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これは、猫猫と壬氏が結婚してから、およそ一年後の話である。
猫猫は身ごもり、壬氏はこれまで以上に彼女のことを気にかけていた。
「猫猫っ! 大丈夫か? 体は冷やさないほうがいいぞ!」
そう言って、自分の羽織を差し出しながら、必死な様子で声をかけてくる。
「ありがとうございます。あともう少しで十か月ですね」
猫猫は羽織を受け取り、穏やかに微笑んだ。
その笑顔に、壬氏は完全にやられてしまい、その場で腰を抜かした。
猫猫は目を丸くして彼を見る。
「壬氏さま!? 何をしているのですか!」
「い、いや……なんでもない」
慌てながら、どこか照れた様子で答える。
結婚できたことがよほど嬉しいのか、壬氏は最近、些細なことでこうなってしまうのだった。
近くで見ていた高順は、眉間に皺を寄せ、やれやれとため息をつく。
そんな、穏やかで微笑ましい日々が続いていた。
数ヶ月後──
猫猫の出産の日が訪れた。
助産を務めたのは、猫猫の養父であり、薬の師でもある羅門だった。
その顔を見て、猫猫は不思議と落ち着くことができた。
生まれてきたのは、元気な男の子。
産声が上がった瞬間、壬氏と猫猫は、同時に涙をこぼしていた。
その様子を見ていた水連も、静かに目元を押さえていた。
「……よく、がんばったな」
壬氏は声を震わせながら、猫猫にそう告げる。
すると猫猫は、はっとしたように顔を上げた。
「おやじ! 胎盤! 私の胎盤!」
思わず声を荒げる猫猫を見て、壬氏は――
「……変わらないな」
そう小さく笑った。
その後、猫猫は胎盤を美味しそうに食べながら、育児に追われていた。
生まれたばかりの赤子は、まだ首も据わっておらず、ほんの一瞬たりとも目が離せない。
壬氏はというと、心配でたまらないのか、子どもの顔を至近距離でじっと見つめている。
「爸爸だよ〜」
そう言って手を振ると、小さな手がその指をきゅっと握った。
それがよほど嬉しかったのか、壬氏は声にならない声で悶えていた。
その様子を横目に、猫猫は少し安心したのか、再び胎盤を食べ進める。
食べ終えた頃、赤子が泣き始めた。
——ああ、もうそんな時間か。
猫猫は胸を差し出し、母乳を含ませる。
最初は痛みもあったが、今はそれほどでもない。
自分が慣れたのか、それとも子どもが飲み方を覚えたのか。
そんなことを、ぼんやりと考えていた。
そのとき、扉を叩く音がした。
壬氏が扉を開けると、そこに立っていたのは羅漢だった。
初孫を見に来たのだろう。
満面の笑みで、あまりにも上機嫌な様子に、少しばかり気色悪さすら覚える。
結婚当初は散々揉めたが、今ではこうして顔を出す程度の関係にはなっていた。
「……なんですか」
猫猫はわずかに不機嫌さを滲ませながら尋ねる。
用件は分かっているが、一応聞いておく。
今は、夫婦円満な時間の最中なのだ。
「いや〜、初孫を見に来たくて!」
周囲に花でも飛ばしていそうな勢いで、羅漢は笑う。
「……じゃあ、少しだけですよ」
猫猫は小さくため息をつきながら、そう告げた。
羅漢は赤子を前に、完全に骨抜きになっていた。
目は分かりやすく輝き、今にもハートが飛び出しそうだ。
「かわいすぎる!」
思わず声を張り上げる様子を見て、壬氏と猫猫は顔を見合わせ、そうだろうと小さく頷いた。
しばらくして、羅漢がぽつりと呟く。
「……鳳仙にも、見せてやりたいな」
その言葉を聞いた猫猫は、壬氏の袖を引いた。
「壬氏様。次の休みに、花街へ行きませんか?
