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所々に枯れ草が揺れる荒れ野に、一人の侍が呆然と立ち尽くしていた。
小塚原の刑場は、その場所に相応しく荒涼とした雰囲気を醸し出している。
雨が降れば、そこかしこに適当に埋められた罪人の屍(かばね)が顔を出すといわれるほど、忌むべき場所なのだ。
罪人の腑分けをする場所として、小塚原回向院の下屋敷があてがわれていたので、一旦は場所の下見をするつもりで屋敷に入ったが、私の他に、三人の蘭方医が裃(かみしも)の正装で控えていたので、作務衣では場違いだと考えて、刑場を見学しようと外に出てきた。
荒れ野に立つ侍は遠目からでも、その大柄な体躯から、養生所見廻り同心の樋口慎之介だと分かる。
打首は、牢屋敷見廻り同心が担当するものと思い込んでいた私にとって、その姿を見かけること自体が意外だった。
最初は、恐怖に震えて頼りなく見えた樋口だったが、時が経つにつれて段々と邪な気が立ちのぼり始めて、検視役の与力が出張り、罪人が引き立てられる頃には、樋口の毛穴という毛穴から雨が吹き出しているように見える。
「いかん」と呟いた私は、ゆっくりと樋口に向かって歩き始めた。
樋口に近づくにつれ、雨を溢れさせているのが樋口だけでなく、腰に差し落とした刀からも大量の雨が溢れていることに気付いた。
「厄介だな。雨を宿した者が、雨に取り憑かれた呪物まで所持しているとは…」
急いで樋口のもとに向かっていると、刑場人足が、「あんた何者だ。ここは立ち入ってはならねえ!」と咎めてきたが、「関係者です」と言ってやり過ごした。
案の定、刀に手を掛けた途端、樋口の雨は爆発するような勢いで放出される。
間に合わないと感じた私は、走りながら懐の雨(う)を抜き出し、着物の上から急いで樋口のうなじに差し込んだ。
「樋口さん、邪な気が身体中から溢れていますよ」
そう言うと、気を失った樋口の身体を支えながら、その場にうつ伏せで寝かせる。
そこで、刑場人足を呼ぶために顔を上げると、目の前に年嵩の同心が現れて行手を遮った。
「おぬしは何者だ」
私は、その言葉に素早く頭を下げてから、「私は、養生所の医師で白川涼雨と申します」と名乗りを上げる。
しかし、その同心は抜きがけの刀を鞘から走らせて刀を正眼に構えたのだ。
「そこをどけ。
こやつは、ワシを斬ろうとしたのだぞ」
私は同心に左手を突き出して、「お待ちください!」と言い置いてから、「樋口さんは病を得ており、正気ではありません」と釈明したが、いきり立った同心は白刃を左右に振りながら「そこをどけ。どかぬと貴様も切り捨てるぞ」と言い放ったのだ。
私も同心の勢いに押されて、言いたくもない言葉を口にする。
「良いのですか?
私を斬れば改易では済まされませんよ」
改易という言葉に一瞬躊躇いを見せた同心であったが、引くに引けぬという顔で私を睨み付けている。
そこに、「止めぬか!」という怒鳴り声と共に、養生所見廻り与力の三好次郎左衛門が現れたのだ。
慌てた同心が、「三好様…」と呟くのを強引に遮った三好が、「この方は白川王家の嫡男だ。斬れば切腹どころかお家断絶だぞ!」と言い放った。
しばらく、私と三好を交互に見ていた同心は諦めたよいに、「申し訳ありません」と言いながら刀を鞘に収める。
私は同心を無視して三好に声を掛けた。
「三好さん、直ぐに樋口さんを治療しなければなりません。
回向院の下屋敷まで運んでください」
頷いた三好は、刑場人足に戸板を運んで来るように指示した後に、遠巻きに様子を伺っていた、検視役の与力に事情の説明を始めた。