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#ご本人様とは一切関係ありません
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あんにんどう腐(ゆ腐)
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#ご本人様とは一切関係ありません
さくら(皇千ト君最推し)
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夜のスタジオは、昼とはまるで別の場所みたいに静かだった。
イベント終わりのざわつきも、スタッフの慌ただしい声も、もうほとんど残っていない。
床に落ちる照明はやわらかく、鏡の中には広い空間だけが薄く映っている。
遠くで機材の電源が落ちる音がして、そのあとには、音のない空気だけが残った。
タイキは壁際に置かれた長椅子に座っていた。
少し前屈みで、肘を膝に置くような格好。
耳にはヘッドホン。
目は伏せられていて、でも完全に閉じているわけじゃない。
夜の静けさの中で、一人だけ別の場所にいるみたいに見えた。
ルイはスタジオの入口で、その姿に気づいて足を止める。
一瞬、胸の奥が静かに鳴った。
今日の写真公開イベントが終わって、いったん人ははけた。
ゴイチもカノンも先に帰って、アダムもスタッフと少し話したあとに外へ出た。
雛子は最後の確認で別フロアへ行っている。
広いスタジオに、今はほとんど二人だけだった。
ルイは少しだけ眉を寄せて、タイキの方へ歩く。
まだ病み上がりだ。
イベントを一日こなして、熱はもう下がっているけど、無理をしていないとは言い切れない。
ルイはタイキの少し前で止まった。
「お前、体調もう大丈夫なの」
ヘッドホン越しでも届く距離だった。
タイキがゆっくり顔を上げる。
一拍遅れて、片耳だけヘッドホンを外した。
「……ん?」
「だから、体調」
ルイは少しだけ視線を細める。
「今日動きすぎてねぇかって聞いてんの」
タイキはそれを聞いて、ほんの少しだけ口元を動かした。
「大丈夫」
「もう熱ないし」
「ないのは知ってる」
「じゃあいいだろ」
「よくねぇよ」
短いやり取り。
でも、そのやり取りがもうずいぶん自然になっている。
タイキはヘッドホンを首にずらしながら、少しだけ肩をすくめた。
「休んでた」
「どこで」
「ここで」
ルイはそこでようやく、タイキの手元を見る。
スマホ。
再生中の画面。
イヤホンじゃなく、ちゃんとしたヘッドホンで聞いているあたり、ただのBGMじゃない。
「……何聴いてんの」
ルイが低く聞く。
タイキは一瞬だけ視線を逸らした。
その反応だけで、少しだけ胸がざわつく。
何だその間、と思う。
「別に」
「別に、じゃわかんねぇだろ」
「わかんなくていいやつ」
「なおさら気になる」
タイキはそこで、ほんの少しだけ困ったみたいに息を吐く。
それから、スマホの画面をルイの方へ向けた。
曲名を見た瞬間、ルイの動きが止まる。
“Love Me Like You Do”
「……は」
本当に、小さくそんな声が出た。
タイキはそれを見て、少しだけ目を細める。
「何」
「いや……」
ルイは一度言葉を失ってから、もう一度画面を見る。
自分が選んだ曲だった。
レコード店で。
タイキに渡した、お前に向けた曲。
「お前、これ聴いてんの」
「聴くけど」
「……今?」
「別に…いつ聞いたっていいだろ」
あまりにもそのまま返されて、ルイは少しだけ喉を鳴らした。
夜のスタジオ。
イベント終わり。
一人で。
自分が選んだ曲を聴いていた。
その事実が、思っていた以上に深く胸へ入ってくる。
タイキは少しだけ視線を落としたまま言う。
「今日の写真、見たあと」
「何となく」
何となく、なわけないだろ、とルイは思う。
でも口には出さない。
その代わりに、少しだけ低い声で言った。
「……貸せよ」
タイキが顔を上げる。
「何を」
「ヘッドホン」
一瞬だけ、間。
タイキの喉が小さく動く。
でも、拒まない。
「片方しかないけど」
「知ってる」
そう言うルイの声が、少しだけ掠れていた。
タイキはヘッドホンを持ち上げる。
ルイが隣に座る。
長椅子のクッションが、二人分だけ静かに沈む。
距離は近い。
でもまだ、肩は触れていない。
タイキが片方を自分の耳に戻して、もう片方をルイへ渡す。
ルイはそれを受け取って、耳に当てた。
再生ボタンが押される。
音が流れ始める。
⸻
最初の音が、静かなスタジオにゆっくり広がっていく。
直接スピーカーから流れているわけじゃないのに、二人の間の空気ごとこの曲の色に染まっていく感じがした。
タイキは前を見る。
ルイも前を見ている。
共有するヘッドホンはイヤホンの時よりずっと距離が近い。
でも何も言わない。
でも、無言のままでも、今お互いが同じものを聞いているという事実だけが、やけに濃い。
ルイは少しだけ息を整える。
この曲を選んだ夜のことを思い出す。
触れたいのに止まること。
怖いのに欲しいこと。
救いでも痛みでもある相手のこと。
その全部を歌に預けた。
それを今、タイキが一人で聞いていて。
しかもこうして、自分の隣でまた一緒に聞いている。
頭が少しだけくらくらする。
タイキの方も、全然落ち着いていなかった。
この曲を一人で聞いていた時でさえ、充分やばかった。
ルイが何を思ってこれを選んだのか、全部じゃなくてもかなり伝わるからだ。
それを今、本人と一緒に聞く。
しかも距離は近い。
同じヘッドホン。
同じタイミングで流れる声。
同じフレーズに、同じように息を止める相手。
心臓が、ずっと少し速い。
ルイが横にいる。
香水というほどじゃない、服に残る清潔な匂い。
少しだけ低い呼吸。
イベント終わりの疲れがわずかに混じった空気。
その全部が近い。
曲はサビへ入る。
二人とも、まだ前を向いたまま。
でも、もう音楽だけを聞いているわけじゃなかった。
その途中で、タイキがゆっくり横目に視線をずらした。
ルイを見る。
ルイは気づいて、ほんの少し遅れて視線を向ける。
目が合う。
それだけで、曲の音が少し遠くなる。
まだ耳にはちゃんと入っている。
でも、意識の中心はもうそこじゃない。
ルイの瞳が揺れる。
タイキの喉が小さく動く。
視線は逸らさない。
ずっと前なら無理だった。
こんなふうに、何も言わずに見つめ合って、しかもどちらも逃げないなんて。
でも今は違う。
