かしているはずなのに、今は胸の奥の重さがまるで違う。
直樹は、それを当然だと思っていた。穂乃果の献身を、最初から自分のために用意されているものみたいな顔で受け取っていた。
でも、ナオミは違う。
文句は言うし、偉そうだし、たぶん「ありがとう」だって素直には言わない。けれど少なくとも、穂乃果が手を動かすことを当然の権利みたいには見ていない。誰かに義務として差し出させられるのと、自分で勝手に手を伸ばしてしまうのとでは、息のしやすさが全然違う。
少しやりすぎたかな。
そう思って顔を上げたところで、ふと視界の端に時計が入った。もう、日付が変わりかけている。
一体どれだけの時間、掃除していたんだろう。自分も日勤が終わって疲れているはずなのに、夕食も食べず、一心不乱に片づけをしてしまった。夢中になって掃除をしている間は、直樹や里奈のことを思い出さずに済むから、自分としてもありがたい。けれど、さすがにこれ以上ナオミの私物を触るわけにはいかないだろう。
ナオミは、まだ戻らない。
当たり前だ。仕事に出たのだから、帰りは遅い。
けれど、あの顔で、あの声で、今も誰かの前に立っているのだと思うと、少しだけ妙な気分になった。一歩外に出るとあんなに隙がないのに、部屋に残されていたのは、こんなにも不器用な慌ただしさばかりだったから。
それから少しだけ迷って、キッチンへ向かう。冷蔵庫を開けるのに、もう遠慮はいらない。同居を始めてから、買い足すのはだいたい穂乃果の役目になっていた。
扉を開けて、穂乃果は小さく眉を寄せる。
「……やっぱり、偏ってるなぁ」
昨日自分で買ってきた葉物野菜や豆腐、作り置きの副菜はそのままだ。その横に当然みたいな顔で並んでいるのは、炭酸水とチーズ、それから見た目だけ妙に洒落たジャム。ちゃんと食べる気があるのかないのか、いまひとつ分からない。
穂乃果は小さく息を吐き、中から野菜を取り出した。
鍋に水を張って、コンソメを溶かす。ほんの少し野菜を切って放り込むだけの、簡単なスープだ。
夕食がまだだったことを思い出して、さすがにお腹が空いたな、と穂乃果は思う。どうせ自分も何か食べるつもりだったし、スープくらいならすぐできる。
野菜は少し多めに入れる。豆腐でもあればよかったのに、と思いながら、穂乃果は鍋をそっと混ぜた。
別に、ナオミのために作るわけじゃない。頼まれたわけでもないし、自分が食べたいから作るだけだ。ひとり分でもふたり分でも、たいして手間は変わらない。
「お肉……は、さすがにまずいかな」
チルド室に豚肉を見つけて、穂乃果の手が止まる。少し入れた方が味は出るし、その方がちゃんと食べた気にもなる。けれど、この時間に肉はさすがに重いだろうか。
ナオミも、こういうのは少し気にしそうだ。いや、でも生姜があるなら、少しくらいなら大丈夫だろうか。生姜焼きくらいなら食べられそうな気もする。
そこまで考えて、穂乃果はひとりで小さく息を吐いた。
……まあ、結局は自分が食べたいだけなのだ。
それでいい。そういうことにして、穂乃果は静かに火を点けた。
かんな
あかね ♛❤️♛