緑青館の人たちにも、挨拶をしたくて……」
壬氏は一瞬考え、すぐに頷いた。
「そうだな。行こう」
こうして、次の休みに緑青館を訪れることになった。
数日後──
壬氏と我が子を連れ、猫猫は緑青館を訪れた。
外廷から花街までは馬車を用意してもらい、道中、壬氏がふと思い出したように口を開く。
「そういえば先日、玉葉后が“私にも顔を見せてちょうだい”と言っていたぞ」
玉葉后は、猫猫が身ごもってから何かと気にかけてくれていた。
出産の報を聞き、とても喜んでいたらしい。
「それなら、玉葉后のもとにも挨拶に行かないとですね」
猫猫が穏やかに微笑むと、壬氏は一瞬悶えかけ──しかしすぐに切り替えた。
「翡翠宮の侍女たちに、言い寄られそうだがな」
そんな他愛ない会話をしているうちに、馬車は緑青館へと到着した。
門の前で待っていたのは、やり手婆だった。
猫猫の腕に抱かれた赤子を見るなり、ぱっと顔を輝かせる。
……が、それも一瞬。
すぐにいつもの調子へと戻った。
「いやぁ、あんたもついに母親かい」
枯れた声でそう言いながらも、今日は背中を叩いてこない。
それが、ささやかな気遣いなのだと分かって、猫猫は少しだけ胸が温かくなった。
奥の客間へ案内されると、女華、梅梅、百鈴――三姫の姿があった。
赤子を見るなり、三人は一斉に駆け寄ってくる。
「かわい〜!」
梅梅は涙ぐみながら「本当におめでとう」と言い、
それにつられて他の姫たちも目元を潤ませた。
その様子を見て、猫猫もつい、もらい泣きしてしまう。
横で見ていた壬氏は、どうしていいか分からない様子で、そわそわと視線を彷徨わせていた。
それに気づいた猫猫は、席につこうと促した。
腰を下ろし、これまでのこと、これからのことをゆっくり語り合う。
三姫は優しい笑顔で相槌を打ち、その空気に猫猫は心から安らいだ。
ふと、羅漢の言葉が脳裏をよぎる。
――鳳仙にも、見せてやりたい。
その瞬間、猫猫は立ち上がり、早足で部屋を出た。
本当は走りたい。しかし、腕の中の赤子を思い、足を抑える。
後を追うように壬氏が駆け出し、三姫は呆然とその背を見送っていた。
鳳仙の部屋に着くと、彼女は静かにこちらへ顔を向けた。
いつもは動かない表情が、ほんのわずかに揺れている。
その胸にどんな思いがあるのかは分からない。
それでも猫猫は、赤子が受け入れられていると感じた。
日が落ち、帰る刻限となる。
やり手婆が最後まで見送ってくれ、胸の奥がじんわりと温かくなった。
壬氏は手持ち無沙汰そうに不機嫌を装っているが、
猫猫にとっては、そばにいてくれるだけで十分だった。
――それを本人に言うつもりはない。調子に乗るからだ。
そう考えているうちに、外廷へと戻ってきた。
猫猫は、今日のような穏やかな日々を、これからも大切にしていきたいと思った。
おまけ
後日、玉葉后のもとを訪れた。
翡翠宮の者たちは皆、快く迎え入れてくれた。
侍女たちに言い寄られるのは相変わらず少し面倒だったが、
その賑やかさがどこか懐かしく、猫猫の心は不思議と落ち着いた。
玉葉后は猫猫の体調を気遣い、細やかな言葉をかけてくれる。
その立ち居振る舞いに、猫猫は改めて思う。
――この人こそ、后にふさわしい方なのだと。
玉葉后と、さまざまな話をした。
意見を交わしながらも穏やかに語り合えるその時間は、とても心地よかった。
玉葉后の子である鈴麗姫も、赤子と無邪気に遊んでくれていて、
その光景はただただ微笑ましかった。
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