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餅千 @ 別 后 。
夜の空気はライブの熱気とは違ってひんやりしていた。幕張メッセの外に出た頃には、人通りもかなり少なくなっていて、遠くの街灯が静かに光っているだけだった。らんとこさめは並んで歩きながら、少し照れたような沈黙を共有していた。手はさっきから繋がれたままで、離すタイミングが分からないまま自然と歩き続けている。
「……らんくん」
「うん?」
「今日さ」
「こさめ、人生で一番心臓バクバクしてるかも」
こさめはそう言って小さく笑った。らんはその横顔を見て、胸の奥がまた少しだけ熱くなる。
二人は駅に向かって歩いていた。夜も遅いし、さすがに人は少ないだろうと思っていた。けれど改札の前の電光掲示板を見た瞬間、二人は同時に固まった。
終電は、とっくに終わっていた。
「……あ」
「……あ」
二人の声が同時に重なる。
しばらく沈黙が続く。駅の中は静かで、少しだけ気まずい空気が流れた。
「……どうする?」
らんが小さく呟く。
こさめは少し考えたあと、ふっと笑った。
「ねえ、らんくん」
「うん?」
「こさめのお家おいで?」
らんは一瞬固まる。
「え」
こさめは楽しそうに笑う。
「このまま外で朝までいる?」
「それともホテル?」
「それならこさめの家の方が安心じゃない?」
らんは顔を少し赤くしながら視線を逸らす。
「……迷惑じゃない?」
こさめは首を傾げる。
「恋人を家に呼んで迷惑ってなに?」
その言葉に、らんの顔がさらに赤くなる。
「……じゃあ、お邪魔します」
「うん!」
こさめは嬉しそうに笑った。
それから二人はタクシーに乗り、夜の街を走った。窓の外の景色が流れていく中、らんの心臓はずっと落ち着かなかった。隣に座っているこさめが、さっきから時々ちらちらとこっちを見ては小さく笑うから余計に落ち着かない。
やがてタクシーは静かな住宅街で止まった。
「着いたよ」
こさめが先に降りる。らんも続いて車を降りた。夜の住宅街はとても静かで、遠くで虫の声が少し聞こえる。
こさめは家の前で鍵を取り出した。
その時、らんの視線がふと玄関の横に向く。
そこには小さな表札があった。
天野。
その文字を見た瞬間、らんの心臓がドクンと鳴る。
(……あ)
こさめの苗字。
配信でも、活動でも、誰も本名なんて知らない。
見てはいけないものを見てしまったような感覚が胸に広がる。
らんはとっさに口を開いた。
「ご、ごめん!」
こさめは鍵を開けながら振り返る。
「ん?」
「……苗字、見えた」
少し気まずそうに言うと、こさめは数秒だけらんを見た。
そして何も言わず、ドアを開けた。
「どうぞ」
らんは少し戸惑いながら中へ入る。家の中は暖かくて、どこか甘い匂いがした。
リビングへ案内され、ソファーの前まで連れて行かれる。
「座っていいよ」
「……うん」
らんはそっと腰を下ろした。
すとん、とソファーに体が沈む。
そのすぐ隣に、こさめも座った。距離が思ったより近くて、らんの心臓がまた大きく鳴る。
こさめは少し横かららんの顔を覗き込むようにして笑った。
「苗字、見ちゃった?」
らんは少し黙ってから、正直に頷いた。
「……うん」
こさめはくすっと笑う。
「天野、ね」
「バレちゃった」
そしてふと、こさめはらんの手を掴んだ。
そのまま指を絡める。
恋人繋ぎだった。
らんの体が少しだけ跳ねる。
こさめはそのまま手を握りながら聞いた。
「ねえ、らんくん」
「らんくんの苗字なに?」
突然の質問に、らんは少し考える間もなく答えてしまった。
「百瀬、」
言った瞬間、はっとする。
(やば)
けれど、こさめは驚く様子もなく、ただ少し笑った。
「そっか」
「百瀬らんくん」
その呼び方が妙にくすぐったい。
そしてこさめは、少しだけ悪戯っぽく言った。
「でもさ」
「もう百瀬って継げないね」
らんは一瞬理解できなかった。
「……え?」
こさめはにこっと笑う。
「だって」
「らんくんの苗字」
「今日から天野になるもんね」
らんの思考が一瞬止まる。
数秒かけて、ようやく意味が頭に入ってきた。
(……え?)
(え??)
ぼんっと顔が赤くなる。
「な、なにそれ…!」
こさめは楽しそうに笑う。
「プロポーズ」
「さっきしたでしょ?」
らんは完全に言葉を失う。
こさめは少し身を寄せた。
二人の距離が一気に近くなる。
「ねえ、らんくん」
「顔真っ赤」
そう言って、こさめはそっとらんの顎に指をかけた。
らんの呼吸が浅くなる。
次の瞬間。
ちゅ、
軽い音がした。
こさめの唇が、らんの唇に触れていた。
ほんの一瞬のキス。
離れたあとも、らんは固まったままだった。
こさめはくすっと笑う。
「これで契約成立ね」
らんの顔は、しばらく真っ赤なままだった。
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