テラーノベル
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ゆらゆらと、ゆらゆらと、尾がひらめく。
静謐な水面に波紋が広がってゆく。波は縁まで辿り着き、淡く弾けて岸辺の草花にキラキラ光る滴を残した。
木漏れ日を受けて、水面が輝く。
千鉱が好きなものだ。
触れれば波は大きく乱れてしまうけれど、ついつい底から手を伸ばしてしまう。
ざばりと音を立てて顔を出すと、跳ねた水滴が舞って、光を受けてキラキラと輝いた。
「チヒロ君」
声がした方に向き変えると、穏やかな笑顔と振られた手。
「柴さん」
「元気そうやな」
柴の佇む岸の水際まで寄ると、手を差し出された。
「ほい」
「ありがとうございます」
素直に好意に甘えてその手を掴むと、勢いをつけて引き上げられた。水飛沫を上げて宙に浮いた体を、反対の手で抱き留められる。
「おっと」
「す、すみません……重たいし、濡れちゃいますよね」
「そんなことないで。逆に軽すぎて、心配になるくらいや。それに、ほら、ちゃんとバスタオルも用意してきたし」
そう言って少し体を離される。見れば確かに、いつの間に出したのか、千鉱の体は大きめのバスタオルで包まれていた。
「ほら、着る物も持ってきたで」
「ありがとうございます」
未だ覚束ない体を柴に支えられ、ゆっくりと腰を下ろす。渡された着物に袖を通していると、こちらをジッと見つめる視線に気づいた。
「どうかしましたか?」
「……いや、もう今更やし、しつこいかもしれんけど……やっぱり、行くんか?」
濁してはいるが、納得していない様子を滲ませて訊ねる柴に、千鉱はこくりと頷く。
「はい。もう、決めたことですし」
「そうねんけど……」
「大丈夫ですよ、無理はしませんから」
そう言えば、不精不精といった風ながらも、「うん」と返し、柴は深く息を吸って吐き出した。
「もう四の五の言ってもしゃーないし、俺も覚悟決めるわ……ほんで、今日はどうするつもりなん?」
「そうですね……」
帯を巻くため、立ち上がりながら考える。ふらりと、少し体が傾いてしまったところを柴が支えた。
「すみません」
「ええって、ええって。手伝うわ」
柴が帯を手に取り、千鉱の腰に回してギュッと締める。思わず息を詰めると、柴が「大丈夫?強かったか?」とすかさず訊いてくる。
「大丈夫です。ただ、やっぱり着るというのが、まだ慣れなくて」
千鉱が人型を取るようになって手こずったことは、体の動かし方の次に、服を着て過ごすということだった。人の肌というものは柔く、また温度の変化に弱いため、必要なことであるのは理解出来るが、やはり体を覆って締め付ける感覚には未だ馴染めていなかった。
「チヒロ君の本性には、鱗があるもんなあ。基本、水の中やし」
衣服には違和感が強いか、と柴は笑う。
「柴さんは、変な感じとかしないんですか?」
「俺?俺はわりと昔から着物着てたからなぁ。人里に下りることも、まあまああったし。慣れると結構楽しいで、着回し考えるのとか」
そんな風に話しているうちに身支度が終わった。柴が千鉱の周りをくるりと回って眺めやると、うんうん頷く。
「変じゃないですか?」
「だいじょーぶ!柴さんが太鼓判押したる!」
完璧!と親指を突き出してくる柴に、くすりと笑みが零れた。
「やっと笑ったな」
目を細めて言う柴の言葉に、口元に手をやる。
「……なあ、チヒロ君、これだけは約束して欲しいんや」
視線を上げると、柴が改まった表情で言った。
「必ず、ここへ帰ってくること。そのためにも、絶対に無理はせず、何かあったら柴さんを呼ぶこと」
必ずや、と繰り返す柴の言葉に、千鉱は目を閉じ、そして開く。
「わかりました」
「……」
ジッと見据えてくる柴の眼を見返し、待つと、柴はまた溜息を吐いて、諦めたように眉を下げて微笑んだ。
「約束やからな」
釘を刺されずとも、ここに戻ってくるつもりはあった。そうでなくては、意味がないから。
