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初夏の風が上空の雲を緩やかに運び、冬とは違って早くから顔を出すようになった太陽が、今日も一日爽やかさをお届けすると言いたげに地上を照らし出した日の午前、市内でも病床数の多い私立病院の玄関ロビーへと向かう廊下をウーヴェが慎重に杖をついて歩き、その横ではくすんだ金髪をさっぱり短く切ったリオンが、荷物を両手に抱えつつウーヴェを見守るように歩いていた。
ゆっくりした足取りで駐車場に向かうウーヴェだが、自動ドアを潜って建物の外に出ると無意識に溜息を吐いて晴れ渡る初夏の空を見上げてしまう。
この病院のドアを潜ったのは三ヶ月以上前のウーヴェの心と同じく暗い朝だったが、今目の前に広がっているのは青空と穏やかに流れゆく雲、吹き抜ける風といった明るさを感じさせるものばかりだった。
それをこうして感じられるようになったことが嬉しくてもう一度深呼吸をしたウーヴェは、車を取ってくるからそこのベンチで待っていてくれと頬にキスをされて我に返り、うんと頷く。
「ダンケ」
「ちょっと待っててくれよなー」
お前の愛車は少し離れた場所に停めてある、すぐに取ってくるからともう一度ウーヴェの頬にキスをしたリオンは、荷物と一緒にそこのベンチに座っていろと再度伝え、己の言葉を忠実に守るように駆け足で駐車場に向かっていく。
程なくしてキャレラホワイトのスパイダーがやってくるが、それを見たウーヴェの目が感慨に細められ、リオンがトランクを開けて荷物を詰め込む様子をぼんやりと見つめていると、後はお前だけだ、早く乗れと苦笑されてしまう。
杖をついて己の為に開けられている助手席のドアを前に一瞬緊張を覚えるが、今まで難なく行えていた車に乗ってドアを閉める作業が酷く重労働になってしまった事を脳味噌ではなく身体で感じると、乗り込んだ拍子に溜息が出てしまう。
「……疲れたか?」
運転席に乗り込むリオンの問いに溜息で返事をしてしまったウーヴェだったが、ふと何かを思い出したのか、ティアドロップ型のサングラスを掛けたリオンの頬にキスをする。
「オーヴェ?」
「ダンケ、リーオ」
「どーいたしましてー。じゃあ今からボス達に挨拶をしに行こうかー」
今日の退院を前もって伝えた時、三ヶ月も前に刑事を辞めたにも関わらずにウーヴェの退院を我が事のように喜んでくれた元愉快な仲間達に挨拶をしに行こうとウーヴェの頬にキスを返してくるリオンに頷き、安全運転でお願いすると声を少しだけ弾ませる。
窓を少しだけ開けて風を感じつつ走る車の中、聞こえるのはエンジン音とリオンの浮かれている証拠の鼻歌だけだったが、それが心地よいのかウーヴェの口角が自然と上がり、リオンと同じく眩しさを軽減させるためのサングラスを掛けた目を閉じる。
「オーヴェ」
「何だ?」
「何でもねぇ」
「何だ、それは」
名を呼び返事をしそれに対する返事に呆れた声で返す。
今までならばごく当然に行っていたそれが三ヶ月前のあの事件を境に二人の中では意味を変えたようで、そんな些細な言葉遊びのようなものでも楽しくて嬉しくて仕方が無かった。
「……何かさ、付き合いだした頃みてぇだな」
「そう、だな」
付き合いだしたのはリオンがウーヴェに付き合ってくれと強請ったからなのだが、いざ付き合いだしてみればウーヴェには当たり前のことだった相手の名を呼ぶ行為がリオンにとっては限りなく羞恥を感じるものだったようで中々名前を呼んでもらえない事をウーヴェが不満に感じた結果、付き合って後悔しているのではないかと危うく別れを切り出しかねない事態にまで追い込まれたりもしていた。
そんな今振り返れば何を恥ずかしがっていたんだと思える事でも気恥ずかしく、初々しい二人だったよなぁとリオンが笑いウーヴェが小さく吹き出してしまう。
「なぁんで笑うんだよー」
「お前の言い方がおかしいからだろう?」
子どものように頬を膨らませるリオンにウーヴェが堪えきれないと笑いだすが、その手を伸ばして運転手を務めてくれる専属警備員の短くなった髪を撫でると不満ではなく鼻歌が流れ出す。
