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かんな
あかね ♛❤️♛
「大丈夫ですよ理人さん。僕は理人さん以外興味ないの、知ってるでしょ?」
「うるせっ! クソ瀬名っ! くっつくなうっとうしい!!」
改めて見れば、確かに瀬名と呼ばれた男性は、都会的で整った顔立ちをしていた。
女好きしそうな甘いルックスに、少し鼻にかかった柔らかな声。
けれど、その熱を帯びた視線は常に理人だけに注がれていて、端から見れば呆れるほどに距離感がバグっている。
理人の方も、口ではぶっきらぼうな罵声を浴びせながらも、瀬名が肩に頭を預けるのを拒む素振りは見せない。
(……満更じゃないんだ。あんなに怖そうに見えるのに)
「ふふっ……」
思わず、小さな笑い声が漏れた。
常に誰かの顔色を伺って演じる従順な笑みではない。この異質な、けれど温かな光景が、穂乃果の強張っていた頬を自然に解きほぐしていた。
「あそこの二人はね、くっつくまでほんっと大変だったんだから。ね、湊」
ナオミが、カクテルをステアしながら、呆れたような、けれど慈しむような溜息をこぼす。
「そうそう。理人さん、本当に素直じゃないから。自分の気持ちを認めるまでに、何枚のグラスが犠牲になったことか」
湊が横から楽しそうに追随し、穂乃果にだけ分かるように悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
「なっ! おいコラてめぇらっ! 新人に余計なこと吹き込んでんじゃねぇ!!」
理人は顔を真っ赤にしながら吠えたが、その声に悪意がないことは、今の穂乃果にははっきりと分かった。
ナオミも、湊も、そしてこの常連客たちも。
ここでは誰もが、世間から押し付けられた普通を脱ぎ捨てて、剥き出しの自分で呼吸している。
直樹の隣で、息を詰めて地味な女を演じていた自分とは、正反対の世界。
肌が粟立つような緊張感さえ、ここでは甘美な刺激に変わる。
(なんかいいな。こういう空気……)
この空間をナオミが作り上げているのだと思ったら、何故だか自分まで誇らしいような、温かな熱が胸の奥で静かに爆ぜた。
厳しい言葉や鋭い視線の裏側に、こんなにも嘘のない、濃密な絆が隠されていたなんて。
(私……ここにいても、いいのかな)
洗い終わったグラスを布巾で包み込み、指先の感覚を確かめる。
直樹と共に生活していたあの場所では、呼吸をすることさえ億劫で、常に彼の機嫌という名の「正解」を探しながら、薄氷の上を歩くような毎日だった。
直樹が選ぶ地味な服を着て、直樹が好む薄味の料理を作り、直樹が望む「大人しくて従順な彼女」を演じる。
そこに穂乃果自身の意思など必要なかった。ただの便利な背景として、彼の生活を彩るための無機質なパーツであればそれで良かったのだ。彩りのない、退屈で、けれど逆らうことの許されない監獄。
けれど、ナオミの隣で、湊の気遣いに触れ、この賑やかな常連たちの毒気に当てられている今は、自分が一人の人間として、この場所に確かに存在している実感が持てる。
もっとここにいたい。もっとこの人たちのこと、そして、ナオミのことを知りたい――。
そんな淡い思いが、少しずつ膨れ上がっていく。
だが、幸せな予感に浸るのを許さないように、夕方に浴びせられた彩美の屈託のない言葉が脳裏をよぎった。
『お幸せにね、安住さん!』
善意という名の凶器で塗り固められた婚約の噂。職場の誰もが直樹のばら撒いた嘘を信じ込み、自分を逃げ場のない袋小路へと追い詰めていく。
(違うのに……。あんな男、もう、顔も見たくないのに……)
じわりと指先に嫌な汗が滲む。外堀を埋め尽くすドロドロとした現実を思い出し、せっかく解けかけた心が再び暗い底へと沈みそうになった、その時だった。
「――穂乃果さん?」
「えっ?」
不意に横から声をかけられ、ハッとして顔を上げる。
心配そうに顔を覗き込んでいたのは、湊だった。その涼やかな瞳に見つめられ、穂乃果は慌てて首を振る。
「大丈夫? もしかして、疲れちゃったかな?」
「だ、大丈夫です! ちょっと考え事をしていて……」
取り繕うように笑ったが、カウンター越しにそれを見ていたナオミが、カクテルグラスを置く音を鋭く響かせた。
「大丈夫なわけないでしょ。あんたは日中仕事してからこっちに来てるんだから……。悪かったわ、私の配慮が足りなかったわね。もう、奥で休むか家に戻っていいわよ」
「ち、違うんです! 私、なら平気ですっ。だから……最後まで、お手伝いさせてくださいっ」
必死に縋るような穂乃果の声。
帰りたくない。あの、直樹の残り香が漂う孤独な現実に戻れば、また「地味な安住穂乃果」に逆戻りしてしまうような気がして怖かった。
ナオミは少しだけ意外そうに目を見開いたが、やがて呆れたように鼻を鳴らす。
「……好きにしなさい」
それだけ言うと、ナオミは再びホールの方へと出て行ってしまった。
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