――必ずここに、奪われた父の遺品を取り戻すために。
父、六平国重は刀匠だった。
正確に言うと、血の繋がった父親というわけではない。千鉱の住む泉に迷いこんだ国重が、千鉱を見つけたのが出会いだった。そして勝手に自分が父になると宣言し、足繫く泉に通ってくるようになり、絆された千鉱が折れて、認知?を受け入れたという経緯だ。言葉にしてみると、大分変な経緯だ。
千鉱というのも、国重が名付けた。
まだ意思をもってから年月が浅く、泉の中の生物や、泉の水を飲みにやってくる野生の動物くらいとしか接してこなかった千鉱には、個の名はなく、また必要ともしていなかったから。
千鉱の本性は、金魚と呼ばれるものに近い姿をしている。大きさは鯉程もあるけれど、赤眼に黒い鱗の体に、長い尾鰭がある。
初めて国重と出会った時、国重は千鉱をしげしげと眺め、『美味そうだな』と言った。驚いた千鉱が逃げようとすると、国重は慌てた様子で手を伸ばしてきたため、『触るな』と強く発した。国重にも伝わったようで、伸ばした手が止まった。これ幸いと今度こそ泉の底に逃げこもうとすると、また慌てた様子で国重は、『待ってくれ』と叫んだ。
『何もしないから』と懇願する言葉に、少し躊躇い、しぶしぶ身を返すと、国重は瞬き、心底嬉しそうに笑って言った。
『お前、俺の言葉が分かるんだな』
それからは毎日のように国重は泉を訪れた。千鉱がまだ名前ももたず、生まれて間もないということを知ると、『じゃあ、俺がお前の父親になってやる』と宣言し出し、『お前は千鉱だ!』と勝手に名前を付けた。
国重が泉に迷い込んだのは、刀匠である国重が刀に使うための材料を求めてのことだった。そして千鉱が逃げようとした際に必死で止めたのは、千鉱の姿を見て、頭を貫くものがあったからだという。
『刀は戦で使うものだが、その佇まいには美があり、だからこそ俺達刀匠は、切れ味と共にその美しさを追求せずにはいられない。お前が泉を悠々と泳ぐ様にな、靄のかかっていた頭がぶち抜かれて、漸く求めていたものを見つけられたような心地がしたんだ』
だから、いつかお前を思わせるような、優美で美しい刀を作ってみたい。そう言って、国重が笑う顔を、千鉱はよく覚えている。どれほどの月日が過ぎ去ったとしても、鮮明に、昨日のことのように思い出せる。
最後の日、国重は1本の刀を携えて現れた。
血に塗れた姿で。
『千鉱……どうか、これだけは、お前に……お前の、淵に……』
そう言い残して、国重は泉の畔の木に凭れ掛かったまま、動かなくなった。いくら話しかけても、もう二度と笑うことも、言葉を紡ぐこともなかった。
だから千鉱は、その最後の言葉通りに、その刀を受け取れるように、初めてそこで人型を取ることを覚えた。そして、水底でも刀が錆びることのないよう、刀に加護を与えた。
刀の銘には、“淵天”と刻まれていた。
千鉱は水神である。
神としてはまだ若く、国重と出会った頃は、幼いといっても良いくらいであった。だからその頃はまだ人々にその存在を認識されておらず、信仰を向けてくる者も、野生の生き物くらいだった。それから年月が過ぎると、国重のように偶然泉に迷い込んだ者から、『美しくも不思議な主のいる泉』として周辺の村に知られるようになった。
水神様、と人々からひっそり信仰を集めるようになり、小さいながら祠も作られた。
国重から受け取った刀――淵天は、祠のなかった当初は泉の水底に置いていたが、祠が出来てからは、時折そこに立て掛け、日光浴をさせた。基本的には自身の住処である泉の水底が定位置であることに変わりはなかったが、本来刀というものは陸の上にあるものだと、遊びに来た柴から聞いたので、たまには陸に上げて、日の光を浴びせてやった方が良いのではないかと考えてのことだった。偶然それを見かけてしまった村人達の間では、『泉の祠に、時折御神刀が現れる』などと噂になったらしいが。
その日も、祠に淵天を立て掛けていた。別に、不用心にも放置していたわけではない。
