テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
Side 野々宮果歩
夫の成明は、私に対して離婚に応じない場合には、裁判も視野に入れているらしいと、弁護士から連絡が入った。
成明に何一つ落ち度はなく、わたしに非がある事は明らかで、長引かせるのは得策ではないと言われてしまった。
でも、離婚が成立したら「緑原総合病院の後継ぎはどうするのだ」と、怒り心頭の父からの勘当はとけないだろう。
収入の当てもなく、引っ越し先もない状態で、どうすればいいのかわからなかった。
仕事だって、緑原総合病院の薬局製剤責任者という肩書があったけれど、実際には、調剤にはかかわらず、書類にサインをしていただけだった。
投薬の経験もなく、薬剤についての知識も浅い薬剤師を誰が雇うのだろうか。
「なんで、わたしが……」と、気が付けばつぶやいていた。
家に居ても気持ちが晴れなくて、あてどもなく街を歩いた。
華やかにディスプレイされたショウウィンドウ。これまでなら、新作の服もバッグも、苦も無く手にしていた。
でも、今はただ眺める事しか出来ない。
惨めで寂しくて、誰かに助けてもらいたかった。
気が付けば、健治の住むマンションの前に、佇んでいた。
電話は、着信拒否をされたままだけど、きっと会えば受け入れてくれるばず……。
そう思い、エントランスホールに入ろうと足を踏み出した。
その瞬間、ドアの奥に人影が見えた。
「健治だ……」
希望の光が見えた気がした。
けれど、直ぐにその希望は打ち砕かれる。
|あの女《美緒》が隣にいるのだ。
咄嗟にエントランスホールの植え込みの影に隠れた。
並んで歩く二人の様子は、離婚をすると言っていた夫婦の雰囲気ではなく。健治が美緒を見つめる眼差しには、未練が読み取れた。
マンション前に一台のタクシーが到着する。
美緒がタクシーに乗り込むと、健治が腰を屈め、美緒を見つめていた。
「今度、荷物取りに来る時、連絡するね」
「……わかった。連絡待ってるよ」
そう言って、健治は未練たっぷりに走り去るタクシーを見送っていた。
やがて、タクシーが見えなくなくと、細く息を吐き出し、肩を落としエントランスへと足を向けた。
今、声を掛けなければと、わたしは咄嗟に名前を呼んだ。
「健治!」
その声に反応して、振り返った健治の表情は、さっきまで美緒を見つめていた優しい雰囲気とは違い、まるで、汚物を見るような嫌悪に満ちたものだった。
「……なんで、お前が居るんだ」
「わたし、離婚することになったの。だから……」
今までのわたしなら、自信たっぷりに「だから、健治と結婚してあげる」と言っていただろう。けれど、今のわたしは、緑原総合病院の跡取り娘ではなく、勘当同然の身の上で、その自信を支える物は何もなく、言い淀む。
「だから、何だって言うんだ。人としてモラルの欠けるお前の顔なんて、見たくもない。これ以上付きまとうなら、訴えるからな!」
「なんで、そんな冷たいこというの⁉わたしたち、愛し合っていたでしょう?」
すると、健治の瞳は冷ややかな色に変わる。
「別れると言っても脅して、無理やりつき合わせるのを”愛し合っていた”と言うのなら、そうなのかもな。だが、人を傷つけても謝罪も反省も出来ないヤツとは付き合い切れない。帰れ!」
あからさまに憎悪をぶつけられ、わたしは立ちすくんでしまった。
「わたしには、もう、健治しかいないのに……」
その言葉を聞いて、健治は呆れたように首を横に振った。
「……自分のした事ってのは、自分に帰って来るんだ。人に優しくすれば、優しくしてもらえる。お前が困っているのに、誰も手を差し伸べないのは、誰にも優しくしてこなかったし、助けた事もないんだろうな」
それだけ言うと、健治は踵を返した。
どうしても、引き留めたくて、手を伸ばした。でも、その手は振り払われる。
「イヤ!どうしていいのかわからないのよ。助けてよ!」
「だから、無理だって言っただろ。まだしつこくするなら、警察呼ぶからな」
健治はわたしを睨みつけ、マンションエントランスの扉を閉めた。
無機質の扉がわたしを隔てる。
本当にひとりになってしまったのだと思った。ひとりで生きて行く術を知らないのは、わたしのせいじゃない。
健治にまで見捨てられたら、この先どうやって生きて行けばいいのかわからない。
健治なら……わたしに優しくしてくれると思っていたのに……。
なんで……あんなに冷たい瞳でわたしをみるのか。
健治は、|あの女《美緒》には、優しい瞳を向けていた。
なんで……。
なんで、|あの女《美緒》ばかり……。
233
78