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猫猫が元気のなさそうな様子で、壬氏に話しかけてきた。
「壬氏様……」
猫猫のほうから声をかけてくるなど珍しい。
壬氏は思わず目を見開き、雪でも降るのではないかと身構えた。
「私……高順様から求婚されてしまいました……」
下を向いたまま告げられた言葉に、壬氏の表情が一気に曇る。
あまりにも分かりやすく落ち込んだその様子に、猫猫のほうが驚いてしまった。
「本当か……本当なのか?」
縋るように問われ、猫猫は少し間を置いた。
そして一瞬だけ口角を上げ、にやりとした笑みを浮かべて答えた。
「どうでしょうかねぇ?」
その一言で壬氏は完全に信じてしまったらしく、部屋の隅でうずくまってしまう。
空気まで湿っぽく感じるほどだった。
(やりすぎたか……)
猫猫はそう思い、そっと歩み寄る。
「壬氏様」
呼びかけても反応がなく、もう一度呼んでようやく返事が返ってきた。
「……なんだ」
拗ねた声だった。
「言いたいことがあるのですが、本当は高順様に求婚などされていません」
空気が一変する。
だが壬氏はまだ疑わしげな目を向けてきた。
「本当か。まだ嘘をついていないだろうな」
「本当ですよ。高順様は妻子持ちでしょう。そんなこと、するはずありません」
「じゃあ、なぜ嘘をついた!」
声色がいつもの壬氏に戻る。
「今日はエイプリルフールですから」
「エイプリルフール?」
首を傾げる壬氏に、猫猫は少し得意げに説明した。
「毎年四月一日に、罪のない嘘やいたずらをして楽しむ西洋の風習です。だから今日は、嘘をついてもいいんです」
言い切った猫猫を、壬氏はじっと見つめた。
「……それは、本当に罪のない嘘なのか?」
「げっ……」
猫猫の表情が一瞬で引きつる。
「す、少しからかってみたかっただけです!」
慌てて弁解する猫猫を見て、壬氏はふっと笑った。
どこか幼い、柔らかな笑みだった。
「そうか。ありがとな」
(なぜ感謝する……?)
そう思った次の瞬間、壬氏が距離を詰めてきた。
顔が近づく。
猫猫は後ずさるが、すぐに壁に追い詰められる。
「な、何をしているのですか、壬氏様」
壬氏は、外の人々に向けるときの天女のような笑顔を、そのまま猫猫に向けていた。
その顔を見て、猫猫は思わず毛虫を見るような目をしてしまう。
だが、その視線がよほど嬉しかったのか、壬氏の笑みは先ほどよりもさらに柔らかく、甘くなってしまい、猫猫は困り果てた。
「さっき、自分が何をしたか覚えていないのか?」
猫猫は深くため息をついた。
「……先程はすみませんでした。なんでも従います」
表情は不満げだったが、内心はそう悪くない。
「なんでも、だな?」
壬氏の目が楽しそうに細められた。
覚悟を決めた猫猫の唇に、壬氏の唇がそっと重なった。
そのまま逃げ道を塞ぐように、舌が口内へと入り込んでくる。
突然のことに驚きはしたが、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、ほんの少しだけ——心地よいとさえ感じてしまったのだ。
息継ぎのために離れた、その瞬間。
「――うちの侍女に、何をしているの?」
凍りつくような声がした。
それは、聞き慣れた声だった。
玉葉妃だった。
穏やかな微笑はなく、鋭い視線が壬氏に向けられている。
次の瞬間、二人は引き離され、壬氏はそのまま連れて行かれた。
高順は遠くで、やれやれと肩をすくめていた。
壬氏は玉葉妃にこってりと叱られたらしい。
すっかりげっそりしていたが、猫猫の顔を見ると不思議と元気を取り戻していた。
これからも、今日のような平和な日々が続けばいい――猫猫はそう思った。