泉、そして祠の周辺は千鉱の縄張り、領域となっていたから、何かあればすぐに感知し、対処することが出来るはずだったのだ。
妨害さえ受けなければ。
その日、千鉱はいつものように淵天を天日干しにし、泉に戻り泳いでいた。そこに突然、蔓のようなものが異様な速度で泉まで伸びてきたかと思うと、千鉱の体に巻き付こうとした。
千鉱は金魚のような姿を本性とする水神である。つまり、水を司る。水生木。水は木に与える側で、木は水によって養われる側である。龍ほどに大きいのであれば些末事であっただろうが、千鉱にとっては、水の中の動植物ならいざ知らず、陸の植物は少し相性が悪かった。
何とか逃れ、祠の方を顧みると、そこにはもう、淵天の姿はなかった。
あの日からずっと、千鉱は国重の忘れ形見――淵天を探している。
刀匠、六平国重の名は広く知られている。
彼が作った刀は強く、しなやかで美しく、刀としての切れ味の凄まじさは無論、美術品としての評価も高かった。そして、それを実際に目にした者はこう語る。
『彼の刀には、化け物が宿っている』と。
流れるような波紋に指を滑らせる。ゆっくりと、その質感を確認する。指を這わせ、愛でるように。
“それ”を撫でる様は酷く優しく、どこか艶めかしい。まるでそれは、例えるなら。
「情事でもしているみたい」
揶揄うような声に、男が顔を上げる。
「昼彦」
「飽きないね、幽も」
「ああ、飽きないな」
それどころか、男は飢えて飢えて仕方がなかった。その刀を眺めれば眺める程、その渇きは強まっていく。
狂おしいくらいに。
「見つかったよ」
“赤眼の金魚”。
昼彦の言葉に、幽は両眼を細め、刀を鞘に納めた。そして立ち上がると、昼彦が開け放ったままにしていた戸をくぐる。
「君が行くの?」
「ああ」
そうでなくては、意味がないから。
「薊が言うには、この辺であの刀の気配を感じた奴がいたって話や」
本来は分かれて情報を当たる予定だったが、人里に慣れず人型を取ることも未だ覚束ない千鉱が心配だからと、結局共に来た柴に案内されて、山を下り町に出た。普段はほとんど泉から離れず、人と関わることも村人くらいであった千鉱には、そこは未知の世界で、人々の喧騒に気圧された。
「柴さんは、凄いですね」
こんなに人間がいる空間なんて、想像したこともなかった。
「なんや、チヒロ君、人酔いしたんか?」
「いえ……でも、びっくりして」
そう素直に言うと、柴は笑って千鉱の頭を撫でる。
「何でも慣れや。その内、チヒロ君も馴染んでくるから」
(そうだろうか)
水辺でもなく人里に自分がいるということ自体が違和感であるというのに、それに馴染みを覚え、平常心でいられる日が来ることなど、あるのだろうか。
「ほな、行こうか」
(でも、今はただ、淵天を探すだけだ)
再び歩き出した柴に遅れないよう、その背を追って足を動かす。
淵天には元々、不可思議な力が宿っていた。そこに千鉱の加護を与えたことで、それは更に強くなっている。
あの刀には、刀でありながら独特の気配がある。既知にも協力を得ながら、二人はそれを追っていた。
「あー……ここって確か、あいつらの縄張りやん……」
髪を掻き混ぜながら、何事か悩むように柴が呟く。
「チヒロ君、悪いんやけど、暫くここで待っとってくれるか?」
「どうかしたんですか?」
「ちょっと、厄介な場所があってな。とりあえず先に俺が話付けに行くから、それまで待っとって欲しい」
そう言うと、「すぐ戻るから」と手を挙げて、柴は身を翻し、姿を消した。恐らく術を用いて、相手のところにまで“跳んだ”のだろう。
路地で一人きりになった千鉱は、傍の平屋の壁に凭れ掛かり、息を吐いた。
(疲れた……)
柴の前では心配させないよう虚勢を張っていたが、慣れないことの積み重ねは、千鉱の心身を着実に疲弊させた。
(でも、こんなことくらいで弱音を吐いていちゃダメだ。まだ、淵天が誰に盗まれたのかも分かっていないのに)
深呼吸をし、身を起こそうとする。
その時だった。
身を預けていた壁から唐突に、樹木の枝のようなものが生えた。
