小さな服店で、アレクシアとシンが話し合いながら、ヘンドリックの服を選んでいる。船乗りだからなのか、落ち着いた青を中心として服を何着も持って、三人は人間としての擬態道具の議論のさなかにいる。そして約束通り、私もまた服を選ばれている立場だ。
「アンドレイ! この服とかどう? ちゃんと赤いよ?」
アトラは満面の笑みで、まるで太陽のように明るい赤色の服を持ってくる。三着目辺りまでは数えていたが、そろそろ呆れてきた。どうして私に選択権はないのか。簡単な話だ。私では今を生きる人間のような服を選べない。どうしても冷戦の労働者から、ソ連の人間から、二十世紀の若者から抜け出すことが出来ない。あの崩壊の日からの数十年間、私はその残滓を彷徨い、新しい時代から目を背けてきた。それもまた一つの生き方だと私は思っているが、その生き方が許されるのは人間だけだ。
「おーいアンドレイ、聞いてるかなー? 似合うと思うけど、特に何もないならこれ買うよ?」
「いや待ってくれ。赤にこだわらなくていい、落ち着いた色で今の人間がきる服を選んでもらえないか」
「アンドレイ、今は個性を主張する時代だ。好きな物は全面的に押し出す! さあ、君の大好きな赤色の思想を全世界の人間に発信するのだ!」
「断ります。別の服を選んで貰えます?私の感性を信用なさらないなら」
「うん、信用してないよ。けど君も私のこと信じてないでしょ? それが君の私のチョイスを拒否する理由だろう?」
一見筋の通ったことを話しているが、アトラは単にこの真っ赤を私に着て欲しいだけだ。初対面の時であれば、この言葉を鵜呑みにしていただろうが、この短い期間でもこの男の性質を理解し始めた。
「それは確かに間違いではないが、あなたは私に赤を着せたいだけだろう。人間の中で生きるのなら、我々は個性を出しつつも人に馴染み続けることが必要というのが私の主観だ」
私はアトラの服装を確認してみるを。黒を基調として、所々金の装飾を取り入れた、王族や高貴な生まれの出身を思い起こさせる。首にかけている何らかの骨で作られた角のようなネックレスが一番目立っているように、それも悪い意味で服装から浮いているように見えてしまった。
「うー、アンドレイも手強くなったね。でも、君は人間として生きたいだろう? それと目立たないは矛盾してない?人間って自分の生きた軌跡を残すものだよ?」
「それはあなたの主観だ。私の意見を聞くのなら、私の思う人間に協力していただきます。それにあなたのそのネックレス、擬態するには目立つのでは」
私がアトラのネックレスを指して話すと、彼はそれを掴んで、私を翠色の眼を大きく開いて見つめるばかりだった。
「……いいよ、譲歩してあげる。自分を表すのに、どんな服が着たい?」
ボルドー、と表現するのが相応しいような赤いトレーナーに、暗い灰色のジャケットの入った袋を持って、私は街の中のベンチに座らされている。ヘンドリックの為にアイス買ってきてあげるんだーという平常通りの笑顔のアトラが、シンとアレクシアを率いてアイスクリームのワゴンの方へといなくなってしまったのだ。そして今、私の隣では落ち着いた青を基調とした服に着替えた、血色の無い男、ヘンドリックが座って、水の上を進むゴンドラをひたすらに目で追っていた。海の上を沈没船で漂っているという話だから、なにか水というものに愛着でもあるのだろうか? それとも、人に愛されているゴンドラになにか感情を持っているのか。ヘンドリックは足を組んで、背中をベンチに預けると
「不思議な方ですね。人と距離を取ったり、急に中へ踏み込んできたり。それに、目を見て他者を判断するなんて、珍しい」
確かに、私は今ヘンドリックの、こちらを見る眼を視認して、どうするべきなのか思考をめぐらせている。それを理解して、ヘンドリックも私の眼を敢えて見ている。
「日露戦争をご存知ですか?ロシア帝国は革命の最中に戦争になってしまい、かなり不利な形で終戦したものです」