夜のスタジオ。
静かな空間。
二人だけ。
曲の終盤。
音がだんだん薄くなっていく。
でも、二人の間の空気だけは逆に濃くなっていく。
ルイはそこで、小さく息を吸った。
タイキも、ほんの少しだけ唇を開く。
何か言うべきか。
言わないままでいいのか。
そんなことを考えるより先に、もう身体の方が相手を意識していた。
最後のフレーズが流れる。
ルイはヘッドフォンを持つ手を緩めた。
こんなに近いものだから、その緩みだけでタイキは喉を鳴らす。
静かなスタジオ。
遠くで機材がきしむ小さな音。
でも、それすら二人には遠かった。
ルイの視線が、ほんの少しだけタイキの唇へ落ちる。
タイキもたぶん、同じだった。
ヘッドフォンが椅子にゆっくり落ちる。
その瞬間、二人とも同時に少しだけ顔を寄せる。
どちらが先でもない。
本当に、同時だった。
⸻
あと少し。
それがわかる距離まで、自然に近づいていた。
止まる時間があった。
ちゃんと。
前みたいに、一方的じゃない。
流れで押し切るんじゃない。
どちらも、自分の意思でここまで来ている。
ルイは最後の一瞬で、タイキの目を見た。
怖くないか。
嫌じゃないか。
逃げないか。
その全部を確認するみたいに。
タイキは、目を逸らさなかった。
少しだけ呼吸が浅い。
真っ直ぐにただ瞳を見てくるその目に
ルイの中の最後の迷いが静かにほどける。
タイキもまた、ルイの目の中にそれを見た。
欲しいからじゃない。
大事にしたいからこそ、ずっと止まっていた人間が、今だけはちゃんとここへ来ている。
その意味がわかったから、タイキももう逃げなかった。
唇が、触れる。
最初は本当に、かすめるみたいに軽く。
触れてるのかってくらい控えめに。
あまりにも静かな最初のキスだった。
押しつけるでもなく。
奪うでもなく。
確かめるみたいに、そっと。
でも触れた瞬間、二人とも同時に息を止めた。
温度がある。
やわらかい。
生きている相手の、ちゃんと選ばれた接触だった。
ルイの指先が、長椅子の縁をわずかに掴む。
タイキの肩がほんの少しだけ揺れる。
それでも、どちらも離れない。
ほんの一瞬だけ触れて、すぐ離れることもできた。
でも、二人ともそれをしなかった。
次の瞬間には、少しだけ深く重なる。
ルイはもう押していない。
でも引いてもいない。
タイキも受けるだけじゃなく、ほんの少しだけ自分から近づいていた。
その事実が、ルイの胸の奥を強く打つ。
これが、最初なんだと思う。
昔の一方的なものでもない。
熱に浮かされた事故でもない。
弱っている時の曖昧な触れ方でもない。
今の二人が、ちゃんと起きたまま、ちゃんと選んでした最初のキス。
曲はもう終わっていた。
椅子に置かれたヘッドホンは違う曲が微かに流れる音がした。
なのに、耳の奥ではまだ違う何かが鳴っている気がした。
唇が離れる。
ほんの少し。
でも、完全には離れない距離。
呼吸だけが、近くで重なる。
タイキは目を開ける。
ルイも、少し遅れて目を開ける。
視線が合う。
どちらも、すぐには何も言えなかった。
タイキの頬は少しだけ赤い。
ルイの耳も、たぶん赤い。
でも、それを確かめる余裕なんてない。
ルイが先に、小さく息を吐いた。
「……大丈夫か」
その第一声がそれなのが、あまりにもルイで、タイキは思わず少しだけ笑いそうになる。
「今、聞く?」
掠れた声で返す。
ルイの目が、ほんの少しだけやわらぐ。
「聞くだろ」
「……大丈夫」
タイキはそう言ってから、少しだけ目を伏せた。
それから、小さく付け足す。
「たぶん」
「めちゃくちゃやばいけど」
その言い方に、ルイの喉が小さく鳴る。
笑いたいのに笑えない。
嬉しいのに苦しい。
そんな顔をしていた。
「……俺も」
ぽつりと落ちる。
タイキが顔を上げる。
ルイは視線を逸らさずに言った。
「やばい」
短く。
でも、それだけで十分だった。
静かなスタジオ。
夜の灯り。
肩が少しだけ触れそうな距離。
ふたりのはじまりのキスは、派手でもなく、劇的に見せつけるものでもなかった。
でも、その静けさごと、今までの全部をひっくり返すくらいには、深かった。
タイキはまだ少しだけ息の乱れたまま、ルイを見る。
「……これ」
小さく言う。
「最初、でいいんだよな」
ルイの目が、ほんの少しだけ揺れる。
意味はすぐにわかった。
昔のは数えない。
一方的だった夜も。
曖昧な接触も。
全部じゃなくて。
今のこれが、最初でいいのか。
ルイは数秒だけ黙った。
それから、ゆっくり頷く。
「あぁ」
低い声。
でも、ひどくやわらかい。
「今のが最初」
タイキの胸の奥が、その一言でまた強く鳴る。
ルイはそこで、長椅子の上に置いていた自分の手を少しだけ開いた。
触れるかどうか迷うみたいに。
でも、勝手には行かないように。
タイキはその手を見て、一瞬だけ目を伏せたあと、自分からそっと重ねた。
指先だけ。
でも、ちゃんと。
ルイの呼吸が、また少しだけ乱れる。
それを見て、タイキは小さく笑った。
「……何その顔」
「うるせぇ」
「全然余裕ないじゃん」
「お前もだろ」
「まあ、そうだけど」
そう言いながらも、タイキの声はどこかやわらかかった。
指先は重なったまま。
ヘッドホンは微かに音を鳴らしたまま。
二人の呼吸だけが静かなスタジオに残っていた。
唇が離れたのは、ほんの少しだけだった。
呼吸が混ざる距離。
目を開けば相手の睫毛の揺れまで見える近さ。
タイキの胸が静かに上下している。
ルイも、思ったよりずっと呼吸が乱れていた。
それなのに、どちらも離れない。
一回で止まるはずがなかった。
止まるためにここまで来たんじゃない。
ずっと止め続けてきたものが、ようやく同じ方向を向いたばかりだった。
ルイは目を伏せたまま、小さく息を吸う。
頭の中ではまだ理性が何か言っている。
ここはスタジオだ。
夜だ。
誰もいないとは限らない。
これ以上は危ない。
でも、その全部を押し返すくらい、今はタイキの唇の感触が残りすぎていた。
タイキも同じだった。
あんなふうに静かに始まったのに、一度触れてしまったらもう足りない。
もっとほしいとか、そういう乱暴な言葉じゃない。
でも、もう一度確かめたくなる。
これが本当に今のふたりのキスなのか。
選び合ったうえで、ちゃんと重なったものなのか。
ルイがほんの少しだけ顔を寄せる。
タイキも、ほとんど同時にまた近づく。
二度目のキスは、一度目より迷いがなかった。
最初からちゃんと重なる。
さっきよりも、もう少し長く。
もう少し深く。