車は見慣れた光景に滑り込み、元職場の警察署に横付けするようにスパイダーを停めたリオンは、素早く運転席から降りたって助手席のドアを開けると当たり前の顔で手を差し出す。
だが中々その手を掴まれないために覗き込むと、一人で降りられると言いたいが不安を感じている顔でウーヴェが見上げてきたため、その額にキスをしてそっと名を呼ぶ。
「オーヴェ、大丈夫だ」
今日これから先ずっとこうして手を差し出すからお前は何も考えずにその身を預ければ良いとリオンが笑い、入院中に何度かレオポルドにも同じ事を言われたと思い出したウーヴェが一つ溜息を零した後、その手を掴んで車から一歩を踏み出す。
三ヶ月ぶりの病院外の空気、雰囲気はウーヴェを感慨深くさせると同時に萎縮させるものでもあったのか、気が重いと微苦笑するウーヴェの腕を取って己の腕に回させたリオンは、退院出来たのだからもっと喜べと片目を閉じ警察署のドアを開ける。
ウーヴェをまるでエスコートするように通い慣れていたロビーを通り階段をゆっくりゆっくり上ったリオンは、懐かしい刑事部屋のドアを見て笑みを浮かべて勢いよく開け放つ。
「ハロ、みんな。元気してたかー?」
いきなり入って来て聞こえてきた声が懐かしいものだった為に室内にいた刑事達がやかましいぞと以前と同様に怒鳴ってしまうが、ふと我に返ってドアを見、そこに満面の笑みを浮かべるリオンと申し訳なさそうな顔で目礼するウーヴェを発見し室内中が大騒ぎになってしまう。
「ドク、やっと退院出来たんだな!」
「お帰りなさい、ドク!」
皆それぞれが思い思いにウーヴェの退院を祝い、ありがとうと一人一人に礼を言ったウーヴェは、見舞いに何度も来てくれてありがとうとも礼を言い、ドアが開く音が聞こえたために顔を振り向けてリオンの袖を引っ張って注意を引く。
「どうした?」
「来たのならさっさと来いといつもいっているだろうが」
「へへ、久しぶりです、ボス」
「……今はもうお前のボスじゃないぞ」
ドアを開けたのはヒンケルで、その奥にコニーの姿も発見したリオンが照れたように笑いウーヴェを促して中に入ると、コニーが珍しいくらいの笑顔で二人を出迎えてウーヴェの退院を祝ってくれる。
「退院おめでとう、ドク!」
「ありがとう。コニーにも世話になった」
「気にしないで」
ウーヴェの為に椅子を用意し自分のためには回転する椅子を運んできたリオンは、ウーヴェが背筋を伸ばしたことに気付いて小首を傾げるが、礼を言うのが遅くなって申し訳ない、今回の事件では大変世話になったと頭を下げたためヒンケルやコニーと一緒になって驚いてしまう。
「オーヴェ?」
「リオン、お前もだ。みんながあの時精一杯やってくれたから俺は今ここにいられる。なのに、すぐに礼を言えなかった」
事件直後の己の様子を振り返ることは苦痛だがそれでも振り返った時に礼を言えなかったことが思い出されて悔やまれるともう一度頭を下げると、ヒンケルがデスクに手をつき半ば腰を浮かせて逆に頭を下げる。
「警部?」
「元とはいえ部下がしでかした事件に巻き込んでしまい申し訳なかった」
心から謝罪をすると本心からのその言葉にコニーも同じように頭を下げる前でウーヴェが小さく首を左右に振り謝罪は必要ないことを穏やかな声で伝えると、己の隣で表情を強張らせるリオンの腿に置かれた手に手を重ねて大丈夫と安心させるように告げる。
「警部、謝罪の代わりと言っては何ですが事件のことを教えて下さい」
「ああ。何でも聞いてくれ」
リオンの手に手を重ねたウーヴェだったが、合図を送って手をひっくり返させると今度は掌にそっと手を重ねて望んでいる事を伝え、その通りに手を組まれて安堵する。
「事件はジルがドクを逆恨みしたことと、ロスラーがフランクフルトに戻ったことを知ったルクレツィオが処分しようとしたことから始まった」
「そっか」
「ああ。ドクの救出前にイタリアで強制捜査をした時に逮捕した組織の人間から聴取したが、二人がその目的のためにドイツに入ったこと、ロスラーを処分してドクを誘拐、顧客への売却をすると報告されたそうだ」
