テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
宴が終わるまで、思っていた以上に時間がかかった。
閉ざされた客間の中で、ハリーはずっと立ったままだった。
ドラコが出ていった扉を、意味もなく何度も見た。すぐ戻ってくるはずもないと分かっているのに、足音が聞こえるたび、息を止めてしまう。
遠くでは祝宴のざわめきが続いていた。
笑い声。
グラスの触れ合う音。
上品に抑えられた談笑。
どれも腹立たしいほど穏やかだった。たった今、別の部屋で世界が壊れかけていたというのに、その事実などどこにも滲まない。
やがて、その音も少しずつ減っていった。
客人たちが帰り始めたのだろう。
姿くらましの小さな破裂音が、何度も何度も夜の静けさへ吸い込まれていく。屋敷しもべ妖精たちの足音も、片づけの気配へ変わる。
ハリーは扉に耳を寄せた。
静かだ。
今なら出られるかもしれない。
そう思った瞬間、次に浮かんだのは、透明マントのことだった。あれを取り返さなければ、ここから出るにしても動きが取りづらい。ルシウスがどこに置いたかは分からないが、たぶん書斎だ。あの男なら、見つけた侵入者の持ち物を手元に置く。
ハリーは扉を少しだけ開けた。
廊下は薄暗く、人気がない。
燭台の火だけが細く壁を照らし、さっきまでの華やかさは嘘のように静まっている。
ドラコの気配を探した。
ない。
それだけで胸がまた痛んだ。
行かなければならない。
透明マントを取り返し、どうにかここを出る。そのあと、ドラコを取り返す方法を考える。そう自分に命じながら、ハリーは廊下を急いだ。
書斎の扉は半開きだった。
中は無人に見えた。
机の上には書類が散らばり、燭台の火がまだ残っている。ルシウスは別の客人を見送っているのか、それとも客間へ戻っているのか。いずれにせよ、今はここにいない。
ハリーは中へ滑り込んだ。
焦りのせいで呼吸が浅い。
机の下。椅子の背。壁際の棚。マントらしい布の影を探すが見つからない。
「どこだ……」
小さく呟く。
本当は早く出るべきだと分かっている。ここへ長居するのは危険だ。なのに、マントがなければさらに危険になる。その計算が、かえってハリーの動きを雑にした。
引き出しを開ける。
違う。
棚の陰を見る。
違う。
机の脇の箱。
違う。
苛立ちが喉までせり上がる。
その時、背後で扉が完全に開く音がした。
ハリーの背中が凍る。
振り向く。
そこにいたのは、ルシウスだった。
宴の終わりの余韻をまとった上機嫌な顔など、もうどこにもない。
書斎に侵入したハリーを見た瞬間、その顔は一気に冷たく引き締まっていた。怒りだ。露骨で、隠す気もない怒り。
「またお前か」
その声の低さだけで、空気が変わる。
ハリーは咄嗟に杖を構えた。
今さら言い訳など何の足しにもならない。逃げるしかない。だがルシウスのほうが早かった。
「愚かなガキが!」
呪いが飛ぶ。
赤い閃光。
ハリーは反射的に身をひねり、それをかわした。背後の本棚が弾ける。木片と紙片が散る。
ハリーはすぐに反撃した。
「エクスペリアームス!」
だがルシウスは軽く杖を払っただけでそれを逸らす。
経験も魔力量も違う。まともに撃ち合えば不利なのは明らかだった。
それでもハリーは退かなかった。
退けば終わる。ドラコのところまで辿りつく前にすべてが終わる。
「ステューピファイ!」
「甘い」