ルイの呼吸が、キスの途中で小さく震える。
タイキの指先が、ヘッドホンのコードに少しだけ触れて、それを握るでもなく離すでもなく止まる。
どちらも、夢中になりきれない。
でも、だからこそ今ここで何をしているのかを全部わかったまま、離れられない。
ルイの中にある感情は、ほとんど痛みに近かった。
好きだと気づいてから。
触れたいと思うほど、簡単には触れられなくなった。
頭を撫でるだけでも、怖いと思った。
同じベッドに横になるだけで、帰らないと危ないと思った。
そんな相手に、今、自分から唇を重ねている。
その現実が、嬉しいのに苦しい。
タイキの方もまた、頭の奥が熱かった。
あれだけ傷ついた時間があった。
あれだけ嫌だった距離があった。
それでも今、このキスを嫌だと思う隙がどこにもない。
むしろ、ようやくここまで来た、という感覚の方が強かった。
だから、離れたくない。
そう思った瞬間、自分でも少し驚く。
でも、嘘じゃなかった。
二度目のキスは、一度目より少し長く続いて。
それでも、まだ終わりにはならなかった。
⸻
名残惜しそうに、先にルイの唇が少し離れていく。
本当に少しずつ。
触れていた温度を惜しむみたいに。
タイキもその様子をちゃんと確認して、追いかけるでもなく、でもすぐには離れず、ゆっくりと唇を離した。
近すぎるまま。
視線を上げる余裕もなくて。
ルイはそのまま、タイキの額へ自分の額をそっと重ねた。
「……っ」
小さく息を呑む音。
ルイは目を閉じる。
呼吸を整えようとしているのがわかる。
でも全然整っていない。
タイキは瞼を伏せて、空いた方の手の甲で口元を隠した。
呼吸が整わなくて、肩が小さく揺れる。
唇の熱がまだ残っている。
息が近い。
額同士の温度がじかに伝わる。
ルイは目を閉じたまま、片手を上げて優しくタイキの髪を撫でた。
その触れ方が、さっきまでのキスの熱を少しだけやわらげる。
でも、完全には落ち着かせてくれない。
むしろ余計に沁みる。
「今のキスは、やばい……」
ルイがぽつりと溢す。
本気でそう思っている声だった。
タイキはすぐに返す。
「……言うな」
掠れている。
でも、その掠れ方が余計に色っぽくて、ルイの呼吸がまた少し乱れる。
ルイは目を閉じたまま、少しずつ息を整えようとする。
「もう少しだけ……」
小さくこぼれる。
「このままで」
その一言に、タイキの胸の奥がまた強く鳴る。
ふたりは額を合わせたまま、少しずつ呼吸を合わせていく。
吸う。
吐く。
乱れていた息が、少しずつ同じリズムになっていく。
それでも、完全には落ち着かない。
ルイが眉に皺を寄せたまま、小さく言う。
「これ以上は…」
ルイが続けようとして、タイキが小さく額を押すものだからルイは呼吸を止めた。
タイキの口元から、余裕のない笑いが息と一緒に落ちる。
「……いまさらかよ……」
その声も、ちゃんと揺れていた。
本当にいまさらだ。
ここまで来て。
あんなキスをして。
その上で“止められなくなる”なんて言われたら、余計に先を想像してしまう。
でもルイの言うことも、わかる。
今のふたりは、まだぎりぎりのところで理性を残している。
残しているからこそ、ここまで静かにきれいに重なれた。
ルイはそこで、ゆっくりと両手を上げた。
す
タイキの顔を、耳まで包む。
そっと。
本当にやわらかく。
右、左と手のひらで包んで、中指を少しだけ曲げて、髪を耳にかける。
ただそれだけの動きなのに、タイキの呼吸はまた浅くなる。
顔を包まれる。
逃げ道を塞ぐためじゃない。
大事なものに触れるみたいに。
それがわかるから余計に、胸の奥が持たない。
ルイはタイキの瞳を見ていた。
怖くないか。
嫌じゃないか。
それでも、もう一度欲しいと思っていいのか。
その全部を、顔を包んだまま確認するみたいに。
「もう一回……したい……」
ルイの言葉が、静かに落ちる。
タイキは瞼を薄く伏せたまま喉を鳴らす。
一拍して、その瞼を持ち上げてルイを見た。
答えを言葉で返す前に、もう気持ちは顔に出ていた。
頬の熱。
浅い呼吸。
目を逸らさないこと。
それで、十分だった。
今度はルイから、ゆっくりと唇が重なる。
静かだった。
急がない。
奪わない。
でも、確かに欲しいと思った人のキスだった。
無機質に置かれたヘッドホンが、ふたりの間に少し傾いたまま挟まっている。
音はもう流れていない。
でも、夜のスタジオは静かにふたりを包んでいた。
ルイの手の中に、タイキの顔がある。
タイキはその熱を受け止めたまま、ほんの少しだけ自分からも唇を寄せる。
それだけで、ルイの胸の奥がまた強く打たれる。
今、ちゃんと選ばれている。
その事実が、どうしようもなく嬉しかった。
キスは長くは続かなかった。
でも短くもなかった。
ふたりが今夜持てる精一杯の熱と、理性と、やさしさの全部がそこにあった。
離れたあとも、すぐには何も言えない。
呼吸だけが近い。
視線だけが絡んだまま。
ルイの手はまだタイキの顔を包んでいる。
タイキの指先は、長椅子の縁を静かに掴んでいる。
夜のスタジオ。
止まった音楽。
無機質な空間。
その中で、ふたりだけの熱がやけに生々しく残っていた。
そしてその熱は、たぶん今夜だけでは終わらない。
ふたりとも、それをもう知っていた。
タイキside
唇が離れたあとも、しばらくまともに息ができなかった。
近い。
額が触れてる。
呼吸が混ざる。
ルイの手が、自分の顔をまだ包んでいる。
やばい、と思う。
本当に。
頭が真っ白になるとか、そういうのじゃない。
むしろ逆で、変に冴えてる。
今、何が起きたか。
誰とキスしたか。
それがどういう意味を持つか。
全部、わかったまま心臓だけがどうにもならない。
どくん。
どくん。
どくん。
うるさい。
たぶんルイにも聞こえてるんじゃないかって思うくらい、胸の奥が鳴っている。
ルイと、キスした。
しかも、今のは事故じゃない。
流れでもない。しかも何度も。
昔みたいな一方的なやつでもない。
自分で近づいた。
ルイも近づいた。
お互い、見た。
止まる時間もあった。
そのうえで、した。
それがたまらなくて。
苦しいくらい嬉しい。
昔のことを思い出す。
ルイに呼ばれて。
振り回されて。
好き勝手されて。
嫌だった。
苦しかった。
ちゃんと、あれは傷だった。
なのに今、同じ相手とのキスで、こんなに胸が熱くなる。
おかしいだろ、って思う。
でも、おかしくないのかもしれないとも思う。
前と今は、全然違う。
今のルイは、ちゃんと止まる。