ヘンドリックは頷く。そして何も言わずに私の話を待っていた。
「祖父は軍人でありながら、ロシア革命に手を貸しました。日露戦争後の話ですがね。その日露戦争で、彼は何を思い知ったのか語りました。それが、人の心の本当に宿るところは眼にあるというものでした」
「眼で人を判断するのは東洋人に多いそうですね。あれから何を読み取るのでしょう」
ヘンドリックは私から視線を外すと、先程とは打って変わって静かになった水面を見つめる。「祖父は日本兵を見て、その眼になにより引き付けられたそうです。彼らも勿論戦う意思があったが、それは眼に宿っていたと、眼にその命を映していたと」
戦争に行ったのは私ではないから、もちろんの事、完全なる理解は出来ない。だが、世界を映すレンズに自分の内面を投影して見せてくる。それが狂気的であることは、ヘンドリックのような人ならざる彼らを見て知っている。しっかりと見ていなければならないような、眼球の些細な動きやその表す色、それらが一体となって私の眼に飛び込んでくるのだ。あれほど直接的に脳へと届く信号は、直接放たれることばを除けばないのではなかろうか。
「外と交流を切り続けながら、短い時間で列強と肩を並べた。まるであなたみたいですね。短時間で彼らの何たるかを理解し、確実に痛いところを突いてみせる。そう考えると、眼ってなかなかに良い機関なのかもしれません。相手の海底を知るという面においてはね」
ヘンドリックと同じように、川の方へ視線を送ると、水紋が広がってきたのが見える。その先からゴンドラを漕ぐ人間と楽しそうに談笑する観光客が私たちを一瞬だけ見た。彼らから見た私たちは人間なのだろうか。それだけは、どれほど長い時間を眼を見ることに費やしても、分からない。眼をみても全てを理解できないのは前提として、私が西洋の人間だったからなのか、もっと他に理由でもあるのか。私たちの前を通り過ぎ、川のはるか先を進んでいくゴンドラの残滓の前に、私はため息をつくことしか出来なかった。しばらくして、アトラ達が、アイスを持って戻って来たので私はそれを受け取って、ひとまず彼らの話に集中することにした。大抵は私の生まれるずっと前の話なのだろう、彼らにとっての最近の話でずっと盛り上がっていた。本当に生きてきた時間が違うというのは分かるが、別に寂しさはない。寧ろ一人で思考できるだけ楽だ。彼等は何を考えているのか読みにくく、どうにも疲れる。だが悪気はないものと考えればむげにしてしまうのは申し訳ないし、人ならぬものとして外に放り出されるのはなかなかにきつい。
「んでー、アンドレイはどう思う?」
不意に、アトラが私の顔を覗き込んで話しかけてくる。いきなり何と答えればいいのか分からずにえっととしか言えない私にシンがアイスを食べながら
「今話してる、誰が一番信用できるか。良かったらアンドレイの意見も聞かせてくれ」
そう、今話している内容の説明をする。
「信用出来るのか……」
私はアトラとシン、そして一番離れたところに座るアレクシアを見る。その後、僕はどうですかねと尋ねるヘンドリックを横目に見て、最初から信用できる人なんて分かりきっているのでその人物を指さす。その人物はえっとつぶやき
「私か……馬鹿なものだな」
それだけ言ってそっぽ向いてしまった。そんな彼女をアトラがからかっていると、シンは私に尋ね
「なんか理由とかってあるの? ほら、なんか二人とも喧嘩してたから意外でさ」
「理由なんか簡単ですよ。あなたがたみたいに余計な程喋らない」
えーひどいよと突っかかってくるアトラを無視して、私はシンの方を見てみる。どうして彼の反応が気になったのかは分からないが、彼は落胆する様子もなく、いつものように人の良い笑みを浮かべているだけであった。その様子を見て、私が彼を信用しなかった理由はそこにあるのではとも思えた。あれは常に笑っているんだ。私がどんな対応をしても、どんな風に言われても平然として笑っている。それも無理にではなく、ごく自然に。それに違和感を感じる、いや気味が悪い。今だって私の視線に気づいて、笑いかけている。