事件の動機についてはロスラーの口封じとウーヴェに対する復讐と告げたヒンケルは、重苦しい空気が室内を満たしたことに気付くが、それでも話をしなければならないと腹を括る。
「地下室にあったビデオやラップトップを調べたがスイスに住んでいる男の連絡先が出てきた。BKAの調査から過去に何度もルクレツィオ達の組織から人を買っていたことが判明した」
「……スイスの客に送ると言っていた気がする」
「ああ。スイスでも割と名の通った実業家だった。……今回の件で司法取引が行われて収監は免れたが、家宅捜索時に家にいた複数人の男女を救出した」
もしドクの発見が遅れていれば写真で見せられたその男女の中にドクの姿もあったとヒンケルが苦々しく告げ、リオンが舌打ちをしつつウーヴェの手の甲を撫でるが、録画された動画や写真などは証拠品として警察に保管し、スイスに送られた分については消去させたと教えられてウーヴェの口から自然と溜息が零れてリオンの頭も上下する。
「ドクを、その……好きにしていたあの男だが」
「ああ、あの豚野郎?」
「……」
ヒンケルが言葉を選んで事件の共犯者-ある意味被害者-について口にしリオンがあっけらかんとした口調で豚野郎と罵ったためにウーヴェが一瞬いい顔をしなかったが、さすがに罵詈雑言に対する不満よりもリオンの明るい声に救われた気がして繋いだ手に少し力を込めてしまう。
「ヴィリ・ブロイと言って事件後すぐに薬物治療専門の病院に搬送したが、聴取できる状況ではなかった」
だから彼のパートナーに連絡を取って病院に来てもらい事件について知っている事を聞き出したが、ウーヴェが誘拐される二、三日前に突然顔馴染みだったルクレツィオから連絡があり、借金を全額払ってやる代わりに男を一人調教して欲しいと頼まれたから暫く家を留守にすることをメールで教えられたが、その頃には彼との関係は冷え切っていたこと、廃人同様の彼とはもう関係が無いとそのパートナーが言い放った事を教えられてウーヴェとリオンが顔を見合わせる。
「あいつ、ヴィリ・ブロイなんて名前だったのか」
「……」
数年前のクリスマスマーケットでウーヴェをナンパしたことから縁が繋がってしまった男がヴィリ・ブロイと言う名だった事に軽く驚くが、パートナーがもう無関係だと言ったことにも驚いてしまう。
付き合っていた恋人が事件を起こした結果見捨てられてしまう事は男女間のカップルでも珍しいことでも無かったが、やけにあっさりしているなとリオンが苦笑すると、ブロイもお前と同じようにヒモ暮らしをしていたとコニーがにやりと笑い、その真意に気付いたリオンもにやりと笑い返す。
「そっかー。ヒモだったら捨てられるかー」
もっとも俺は専属の警備員であり雇用主の心をがっちりと掴んでいるために捨てられないと胸を張って繋いだ手を軽く持ち上げると、その雇用主がじろりと睨む。
「で、ブロイは今はどうしてるんですか?」
リオンが一つ肩を竦めてヒンケルに問いかけると重苦しい溜息が零れた後、事件後間もなく多臓器不全で死去した、今は病院近くの墓地に埋葬されていると教えられて頷くと、その横でウーヴェがきつく目を閉じて肩を上下させる。
ウーヴェが誘拐された事件で生き残ったのが被害者であるウーヴェだけという異常な結末を再び迎えてしまった事に閉ざされた瞼が震えるが、リオンがその頭を抱き寄せて目尻に口付け、お前のせいじゃない、お前は何も悪くないと二つの誘拐事件でウーヴェが負った傷を思って囁きかける。
「リーオ……っ」
「お前は本当に何も悪くない。だからあいつらの死を自分のせいにするな」
自分と関わらなければ死ななかったのではないかなどと言う思いはもっと他の事件や事故で亡くなった人達に向けるべき言葉であり、今回と過去の誘拐事件の犯人達に向けるべき言葉じゃないとウーヴェの心だけを思ってリオンが静かに告げるとウーヴェの手がリオンの背中に回される。
それをヒンケルとコニーはただ見守っているが、見舞いに顔を出せば必ずリオンがウーヴェのベッドに潜り込んだり座り込んだりして手を繋いで安心させるようにキスをしていた姿を思い出してしまう。