ちゃんと見る。
触れる前に、こっちの顔を確認する。
唇が重なる直前でさえ、怖くないかって目をする。
その違いが、たぶん全部だった。
あぁ、俺。
ちゃんと、これが欲しかったんだ。
“ルイに触れられること”じゃない。
“ルイと、選び合って触れ合うこと”が欲しかったんだって、今さらわかる。
それがわかった瞬間、少しだけ泣きそうになる。
馬鹿みたいだ。
こんなこと、もっと前に気づけてたらよかったのに。
でも、今じゃなきゃ無理だったんだろうなとも思う。
今のルイじゃなきゃ。
今の自分じゃなきゃ。
“今のが最初”
ってルイが言った時、ほんとは胸の奥が痛いくらいだった。
嬉しかった。
救われた。
同時に、あの頃の自分も少しだけ報われた気がした。
あれまでをなかったことにするんじゃなくて。
でも、今のこれをちゃんと最初にしてくれた。
その言い方が、ルイらしくて。
優しくて。
ずるかった。
しかも、そのあとに
「もう一回、したい」
なんて言う。
反則だろ、そんなの。
あんな顔で。
あんな声で。
断れるわけがない。
いや、断りたいとかじゃなくて。
あの瞬間の自分は、たぶんルイがもう一回近づいてくるのを、心のどこかで待ってた。
待ってたって認めるの、少し悔しい。
でも嘘じゃない。
ルイのキスは、やさしい。
昔みたいに強引じゃない。
欲しいように奪うキスじゃない。
なのに、今の方がずっと深い。
たぶん、欲が消えたわけじゃないからだ。
欲があるのに、それを押しつけないで触れてくるから。
こっちを見たまま、確かめるように近づいてくるから。
そういうの、ほんとにずるい。
今、たぶん俺の中で何かが決定的に変わった。
好きだ、と思う。
前からわかってた。
認めてもいた。
でも今のは、もっとはっきりしたやつだ。
“ルイが好き”だけじゃない。
“ルイとこうやって始めたい”って思った。
昔を引きずったままじゃなくて。
今のふたりで。
ちゃんと選んで。
ちゃんと近づいて。
そういうふうに、したい。
それが、あのキスのあとに一番強く残ってる。
額がまだ近い。
呼吸も近い。
ルイの指先も熱い。
全部、まだそこにある。
だから余計に、思う。
もう無理だ。
前みたいに、何でもない顔には戻れない。
あんなキスをして。
しかも、“最初”にされて。
そのあとに“もう一回したい”まで言われて。
これで平然としてる方が嘘だ。
たぶんこの先も、ルイに触れられるたび思い出す。
今夜のこと。
静かなスタジオ。
止まった音楽。
ヘッドホンの間に挟まった無機質な空気。
その中で、自分たちだけがやけに生々しかったこと。
全部。
「……ほんと、やばい」
心の中でそう呟く。
でも、その“やばい”の中には、もう怖さだけじゃない。
嬉しい。
苦しい。
欲しい。
離れたくない。
そういうのが全部混ざってる。
恋って、たぶんこういうのなんだろう。
綺麗に整理できなくて。
でも、相手に触れた温度だけはちゃんと残る。
そして今、その相手はルイだ。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
ルイside
終わった、と思った。
いや、落ち着け。
正確には違う。
“始まった”、だ。
唇が重なった瞬間。
タイキが逃げなかった瞬間。
しかも、自分だけじゃなく、あいつもちゃんと近づいてきた瞬間。
あぁ、これが最初なんだって、本気で思った。
昔のは違う。
あれはキスの形をした、ただの一方通行だった。
自分が欲しいから触れて。
相手の気持ちも、怖さも、曖昧にしたまま押し進めていた。
だから今夜のこれは違う。
止まる時間があった。
見る時間があった。
確認する時間があった。
その上で、タイキがそこにいた。
目を逸らさずに。
怖がった顔じゃなく。
同じように息を止めながら。
それだけで、胸の奥がめちゃくちゃになる。
嬉しい。
本当に。
でも、それだけじゃない。
怖い。
今もやっぱり怖い。
好きになってから、タイキに触れるのが怖くなった。
触れたいと思うほど、勝手に触れたくなくなった。
欲しいと思うほど、その欲しいを押しつけたくなくなった。
また傷付けるんじゃないか。
何かの拍子に突き放されるんじゃないか。
だからずっと止まってきた。
頭を撫でるだけでも様子を見た。
隣に寝る時も距離を空けた。
一緒にいる夜でも、帰るって決めた。
それくらいしないと、自分が前に戻りそうだったから。
でも今夜、タイキは逃げなかった。
それどころか、ちゃんと受け取った。
いや、受け取るだけじゃない。
あいつも選んだ。
そこまで来たら、もう止める方が無理だった。
最初に触れた時、やわらかいと思った。
それと同時に、たぶん少しだけ震えた。
自分がだ。
タイキじゃなくて、自分の方が。
好きな相手に、今の自分として初めて触れる。
それがこんなに静かで、こんなに深いなんて思わなかった。
しかもタイキは ちゃんと応えた。
一回目のキスのあと、離れた距離で見た顔。
頬が少し赤くて。
呼吸が乱れていて。
でも目は逸らしてなくて。
あの顔を見た瞬間、理性がだいぶ危なかった。
たぶんあれで「やめる?」とか聞いてたら、ほんとに馬鹿だったと思う。
聞く必要なんかなかった。
だって、タイキも同じ顔してたから。
“今のキス、やばい”って口にしたのは、本気だ。
本当にやばかった。
今までの全部が、あの一回でひっくり返るくらいに。
キスって、こんなに苦しくなるものだったか。
いや、苦しいだけじゃない。
救われる。
満たされる。
でも、同時にもっと欲しくなる。
そういう全部が一気に来る。
だから“言うな”って返された時、少しだけ笑いそうになった。
あいつも同じなんだなってわかったから。
しかも、そのあと。
額を合わせたまま、呼吸が少しずつ揃っていくあの時間。
あれもたぶん、一生忘れない。
キスそのものももちろんだけど、
その後の余韻だってそうだ。
呼吸器を整える時間ですら。
急がない。
でも、止まりもしない。
その中途半端じゃなくて、ちゃんと大事にしてる感じが、どうしようもなく愛しかった。
タイキはやっぱりずるい。
“最初でいいんだよな”って聞いた時だってそうだ。
そんなの、こっちがずっと思ってたことを先に言うか普通。
今のが最初。
そう言わせる。
しかも、こっちがそれをどれだけ大事にしてるか、たぶんわかった上で聞いてる。
ずるい。
でも、嬉しい。
“今のが最初”って言えたこと。
それをタイキがちゃんと受け取ったこと。
そこまで含めて、今夜のキスはほんとに始まりになった。
