テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
かんな
あかね ♛❤️♛
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
穂乃果は指示された通りバックヤードのシンクに向かい、山積みになった食器の洗浄を始めた。
カチャカチャという陶器の触れ合う音と水音に紛れて、微かに聞こえてくるナオミの声。
「……ふぅん。アンタも色々大変なのねぇ。でもね、そう言うときは一旦引いてみるの。ぐいぐい来る女は苦手って男結構いるから」
恋愛相談か何かだろうか? カウンター越しに、ナオミが差し出したのは、燃えるような夕焼け色をした一杯のカクテル。
「『スカーレット・オハラ』よ。今の貴方にピッタリのカクテル。……そんなに彼に固執して、自分を見失ってどうするの? 少しは自分自身を可愛がってあげなさいな。男なんて、逃げるものを追いたくなる生き物なんだから」
ナオミの凛とした声は、相談している女性だけでなく、シンクの前で手を動かす穂乃果の胸にも、不思議な重みを持って突き刺さった。
(自分を、可愛がる……)
直樹の顔色を伺い、里奈の言葉に傷つき、いつも自分の感情を後回しにしてきた。
洗剤の泡に包まれた自分の手を見つめる。
直樹の言う通りに、ずっとして来たけれど、それは結局、彼にとって都合の良い便利な女になっていただけだったのかもしれない。
ナオミのはっきりとした物言いは、受け止める側によって感じ方が違って来るのだろうが、嘘のないアドバイスは、穂乃果の固まった思考までもゆっくりと溶かしていく。
(自分を可愛がる……。私は、自分のために笑ったことがあったかな)
そんな自問自答を繰り返しながら、洗い終わった皿やグラスを、布巾で丁寧に拭き上げていく。
BLACK CATを訪れる客は、ほとんどが彼女の知り合いや常連客のようだった。特にカウンターの一番奥に陣取っている2人組の男性は、ナオミとはかなり古い付き合いらしく、言葉の端々に遠慮がない。
「おい、ケンジ。新入りか? 見ないヤツだな」
「……っ」
不意に投げかけられたその名前に、穂乃果の肩がぴくっと跳ねた。
なんだか、値踏みされるように睨まれた気がして、落ち着かない。
「もー、本名で呼ばないでっていつも言ってるでしょ? それと、威嚇しないで頂戴。今日は金曜日だし、忙しくなりそうだったから手伝って貰ってるだけ。深い意味はないわ」
ナオミは、使い古された言い訳を口にするように、さらりとこともなげに答えた。彼女の中では穂乃果はただのヘルプでしかないということ。
それはそれで当然だというのに、どこかで寂しいと思ってしまうのはなぜだろう?
「手伝い、ね」
二人組のうち一人が、ウィスキーを煽りながらじろじろと此方を見ている。なんだろう? そんなに睨まれると自分が珍獣にでもなったような気分になって落ち着かない。
「あぁ、大丈夫ですよ。 あの人、理人さんって言うんですけど、口下手だし、顔と目付きが悪いだけで悪い人ではないですから」
「は、はぁ……」
注文を受けて戻ってきた湊がこそっと耳打ちしてくる。
湊の爽やかな笑顔に少しだけ緊張が解けたが、それでもカウンターの向こうでグラスを揺らす理人の視線は、依然として穂乃果を射抜いたままだ。
「あ!……もしかして、彼女が瀬名さんに人目惚れしないように威嚇してるんですか?」
「ええっ? そうなんですか? 理人さん」
湊の一言に、瀬名と呼ばれた男が目を輝かせて理人の方へと視線を向ける。
「あ? んなわけねぇだろっ! クソッ! おい、ケンジ! 酒持ってこいっ!」
「だから、本名で呼ばないで頂戴!!」
おそらく図星だったのだろう。耳まで赤く染めてそっぽを向いた理人の姿を見て、場の空気がほっこりと和んだ。
あんなに怖かった理人の視線が、実は身内への不器用な執着や照れ隠しだったのだと分かると、穂乃果の胸に巣食っていた緊張が、スッと霧が晴れるように消えていく。