ルシウスの呪文がまた飛ぶ。
今度は机が吹き飛び、インク瓶が砕け、黒い液体が床へ広がった。
物音は屋敷中に響いたはずだ。
誰かが来る。
ハリーは書斎の端へ飛び退き、次の呪文を構えた。
「お前さえいなければ」
ルシウスの声音は、怒りの底でひどく冷たかった。
「ドラコはここまで狂わなかった」
その言葉に、ハリーの胸が強く痛んだ。
だが反論する暇はない。杖先がまたこちらを向く。
その瞬間、廊下から駆け込んでくる足音がした。
「父上!」
ドラコだった。
その声を聞いた瞬間、ハリーの意識が一瞬だけそちらへ引かれた。
それが致命的だった。
ルシウスの杖が、まっすぐハリーを狙っている。
反発呪文を打つには、ほんのわずか遅い。
ハリーが息を呑んだ、その一瞬で。
ドラコが動いた。
本当に、咄嗟だった。
考えるより先に身体が動いたのだと分かる。ためらいも計算もない。ただ一直線に、ハリーの前へ飛び込む。
「ドラコ!」
叫んだ時には、もう遅かった。
ルシウスの呪いが、真っ直ぐドラコの胸を撃ち抜いた。
運が悪かった。
あまりにも悪かった。
狙いはハリーだった。反射的な回避も間に合わず、ドラコはその軌道へ自分の身体を投げ込んだ。
呪いは心臓を直撃した。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
音が消える。
空気が消える。
ただ、ドラコの身体が衝撃を受けて後ろへ弾かれ、そのまま床へ倒れるところだけが異様にゆっくり見えた。
白いシャツの胸元に、焼けるような痕が一気に広がっていく。
「……っ」
ハリーの喉から、声とも息ともつかないものが漏れた。
ルシウスの顔から血の気が引く。
「ドラコ」
その名を呼んだ声には、さっきまでの怒りが完全に消えていた。
代わりに現れたのは、理解が追いついていない人間の恐怖だった。
ルシウスは一歩近づきかけて、そこでようやく現実を理解したらしい。
「医者を呼べ!」
怒鳴り声が書斎の壁を打つ。
それから自分で走り出す。扉の向こうへ。屋敷しもべ妖精の悲鳴が廊下で上がる。
だがハリーには、もう何も耳に入らなかった。
床へ膝をつく。
ドラコの身体を抱き起こす。
熱い。
いや、熱いのか冷えているのかも分からない。ただ、さっきまで動いていた身体が急速に力を失っていく感触だけが、両腕の中であまりにも生々しかった。
「ドラコ、ドラコ、見ろ、僕を見ろ」
ハリーの声は完全に壊れていた。
ドラコの睫毛がかすかに震える。
唇が少し開く。呼吸は浅く、途切れ途切れで、胸の傷のあたりから命そのものが流れ出ている気がした。
「大丈夫だ」
ハリーは泣きながら言う。
「大丈夫だ、今、医者が」
自分でも分かっていた。大丈夫ではない。
それでも言うしかなかった。
「だから、だから、待って」
ドラコはハリーを見た。
その目には痛みがあった。
でもそれ以上に、不思議なくらい静かなものもあった。恐怖ではない。諦めとも少し違う。もっと疲れ切った場所で、ようやく終わりが見えた人間の静けさだった。
ハリーの胸が凍る。
「やめろ」
泣きながら首を振る。
「そんな目するな」
握る手に力が入る。
「ドラコ、頼む、やめろ、僕を置いていくな」
ドラコの唇が動く。
声にならない。
ハリーは顔を近づける。
「何」
ドラコは、ほとんど息だけで言った。
「……これで、いい」
その一言だった。
ハリーは意味を理解したくなかった。
これでいい?
何が?