「ねーアンドレイ、私は凄い優しいと思うんだ。なのにどうして信じてないのー!!」
「あなたを信用してないとは一言も言っていないでしょう。ただ一番ではないだけで」
私に近寄って、しつこく聞いてくるアトラを軽くあしらっておく。どうせ本心ではなく、私をからかっているだけなのだから。そんなふうに話している私たちを見て、ヘンドリックが笑った声がした。皆の視線は彼へ集まる。そして彼もまた私たちの方を見ると、
「新入りの様子を見に来たら、すっかり馴染んでいるみたいで安心しましたよ。でもね、僕は彼はこちら側に向いてると思いますよ」
その言葉で、一気に皆の空気が重くなる。こちら側、という言葉の意味はわからないが、とりあえずはヘンドリックに怪訝そうな顔をしてやる。しかし、彼は表情を崩すような真似はせず
「だって、死に方なんて見つけて何になるんですか? そんな事する暇あるなら、僕らみたいに毎日何もせずに彷徨いませんか? なかなかに悪いものじゃあないですよ」
それに対して、アレクシアが反論し
「呪われた連中の集まりなんかに彼を引き入れる気はない。そもそも、カインのやつが私たちに反抗した結果がこれだ。我々は根本からは分かり合えん。諦めろ」
「皆が皆呪われていたわけではないのはご存知でしょう」
ヘンドリックがそう返すと、アトラが話し出し「そっちも仲間増やしたいのは分かるけど、アンドレイは私のベストフレンドだからなー、それにあんまカインと接触させたくないし」
誰がベストフレンドだ、と私がアトラに言うと、ヘンドリックは
「アンドレイもあなた方を信用していない。それならこちらに来ても良いのではないか、というのが僕の意見だ」
そう言ってみせた。皆が当たり前のように私を置いていく。まるで誰かの所有物のようだ。元々何かに所有される感覚に酷い不快感を覚えたりはしない。私は生まれた時から国家のものとして生きていくつもりだったのだから。だが、今はそういう時代ではないらしい。
「はーい、俺からの意見だけど、今は個人の主張とか大事だし、アンドレイがどうしたいのかってのも大事なんじゃないかって思うよ。もう俺らが新入りをどうするのか決められる時代は終わったんだと思う」
シンが話すと、両者は落ち着いたのか、何も言わずに私を見てくる。毎回思うが、彼はどれほど発言権をこの小さな集団の中に持っているのだろうか。単なる年長者以外にも、その理由がありそうにも感じる。でも今は、彼らの無言の問いに答える方が先だろう。
「……私は、そうだな、セレンの仲間である彼らを信用したいと思う。一応は助けて貰った身だ。借りだってまともに返せていない。だから、信用するのはまだ時間がかかりそうだが、こちら側に居させてくれ」
私がそう言うと、ヘンドリックは笑っていた。それも、どこか悲しげで、嬉しそうで、そして何かを諦めてしまったかのように。
「そうですか。あなたに振られてしまっては、何も出来まい。良いと思いますよ。僕らは分かり合えないですが、良い人達ですから」
ヘンドリックがそう言うので、私は改めて仲間達の方を見てみる。嬉しそうに手を振ってくるアトラに、いつものように笑っているシン、そして私と眼を合わせはしないが、口元を緩めているアレクシアが、傾きつつある太陽に照らされてか、この瞬間はとても美しいものに見えた。
それから、私たちはアイスを食べながら、どうでもいい話をし続けて、夜の暗闇が、太陽の光をかき消す時間となった。その代わり、人の作った光が、夜の闇を照らしているのだが。「……そろそろ出航します。目的は全て果たせましたし、日付が変わる前に出航しないと、体中が痛んでしまう」