「っ!」
まるであの時、自分を追いかけてきた蔓みたいなもののように。それは以前より数も多く、一斉に生え出し、凄まじい勢いで千鉱の体に巻き付いてゆく。
「っ、し」
「駄目だな、こんな時に」
柴を呼ぼうとした口を覆い塞がれる。覆う手は、いつの間に現れたのか、目の前に立つ見知らぬ男のもので。
「他の者の名を呼ぶなんて」
反対の手の指を1本立てて口元にやり、『しぃ』と唇を動かし。
男は、三日月のように笑った。
「……チヒロ君?」
柴が戻ると、そこには何も残っていなかった。
コポリと、泡が零れ、水に浮かぶ音がする。
体の周りを満たす、慣れ親しんだもののような、しかし異なるものの感覚に、千鉱は目を覚ました。
『……なに、これ……』
そして己の置かれた状況を知り、絶句する。
樹木のようなものに呑み込まれるように体を拘束され、意識を失くしたところまでは覚えている。
そして意識を取り戻した今、千鉱は水の中にいた。
正確にいうと、それが水なのかは分からない。透明な液体で出来た、球体のようなものの中に千鉱はいた。体はいつの間にか、本性に戻っていた。そして千鉱が入れられた球体の周りを覆うように、千鉱を襲った、枝のような蔓のような不思議な植物のようなものが巻き付いている。
「目が覚めたか」
声のした方を見ると、そこには千鉱が襲われた際に口を封じた男がいた。
『あんた、誰だ……何をした』
「お前が気を失い、本来の姿に戻ってしまったからな。水の中に入れてやっただけだ」
金魚の姿では、乾くと大変だろう、と男は嘯く。
『ここから出せ』
「お前は、これを探していたのではないのか?」
そう言って男は、手に持っていたものを見せた。
『それ、は……!』
男の手の中にあるものに、千鉱は目を瞠った。
それは奪われ、ずっと探して続けてきた国重の形見の刀――淵天。
「ずっと探していたのだろう?俺も、探していた」
男が手を伸ばし、千鉱の入れられた球体に触れる。すると球体は弾けるように割れて、溢れる水と共に千鉱も宙へ身を投げ出された。
「っ!」
男がそれを掬い、濡れた身に唇を触れさせると、千鉱の全身が淡く光り、本性から人型へと転じる。
「なん、で……」
男によって千鉱と共に抱きかかえられている淵天は、鞘に納められた状態で蔓のようなものが巻き付き、封じられていた。
まるで、千鉱がそうであるように。
「ずっと、探していた」
男が、呆然とする千鉱の頬を撫でる。
「お前を、手に入れられる瞬間を」
そう言い、男は千鉱が言葉を返す前に、その唇に喰らいついた。
ゆらゆらと、ゆらゆらと、尾がひらめいていた。
静謐な水面に波紋が広がってゆく。波は縁まで辿り着き、淡く弾けて岸辺の草花にキラキラ光る滴を残した。
木漏れ日を受けて、水面が輝く。
その中で、それは一層美しく、優美に、艶やかにあった。
赤い眼に、美しく光を返し輝く漆黒の鱗。その一部には赤い線のように赤い鱗が散らばり、まるで血飛沫を受けたようで、妖しく、より目を奪われた。
赤眼の金魚。
それが人に転じた姿は、まだ幼さを残し、しかし赤眼に宿る光は強くしなやかに美しく、それにもまた加虐心と劣情を煽られた。
切っ掛けは、その村に伝わる泉の伝承だった。泉には水神が住み、その御神刀が時折姿を見せることがあると。
幽は刀匠六平国重の刀を収集する組織の長だった。その刀に宿る力を利用するために、組織は刀を集めていた。
その村の辺りは、六平国重が没前通いつめ、最期に住んでいた場所であるとも後世に伝わっていた。
そこに気紛れで視察に行き、そして幽は、その水神を目にした。
そして、魅入られたのだ。その赤に。
カチリと、その細い足首に足環を嵌める。
気をやって、そのまま眠ってしまった水神のもつ赤眼のような、深い赤地に、蔓のような細工がなされた足環を。
繋ぎとめる。
もう、淵にも戻れないように。
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