こうして二人で身を寄せあい事件を乗り越えてきたのだろうとも気付き安堵に目元を緩めると、ウーヴェが落ち着いた事を示す様にリオンから少し離れ、みっともない姿を見せたと視線を泳がせる。
「専属の警備員に仕事をしてもらっただけだろう、ドク。気にするな」
「……」
ヒンケルの言葉にウーヴェが僅かに顔を赤らめ咳払いを一つしたあと、今回の事件の裁判などはと問いかけ、人身売買に関する裁判は主にイタリアで行われていること、ウーヴェの誘拐とフラウ・オルガへの殺人未遂については実行犯が全員死亡していることから被疑者死亡のまま送検になるだろうと教えられて頷き、組織に関する捜査権は自分たち一介のクリポにはないとコニーが肩を竦めるが、その顔はこれ以上事件について追及も捜査もしなくて済む安堵感がにじみ出ていた。
誘拐事件を起こしたのが元同僚でその被害者は同僚のパートナーだとなれば流石に屈強な刑事であっても思う事が多々あり、三ヶ月前に容疑者死亡という結末を迎え、書類上の送検を終えれば最早手放してしまいたい事件になっても当然だった。
だからそれを掘り起こすようにウーヴェが問いかけたことを詫びると、それについても詫びることでは無いとヒンケルが笑い、この後はどうするのかと話題を明るく建設的なものへと切り替えるように笑って頬杖をつくとすかさずリオンも明るい声で結婚しますと答える。
「……クリニックの再開はどうするんだ、ドク?」
リオンの言葉を盛大に無視をしてコニーがウーヴェを見ると暫く自宅でリハビリをするがその間に再開の準備をする事、リオンが言ったように結婚式を挙げて新婚旅行に行くので再開はまだ当分先になると伝えると、拗ねたように膨らんだ頬を指の背で撫でて気持ちを宥める。
「新婚旅行か。どこに行くんだ?」
ヒンケルが頷きコニーが身を乗り出す勢いで話題に食いついてきたため逆に二人はどこに行ったとリオンが問いかけると、ヒンケルは金もそんなに無かったから国内旅行だったと答え、コニーはヘラが行きたいと言ったからアフリカに行ったと答えた為に聞かされた二人とヒンケルが盛大に驚く。
「アフリカ!?」
「ニューヨークとかヨーロッパはモデルをしている時に良く行ったからもう行きたくない、アフリカか南アメリカが良いと言われてアフリカと答えたらサバンナだったと当時の騒動を思い出した様に汗を浮かべるコニーに様子を聞きたそうにリオンが身を乗り出すが、希望はどこなんだと逆に問われて即答する。
「海! プライベートビーチのある海!」
「……」
リオンと対照的にウーヴェの表情が曇ったのを見抜いたヒンケルがドクはそれで良いのかと問い、現在それについては検討中ですとだけ答えられて苦笑する。
「まだ日にちがあるのならもう少し考えれば良い」
「そうですね」
ヒンケルの言葉に苦笑で返したウーヴェが仕事の邪魔をするのも申し訳ないのでと断りを入れて立ち上がるが、すぐさまリオンが立ち上がってウーヴェの手を取る。
「リオン、大丈夫だ」
「うん、知ってる」
でも気になると肩を竦めるリオンに小さく溜息をついたウーヴェは、今日はこれから家族が退院祝いをしてくれるらしいのでゲートルートでランチを食べてくると笑うと、二人の顔に羨望が浮かび上がる。
「シェフによろしく言ってて欲しいな、ドク」
「ああ、伝えておく。また時間があれば食べに行ってやって欲しい」
「そうだな」
誘拐事件の時、ウーヴェが監禁されている時の写真を送りつけられて蒼白な顔で駆け込んできたベルトランの顔を脳裏に浮かべつつヒンケルが良い友達を持ったと頷くとウーヴェも素直に頷き、本当にと同意する。
「じゃあそろそろ帰ります」
「ああ。気をつけてくれ。リオン、時々は顔を出せ」
「分かりました」
ヒンケルの言葉に素直に頷きながらまた顔を出すことと仕事を頑張ってくれと告げてウーヴェに身を寄せて歩くリオンを見送ったヒンケルとコニーは、以前はただただウーヴェ大好きとうるさかったが、事件を乗り越えた今、そのうるささがなりを潜めて本当にウーヴェを思う気持ちへと変貌した事に気付くと、人間変われば変わるものだと顔を見合わせて笑い合うのだった。