ヘンドリックが、不意に立ち上がってそう言う。それを聞いたアトラははーいと返事した後、何故か私に見送るように指示をしてきた。理由を聞いてもお決まりであるが、適当にはぐらかすだけだったので何も言わないことにして、ヘンドリックが船を泊めた場所へとついていくことにした。
「知っていますか? アトラって案外良い人なんですよ。こうして君に僕を見送らせるのも、僕に彼らの前では出来ない話をさせる為なんだから」
私の前を何も言わずに歩いていたヘンドリックが不意に、体ごと私の方へと向けて、話しだす。白い光の街頭に照らされた、死人のような色の顔は不思議と不気味に思えた。
「一つだけ聞かせてください、僕が一番最初にあの人達の中でまともだなって思えたのはシンなんです。あなたは彼のことどう思いますか?」
「悪い人ではないと思うが……いつも、同じような顔をして私たちを見ている。その様子は、気に入らない」
ヘンドリックはうんうんと頷くと
「それが正しい判断と思いますよ。彼はあなたの事も愛していますからね」
「意味が分からない、もう少し分かりやすく言っていただけないか?」
「比喩の効かない方なのですね」
私は頷く。昔から湾曲した言い回しをされると上手く理解できなかった。
「良いですよ。彼は人類全てを愛しているんです。元々は人類だった我々の事も。しかしそれは庇護対象へ向けるものであって、恋人などに向けるような対等な立場での愛じゃあないんですよね。ここまでは、分かります?」
何となくだが、彼は私たちのことを同じ存在と認識しておらず、寧ろ下に見ているのが分かった。それならば、我々下の者に何を言われても笑みを崩さないのにも納得できる。
「それに、彼には人間だった頃の記憶は一切ない。話によると、記憶を失って目覚めた頃にはあの身体だったとか。つまり僕たちと違い、彼は生まれながらの人外というわけです。人間とは分かり合えない」
ああ、私はそう声に出した。人間の模倣は誰よりも上手い。だが、本物の人間には永遠になれない。アトラでさえ、たまに人間らしさを見せてくるあたり、それは分かりきった事実だ。
「ともかく、あの方には気をつけて。取り込まれれば永遠に利用されてしまう」
「具体的に頼めますか?」
「ええ。こういうの通じないお方でしたもんね」
ヘンドリックは一呼吸置いて
「庇護対象として可愛がられて、彼の言葉が絶対になりたくないのなら、彼の言うことを全て疑ってみて下さい。でも人の感情変化に敏感な方なので気をつけて」
そこまでを話すと、ヘンドリックは私に深々と礼をすると、人目につかないところに泊められていた幽霊船に乗り込む。月光に照らされながら手を振る彼に、私も手をふり返した。
ヘンドリックに別れを告げ、家へと戻る為に来た道を引き返していると、談笑していたベンチのところで仲間の三人が待っていた。
「もう暗いのですから、帰っていれば良いものを」
すると、アトラがベンチから立ち上がり、私の前へ来ると
「嫌だよ、仲間を置いてったりしたくない」
いきなりだなと思っていると、シンとアレクシアも立ち上がり
「実の所、このままヘンドリックに着いていくなら仕方ないと思っていた。私たちはお前に優しくなどないからな」
アレクシアは私へ少しだけ歯を見せて笑う。素直に喜んでいるのだろうか。
「それでもさ、こうして戻ってきてくれたんだ。待ってた甲斐があったよ」
シンもそう言ってくれるが、あんな話を聞いた後だとあまり信じる気は起きない。それでも悪意がないのだからと頷いておく。アトラが、何となく帰ろうかと言う気がした。本来ならそれに着いていくだけなのだが、今は何だか、彼らの不意を突いてやろうと思えた。
「じゃあ、帰ろう。遅くまでいれば職質を食らうかもしれないからな」
私はアトラの横を通り過ぎ、歩いていく。予想通り三人は驚いていたが、三人で顔を見合わせて頷くと、私の後へと続いた。
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