何がいいんだ。
こんなののどこが。
「よくない!」
叫ぶ。
喉が裂ける。涙で視界が歪む。
「何もよくない」
ハリーは必死に首を振る。
「僕、取り返すって言っただろ」
呼吸が詰まる。
「君も戻るって言っただろ、だから」
声が崩れる。
「だから、こんな終わり方するなよ……!」
ドラコの目が、ほんの少しだけやわらいだ。
そのやわらかさが、ハリーにはいちばんつらかった。
まるで、自分をなだめるような目だった。
泣くな、と。
もういい、と。
そう言われている気がして、ハリーは本気で壊れそうになった。
「やめて」
小さく、必死に言う。
「頼む、ドラコ」
額を寄せる。
「お願いだ、お願いだから」
ドラコの指が、ほんの少しだけ動いた。
ハリーのローブを掴もうとしたのか。
頬に触れたかったのか。
どちらかも分からないほど弱い動きだった。
そして、そのまま力が抜けた。
目の光が、静かに消えた。
ハリーはしばらく、何が起きたのか理解できなかった。
腕の中にはまだドラコがいる。
重さも、温度もある。
髪も、睫毛も、頬の輪郭も、何も変わっていない。
なのに、さっきまでそこにいた“誰か”だけが、取り返しのつかない形でいなくなっている。
「……ドラコ?」
返事はない。
「ドラコ」
もう一度。
もっと近くで。
もっと必死に。
返事はない。
ハリーはその場で完全に泣き崩れた。
「やだ」
嗚咽の合間に言う。
「やだ、やだ、やだ」
子どもみたいに、何度も。
「戻れよ、戻れって……!」
肩を揺する。
胸を押さえる。
傷口を塞ごうとする。
血と熱と、自分の手の震えと、何もかもが混ざる。
でも時間は戻らない。呼吸も戻らない。
扉の向こうで足音が殺到する。
医者が来た。
屋敷しもべ妖精たちが泣きながら集まる。
ルシウスが戻る。
そのあとでナルシッサも。
彼女は床の上のドラコを見た瞬間、何も言えずにその場へ崩れ落ちた。
卒倒、という言葉がいちばん近かった。声すら出なかった。ただ顔色だけが紙みたいに白くなり、そのまま倒れる。
書斎は地獄だった。
医者の低い声。
妖精たちの泣き声。
誰かがナルシッサを支える悲鳴。
ルシウスの荒い呼吸。
そのすべての中で、ハリーだけはまだドラコを抱きしめていた。
手放せなかった。
手放した瞬間、本当に終わる気がした。もう自分の腕の中にすらいなくなる気がした。
「離せ!」
誰かが言う。
たぶん医者だ。
あるいはルシウスかもしれない。
ハリーは首を振る。
「嫌だ」
自分でも驚くほど低い声だった。
泣きすぎて、もう涙も声も枯れている。
「嫌だ」
もう一度。
「離さない」
だが、屋敷しもべ妖精たちが複数でかかってきた。
震えながら、それでも必死にハリーの腕を引き剥がそうとする。主の命なのだろう。泣きながら、謝りながら、それでも止まらない。
「やめろ! 触るな!」
ハリーは抵抗した。
だが、今の彼にはもう力が残っていない。さっきまでの呪いの名残もある。何より、腕の中のドラコへ全神経を注いでいたせいで、身体の芯が空だった。
少しずつ。
本当に少しずつ。
腕が引き剥がされる。
ドラコの身体が、自分の手の中から離れていく。
その瞬間、ハリーは初めて本当に声を上げた。
絶叫だった。
裂けるような。
喉が壊れてもかまわない叫び。
だがそれでも、現実は止まらない。
とうとうハリーはドラコから引き離された。
床へ膝をつく。両手は空のまま、何も掴めない。目の前には、動かないドラコが横たわっている。
ルシウスの声が響く。
「貴様のせいだ」
ハリーはその言葉を聞いた。
聞いたが、反論できなかった。
目の前の光景があまりにも圧倒的だった。
何を言われても意味がなかった。弁解も、怒りも、正しさも、もう何の役にも立たない。ドラコは動かない。それだけが真実だった。
ルシウスはさらに何か言っていた。
責める言葉。怒り。あるいは自分自身への恐怖を押し隠すための誰かへの断罪。
だがハリーにはほとんど聞こえなかった。
泣き声と叫び声だけが、屋敷中へ響いている。
ナルシッサを呼ぶ声。
妖精たちの嗚咽。
医者の短い指示。
ルシウスの荒い息。
その中心で、ハリーだけが、ただ立ち尽くしていた。
立ち尽くすしかなかった。
足元には、もう返事を返すことのない最愛の人が横たわっている。
ついさっきまで熱を持っていた身体。
目に光が戻ったばかりの顔。
「必ず戻る」と言った唇。
その全部が、もう二度と動かない。
ハリーはそれを見つめたまま、一歩も動けなかった。
世界は壊れる時、音を立てない。
ただ、二度と元へ戻らない形で目の前に残るだけなのだと、その時初めて知った。