それで、結局一回で止まれなかった。
あれももう、当然だったと思う。
止まれるなら、あんなふうに顔を包んだりしない。
“もう一回したい”なんて言わない。
言った瞬間、自分でも少し驚いた。
でも、嘘じゃなかった。
したかった。
本当に。
もっと乱暴な欲じゃない。
でも、あの最初のキスだけで終わらせたくなかった。
今夜のこれを、一回の奇跡みたいにしたくなかった。
もう一回、ちゃんと。
同じ気持ちで。
同じ熱で。
確かめたかった。
だから、した。
唇が重なった瞬間、あぁ駄目だと思った。
これはたぶん、この先ずっと忘れられないやつだって。
タイキの唇は、思ってたよりずっとやわらかかった。
少しだけ熱を残していて。
でももう苦しそうな熱じゃなくて、こっちまで熱くなるようなやつだった。
それに、ちゃんと返してきた。
あいつ、自分から少しだけ近づいてきた。
その事実が、何より効いた。
いまだに信じられないくらいだ。
昔なら、こっちが近づいて、あいつは受けるか拒むかしかできなかった。
でも今夜は違う。
自分から来た。
ほんの少しでも。
確かに。
それだけで、もう充分だった。
いや、充分どころか、充分すぎた。
たぶん今の自分は、かなり危ない。
理性で止まってるつもりだけど、実際にはぎりぎりだ。
“これ以上は本当に止められなくなる”って言ったのも、本気だ。
あれは脅しでも何でもない。
事実だった。
だって、もう今の時点でかなり止めるのがしんどい。
タイキの顔を両手で触れてる今ですらほとんど崩壊寸前だ。
ただ髪を耳にかけただけなのに、あいつの呼吸が浅くなって。
目も逸らさなくて。
それを見たら、もう駄目だろ。
我慢とか、理性とか、そういうの全部吹き飛びそうになる。
それでも、今夜はここで止めるしかないことも、ちゃんとわかってる。
始まったばかりだ。
やっと、“最初”まで来た。
ここで何もかも一気に持っていったら、また昔みたいに自分の欲だけが先に立つ。
それだけは、絶対に嫌だ。
だから苦しい。
欲しいのに、欲しいままにはしない。
触れたいのに、触れたいだけでは触れない。
でも、それを苦しいと思いながらできる今の自分は、たぶん少し前よりまともなんだろう。
タイキが隣にいる。
唇の熱も、息も、まだ近い。
その状態で、ちゃんと止まろうとしてる。
そんな夜が来るなんて、昔の自分は想像もしてなかった。
(……ほんと、やばい)
心の中でそう思う。
でも、その“やばい”の中にはもう後悔はない。
嬉しい。
苦しい。
もっとしたい。
でも、大事にしたい。
その全部が、今夜の自分だった。
そしてたぶん、タイキも同じところまで来てくれていると、信じたかった。
夜のスタジオは、まだ静かだった。
止まった音楽。
長椅子の間に無機質に置かれたヘッドホン。
照明の白い光。
その中で、ふたりだけがまだ少し現実から遅れていた。
ルイの両手は、まだタイキの顔を包んでいる。
耳の後ろへかかった髪。
手のひらに伝わる熱。
唇に残る、さっきの感触。
どれも消えない。
タイキも動けなかった。
キスは終わっている。
でも、完全に離れたとは言えない距離のまま。
視線が合えば、またすぐ何かが始まってしまいそうで、どちらも呼吸だけを小さく繰り返していた。
ルイがようやく、小さく息を吐く。
その息が少しだけ震えていて、タイキはまた胸の奥を掴まれる。
ルイはしばらく何も言わなかった。
言葉を選んでいるのか、選ばないと危ないのか、自分でもわかっていない顔だった。
それから、ようやく口を開く。
「……今日は」
小さく、低い声。
タイキが少しだけ目を上げる。
ルイはタイキを見たまま、静かに続けた。
「…ここまで」
言葉は、拒絶じゃない。
終わりでもない。
むしろ逆で。
ちゃんと始まったからこそ、今日をここで止めるための言葉だった。
タイキは数秒、何も返せなかった。
胸の奥では、まだ“もう一回”が残ってる。
唇もまだ熱い。
ルイの手も離れていない。
だから一瞬だけ、止められることを惜しいと思ったのは本当だった。
でも、ルイの顔を見れば、それでよかったとも思う。
今のルイは、欲しいから止めるんじゃない。
大事にしたいから止めてる。
そこがわかるから、タイキも無理にその先を欲しがれなかった。
「……うん」
ようやく小さく返す。
ルイの目が、ほんの少しだけやわらぐ。
それから、顔を包んでいた手がゆっくり離れていく。
でも完全には遠くならない。
片方の手は、タイキの髪を名残みたいに一度だけ撫でてから、長椅子の上に落ちた。
タイキも、身体を起こさない。
起こせない。
ふたりは座ったまま、隣同士で、でも少しだけ寄り添うみたいな距離に戻る。
肩が触れそうで、触れていない。
でも、さっきまでのキスがその距離全部に残っている。
ルイは前を向いたまま、小さく息を整えていた。
タイキも、少し遅れて同じように呼吸を整える。
何か言わなきゃいけない気もする。
でも、今は言葉にしない方がいいものの方が多かった。
だから無言のまま、隣にいる。
それだけで十分な夜だった。
少しして、タイキがぽつりと溢す。
「……ほんとに、ここまで?」
ルイの肩が、わずかに揺れる。
「お前な」
「いや」
タイキは目を伏せたまま、小さく言う。
「確認」
ルイはそこで少しだけ苦く笑った。
「確認すんな」
「揺らぐだろ」
その返しに、タイキの口元がほんの少しだけ動く。
「揺らいでんの、そっちじゃん」
「お前もだろ」
「まあ……」
それは否定できない。
タイキは長椅子の端を指先でなぞる。
さっきまで掴んでいたその場所が、まだ少しだけ熱く感じる。
「ルイ」
「ん」
「……最初でよかった」
ルイが少しだけ目を向ける。
タイキは前を見たまま続けた。
「今のが」
声は小さい。
でもちゃんと届く。
ルイはそこで、しばらく何も言わなかった。
喉が小さく動いて、それから低く返す。
「俺も」
短い一言。
でも、その一言の中に今までの全部が入っている気がした。
ふたりはまた、静かに並ぶ。
長椅子のクッション。
止まった曲。
夜の光。
肩の近さ。
その全部が、今夜だけの余韻だった。
スタジオを出る頃には、外の夜気が少しだけ冷えていた。
照明の明るい室内から廊下へ出た瞬間、さっきまでの熱が急に浮き彫りになる。
キスの余韻はまだ消えていないのに、現実の空気がじわっと身体に触れてくる。
ルイが先に歩き出す。
タイキも自然にその隣へ並ぶ。
ふたりとも、さっきまでと同じ顔ではいられない。
でも、何事もなかった顔もできない。
足音だけがしばらく続いた。
エレベーターの前で止まる。
ボタンを押す。
静かな待ち時間。
鏡みたいに反射する金属の扉に、ふたりの並んだ姿が映っている。
近いようで近くない。
でも、少し前まで唇が重なっていた相手だと思うと、その距離感が妙に落ち着かない。
タイキが先に口を開いた。
「……送らなくていいからな」
ルイがすぐにそちらを見る。
「は?」
「いや、だから」
タイキは視線を逸らして、少しだけ耳を赤くしたまま言う。
「別に、一人で帰れるし」
その言い方が、明らかに強がりで。
でも完全な拒否でもない。
ルイは少しだけ目を細める。
「お前、そういう言い方すると逆に送りたくなるんだけど」
「何だよそれ」
「事実」
エレベーターが来る。
ドアが開く。
ふたりで乗る。
狭い空間に入ると、また少し距離の意味が変わる。
静かだ。
さっきまでの余韻まで一緒に乗ってきたみたいだった。
タイキは前を向いたまま言う。
「送られたら」
少し間。
「なんか……余計にまずい」
ルイが横目で見る。
「何が」
タイキは一瞬だけ言葉に詰まってから、小さく舌打ちしたくなるみたいに息を吐く。
「……今のまま帰るの、ただでさえやばいのに」
「これ以上、近くにいられたら困るってこと」
その正直すぎる答えに、ルイの喉が小さく鳴る。
エレベーターの灯りの下で、タイキの耳はまだ少し赤い。
目元も、どこか落ち着いていない。
ルイはそれを見て、胸の奥がまた少し熱くなるのを感じた。
「……そっちがそうなら」
低く言う。
「俺も同じだけど」
タイキが少しだけ顔を上げる。
ルイは視線を逸らさないまま続けた。
「今、お前送ったら」
「多分、駅までじゃ済まねぇ気がする」
タイキの呼吸が、一瞬だけ止まる。
何だその言い方、と思う。
でも、それがひどくルイらしいとも思う。
真っ直ぐで。
少しだけ不器用で。
でも、ごまかさない。
「……じゃあ」
タイキがようやく言う。
「送るな」
ルイは少しだけ口元を動かした。
「わかった」
その返事が、思っていたよりやわらかい。
エレベーターを降りて、外へ出る。
夜風が少しだけ強い。
駅へ向かう道の途中、自然と歩幅が揃う。
送らないって言ったくせに、結局同じ方向へ歩く数十秒。
それが少しおかしくて、でも嫌じゃない。
タイキがポケットに手を入れたまま、ぽつりと言う。
「……あのさ」
「ん」
「今日のこと」
ルイの目が少しだけ細くなる。
タイキは視線を前に向けたまま、照れたみたいに口元を引き結ぶ。
「スタジオでキスしたこと」
少し間。
「秘密な」
その言い方が、思っていた以上に照れていて。
でも真面目で。
ルイは一瞬だけ本当に言葉を失ったあと、小さく息を吐いた。
「当たり前だろ」
「いや、一応」
「一応も何もねぇよ」
タイキはそこで少しだけ笑う。
「だって」
「何か、お前普通に言いそうじゃん」
「誰にだよ」
「メンバーとか」
「なおさら言わねぇ」
ルイはそこで少しだけ目を細めた。
「つーか、お前の中の俺、何なんだよ」
タイキが肩をすくめる。
「たまに正直すぎるやつ」
それは否定しきれなくて、ルイは小さく舌打ちするみたいに息を吐いた。
でもその顔は、少しだけ笑っていた。
「……誰にも言わねぇよ」
低く、ちゃんと返す。
「これは」
少し間。
「俺らのだから」
その言葉に、タイキの胸がじわっと熱くなる。
“秘密”って言ったのは、隠したいからだけじゃない。
まだちゃんと自分の中で抱えていたいからだ。
軽く誰かに見せたくない。
雑に扱いたくない。
それを、ルイも同じ温度で返してくる。
だから余計に、今日のキスがちゃんと始まりになったんだと思う。
道が分かれる手前で、ふたりは足を止める。
さっきスタジオでは、あんなに近かった。
なのに今は、ちゃんと立ち止まるだけで精一杯みたいな距離感に戻っている。
でも、もう前とは違う。
タイキは少しだけ目を伏せてから、ルイを見る。
「……じゃあ、ここで」
ルイが頷く。
「うん」
少し間。
別れるだけなのに、また空気が濃くなる。
タイキはそれを振り払うみたいに、小さく言う。
「もう、今日は増やすなよ」
ルイの眉がわずかに上がる。
「何を」
「キスとか」
ルイはそこで、ほんの少しだけ目を細めて、息で笑った。
「言うな」
「したくなるだろ」
その返しがひどく自然で、タイキは思わず少しだけ顔を背けた。
「……だから送らなくていいって言ったんだよ」
「今、めちゃくちゃ納得した」
短い沈黙のあと、ふたりとも少しだけ笑う。
その笑い方が似ていて、また少し胸が鳴る。
ルイは最後に一歩だけ近づいて、でも触れないまま言った。
「帰ったら連絡しろ」
タイキは少しだけ目を上げる。
「送らないくせに」
「送らないからだろ」
「無事に帰ったか知りたい」
その言い方に、タイキの胸の奥がまた静かに熱くなる。
「……わかった」
小さく返す。
ルイはそこでようやく、少しだけ口元をやわらげた。
「じゃあな」
「……うん」
タイキは背を向ける。
数歩歩いてから、なんとなく振り返る。
ルイはまだそこにいた。
前みたいに呼び止めたりしない。
でも、ちゃんと見ている。
その視線があるだけで、タイキはまた少しだけ呼吸を浅くした。
「……ほんと、やば」
誰にも聞こえないくらい小さく呟いて、今度こそ歩き出す。
ルイはその背中が見えなくなるまで、その場を動かなかった。
スタジオでキスしたこと。
秘密な。
その言葉が、夜風の中で何度も静かに反響する。
秘密。
でも、隠すためじゃない。
大事に持っていたいからこその秘密。
それが、今夜のふたりにはひどく似合っていた。
同時刻。
ゴイチとカノンは定食屋を出て、夜風にあたりながら歩いていた。
店の暖簾の向こうに残っていた焼き魚と味噌の匂いが、外の空気に薄められていく。
さっきまでいた店内はあたたかくて、酒も軽く入っていて、身体の芯が少しだけゆるんでいた。
カノンは片手をポケットに入れたまま、ふーっと息を吐く。
「食ったなー」
「お前が追加で唐揚げ頼むからだろ」
隣でゴイチが言う。
その声はいつも通りで、気負いがない。
定食屋で少し飲んだあとだっていうのに、妙に足取りが安定していて、そういうところがまた腹立つくらい自然だとカノンは思う。
「いや、だってあそこ唐揚げうまいじゃん」
「うまかったけど」
「だろ?」
「でもお前、終盤ちょっと眠そうだったぞ」
「……酒入ると余計ね」
そう返しながら、カノンは少しだけ横目でゴイチを見る。
さっき、ちゃんと話した。
ルイとの撮影のこと。
一瞬だけ揺れたこと。
でもその時に浮かんだのはルイじゃなくて、ゴイチだったこと。
それを、ゴイチはちゃんと聞いていた。
責めもせず、茶化しもせず。
そのまま、受け止めるみたいに。
普通なら、もっと気まずくなってもおかしくない話だ。
なのに今こうして、隣で歩く空気は変に重くなっていない。
それがありがたくて、ちょっと悔しい。
一方のゴイチは、歩きながら静かに考えていた。
ルイとの撮影の時、ルイと目があった瞬間。
“お前が浮かんだ”
とカノンはゴイチに言った。
それは、たぶんかなり大きい言葉なんだろう。
普通に考えれば。
でも、ゴイチの頭の中では、それはわりと自然に (まぁ、カノンがしんどくないように釘打っといたくらい で片付いていた。
結局、自分がしたかったのは、カノンが揺れた時に一人で抱え込まないようにすることだった。
その自分が、ちゃんとカノンの中に引っかかった。
なら、十分だろ、くらいの感じだった。
それ以上深読みしすぎない。
変に意味を膨らませない。
そこが、ゴイチらしかった。
「ていうかさ」
カノンが夜道を見たまま言う。
「お前、あの反応ずるくない?」
「何が」
「“ちゃんと聞いてた”とか」
「“安心した”とか」
ゴイチは少しだけ首を傾げる。
「本当のことだろ」
「そういうのをサラッと言うからムカつくんだよ」
「褒めてんの?」
「半分」
「また半分かよ」
カノンが少し笑う。
歩きながらの会話は、定食屋の中よりも少しだけ素直になりやすい。
夜の道に言葉が散っていく感じがして、真正面からぶつからずに済むからだ。
ゴイチは少しだけ上を向いた。
街灯の光が、ゆるく夜道を照らしている。
「でもまぁ」
ぽつりと落とす。
「相棒だからな」
カノンがそこで、すぐに横から突っ込む。
「便利な言葉だな」
その声には少し笑いが混じっている。
でも、完全に笑い飛ばしてるわけじゃない。
もうその返しに慣れた感はあった。
それなのに。
ゴイチはその温度を受け取りながら、あえて何でもない顔で返した。
「便利な言葉って、
そのまんまだろ」
カノンが少しだけ目を細める。
ゴイチはそこで、ふっと足を止めた。
住宅街へ入る少し手前。
夜風が少しだけ通る場所。
カノンもつられて立ち止まる。
ゴイチは真正面を向くわけじゃなく、少しだけ斜めにカノンを見る。
その視線は、いつもの自然なやつ。
でも、言葉だけはぶれなかった。
「相棒だろ、俺ら」
その一言が、妙にまっすぐ落ちる。
飾らない。
気取らない。
でも逃げてもいない。
カノンはその顔を見て、ふっと笑った。
何だろうなと思う。
好きだった相手の話をして。
揺れたことまで正直に話して。
その先でこんなふうに“相棒だろ”って言われるの。
普通なら雑に聞こえてもおかしくない言葉なのに、ゴイチが言うとちゃんと意味がある。
“だから大丈夫”
とも、
“だから隣にいる”
とも、
全部ひっくるめて言われてる感じがした。
カノンは少しだけ振り返って、優しく笑った。
「そうだな」
それだけ。
今は、それだけだった。
でも、その一言の中にあるものは、前よりずっと深かった。
ゴイチはその返しを聞いて、少しだけ肩の力を抜いた。
言葉にしすぎない方がいい時がある。
今は、たぶんこれでいい。
二人はまた歩き出す。
夜道に戻る足音が、さっきまでより少しだけ自然に重なっていた。
⸻
カノンのマンションが見えてくる頃には、街の音もだいぶ少なくなっていた。
エントランス前の灯りだけが、静かな地面を白く照らしている。
帰り道は短かったようでいて、ちゃんと何かが進いた感じがした。
カノンが足を止める。
ゴイチも、自然とその横で立ち止まった。
「じゃ」
とゴイチが言いかけた、その前。
「なぁ」
何でもない顔で、カノンがゴイチを見る。
そのトーンはいつも通りだった。
軽くて、少しだけ人を試すみたいな響きのある、カノンの声。
ゴイチが「ん?」と目を向ける。
カノンはポケットに手を入れたまま、肩を少しだけすくめる。
「良かったら俺ん家で飲み直す?」
何気ない誘い方だった。
本当に、ただ思いついたから言ったみたいな顔。
でも、その実、何も考えてないわけじゃない。
今夜はまだ、終わらせたくなかった。
ゴイチの“相棒だろ、俺ら”が、思っていたより胸に残っている。
このまま一人で部屋に戻ると、その余韻だけがやけに濃くなりそうだった。
だから、もう少しだけ一緒にいたい。
でも“いて”とはまだ言えない。
だからカノンは、いつものトーンで包む。
ゴイチは少しだけ目を瞬かせた。
一拍。
その沈黙が、カノンにはやけに長く感じる。
でも、ゴイチはすぐに変な勘ぐり方をしない。
そういうところが、ほんとにこの男らしい。
「飲み直すって」
少しだけ口元を上げる。
「お前、さっき酒弱いって言ってなかった?」
「言ったけど」
カノンは軽く笑う。
「家なら、寝落ちしても安全じゃん」
「それ、俺に言ってんの?」
「誰に言うんだよ」
「変な男に絡まれたら危ねぇもんな」
その返しに、カノンが少しだけ笑う。
「またそれ?」
「どんだけ気に入ってんだよ、その話」
「実際、事実だろ」
ゴイチはそう言ってから、ほんの少しだけ目をやわらげた。
「……行くよ」
カノンの胸が、小さく鳴る。
一瞬だけ、本当に一瞬だけ。
でも、はっきりと。
「マジで?」
「マジで」
「明日後悔しても知らないよ」
「何をだよ」
「俺がくだ巻くかも」
「慣れてる」
「相棒だから?」
ゴイチは少しだけ笑って肩をすくめた。
「便利な言葉だろ」
カノンはそこで、思わず声を出して笑った。
さっき自分が突っ込んだ言葉を、そのまま返してくる。
そういうところも、ずるい。
「……はいはい」
カノンはそう言いながら、エントランスのオートロックに手をかける。
ガラス扉の向こうに、夜の静けさがある。
自分の部屋。
その中へ、今日もゴイチを招く。
でも前とは少し違う。
失恋会の夜でもなく。
酔いつぶれて連れ帰られた朝の延長でもなく。
今夜は、ちゃんと自分から誘った。
その小さな違いを、カノンはドアを開けながらしっかり感じていた。
「どうぞ、相棒」
わざと少しだけ軽く言う。
ゴイチはその言い方に少しだけ笑って、何でもない顔で中へ入った。
でも、その何でもない顔の奥で何かが少しだけ動いていることを、カノンはたぶんもう見逃さなかった。
エントランスを抜けて、エレベーターに乗って、短い無言のまま部屋の前まで来る。
カノンは何でもない顔で鍵を回した。
「どうぞー」
いつも通りの軽いトーン。
でもその声が、いつもよりほんの少しだけ明るい気がして、ゴイチは靴を脱ぎながら横目でカノンを見る。
部屋に入った瞬間、カノンはそのまままっすぐキッチンへ向かった。
ジャケットをソファに放って、冷蔵庫を開ける。
ひやっとした白い光が、カノンの横顔を照らした。
「酒余ってるんだよ」
振り返りもしないまま言う。
「ひとりじゃ飲みきれないから
助かるわ」
その声音が、妙に楽しそうだった。
冷蔵庫の中から缶ビールと、開けかけのレモンサワー、それから小瓶の焼酎を引っ張り出す。
棚の奥に押し込んでいたチーズとハムを見つけて、ついでみたいに「お、これもあった」と呟く。
ゴイチはリビングの入口あたりに立ったまま、その背中を見ていた。
カノンは本当に、いつも通りみたいに動いている。
「なんかつまみも作るかな」
冷蔵庫を閉めながら、独り言みたいに言う。
そのまま袖を肘まで雑にまくって、コンロの前に立つ。
フライパンを出す音。
まな板を置く音。
包丁で小ネギを刻む小気味いいリズム。
ほろ酔いのカノンは、妙に機嫌がいい。
「お前さ」
ゴイチがソファの背に片手を置きながら言う。
「まだ一軒目みたいなテンションだな」
「え、そう?」
カノンは笑いながら、振り返らずに返す。
油をひいて、ベーコンを落とす。
じゅっと音が立つ。
卵を二つ割り入れて、塩をひとつまみ。
それだけの簡単なつまみなのに、カノンは妙に楽しそうにフライパンを揺らしていた。
「ほら、座ってていいよ」
「相棒様はお客様なんで」
「相棒様って何だよ」
「便利な呼び方」
「まだ言ってんのか」
「だって便利じゃん」
そんな会話をしながら、カノンは皿にハムとチーズを適当に盛って、簡単に焼いたつまみも横へ乗せる。
冷蔵庫の上からミックスナッツの袋まで持ってきて、無造作にテーブルへ置いた。
酒とつまみを持って、カノンがソファ前のローテーブルに並べる。
立ったまま缶を一本ゴイチに渡して、自分もレモンサワーを開ける。
「はい、乾杯」
カノンが缶を少し上げる。
ゴイチもそれに合わせる。
軽く、カン、と音が鳴る。
カノンはそのまま立ったまま、ぐびぐび飲んだ。
喉が上下して、飲み終わったあとに「っはー」と小さく息を吐く。
「うま」
「飲みすぎんなよ」
「大丈夫、今日全然だし」
そう言いながら、もう一口飲む。
頬に少しだけ赤みが差していて、でもまだ酔いつぶれるほどではない。
ただ、テンションの上がり方が少しだけいつもと違う。
ゴイチは缶を片手に、その様子を見ていた。
カノンはその視線に気づいたのか、少しだけ首を傾げる。
「何その顔」
「別に」
「絶対なんか思ってる」
「思ってるけど」
「何」
ゴイチは少しだけ笑った。
「楽しそうだなって」
その一言に、カノンは一瞬だけ目を瞬かせる。
でもすぐに、いつもの調子に戻る。
「そりゃ、相棒と飲み直しだからね?」
「それに色々すっきりしたし」
わざとらしく言ってから、カノンは缶をテーブルに置いた。
そう。と、ゴイチはカノンの作ったつまみを箸でつついて”うま”とかなんとか言ってる。普通にソファーに座って、普通に寛いでいる。そんなゴイチを横目にまだ酒の残ってる缶の淵を親指で撫でるとカノンは膝に手をついた立ち上がった。
「ちょっと俺、ちゃちゃっと
シャワー浴びてくるわ」
ゴイチが目を上げる。
「早くね?」
「俺、家帰ってきたら先にシャワー浴びたい人だから」
「適当に先やってて」
そう言いながら、テレビのリモコンをテーブルの上にぽんと置く。
「すぐ戻る」
「ほら、リモコンこれな」
手をひらひらさせて、カノンは本当にいつもの感じで洗面所の方へ消えていった。
パタパタ、と軽い足音。
そのまま洗面の扉が閉まる。
ゴイチはソファに腰を下ろしたまま、少しだけ缶を傾けた。
「……適当すぎるだろ」
小さくそう呟いて、リモコンを片手に口元は少しだけやわらいでいた。そんなカノンのフランクさに寛げるほどはゴイチも気分が解けていた。
⸻
洗面の扉が、音を立てて閉まる。
その瞬間、カノンの空気が変わった。
扉に背中をつけて、そのままずる、と少しだけ体重を預ける。
視線は床。
さっきまでの明るい声も、笑い方も、全部一旦落ちる。
(やってしまった)
心の中で、最初に浮かんだのはその一言だった。
喉の奥が少し乾く。
(招き入れてしまった)
自分で誘った。
何でもない顔で。
いつものテンションで。
“良かったら飲み直す?”なんて、軽く。
いや、わかってる。
そんなつもりじゃない。
全く、そういうつもりじゃない。
いや、そういうつもりってなんだ。
カノンは小さく息を吐く。
洗面台の白い縁に視線を落としたまま、何度か呼吸を整えようとする。
でも、全然落ち着かない。
胸の奥が妙にうるさい。
酒が入ってるはずなのに、酔いが回る感じはほとんどない。全然頭も身体も素面のまんま。
むしろ変に冴えている。
ただ、確かめたいだけだ。
(あの、ルイに触れた瞬間に)
カノンはそこで、目を閉じた。
撮影のライト。
近すぎた距離。
ルイの横顔。
その一瞬で、自分の頭の中に浮かんだ顔。
(なんでゴイチが浮かんだのか)
その理由を、知りたいだけ。
本当に、それだけだ。
そう言い聞かせる。
でも、その“だけ”が少しも軽くないことを、自分が一番よくわかっている。
洗面所の中は静かだった。
外のリビングからは、かすかにテレビをつける音が聞こえる。
ゴイチは本当に、何でもない顔で待っているんだろう。
それがまた、妙にずるい。
カノンは扉に背中をつけたまま、視線を床に落とす。
いくら酒を飲んでも酔えない。
アドレナリンのせいだ。
多分。
(とりあえず風呂…)
そう思いながら、カノンはゆっくりと息を吐いた。
コメント
2件
ドッキドキで読み進めました😆💕とうとうここまで…胸熱です…🔥そしてカノンも着実に前進していて嬉しいー💕
タイキとルイ、ついに来たね……読んでて息するの忘れた。 お互いに「選んだ」ってのが、すごく大事だと思う。ルイが「今のが最初」って言ったところ、昔のを無しにしたわけじゃなくて、それでも前に進みたいって決意に感じた。タイキが泣きそうになったってとこ、私も一緒に泣きそうになった。 ゴイチとカノンのゆるい空気も、対比でいいな。カノンが自分から「飲み直す?」って言えたの、ちゃんと進んでる。 ああでも、今のふたりの間にこれから何があるんだろう……それはまた明日読むから、今夜はこの余韻に浸らせて。本当に、静かで深い話をありがとう。