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工場の朝
工場の朝は、いつも同じ匂いがする。
更衣室にこもった汗の臭い。
どこでも燻る煙草の煙。
溶接の熱が、その空気に混じっている。
「今日も頑張ろう」なんて、
思ったことはない。
あぁ、今日も今日が始まったな。
ただ、それだけ。
機械の音に囲まれていると、
考えなくて済むことが増える。
リズムよく動くベルト。
決まった手順。
決まった時間。
でも考えなくていいことほど、
本当は考えなきゃいけないものだと、
分かっている。
定時で終わる日は、少ない。
でも、終わったとしても、
家には帰らない。
僕はそのまま、
アルバイト先へ向かう。
身体は、動く。
心は、置いてきたまま。
金は必要だった。
生きるための金。
そして、言い訳のための金。
子供のためだと、
口では言う。
でも本当は、
自分のためだった。
金は裏切らない。
働いた分だけ、 理由をくれる。
自尊心が保たれる。
「家族のため」
そう言えば、
自分が二本足で立っている気がした。
家に帰ると、
妻はもう眠っているか、
スマートフォンを見ている。
会話は、ある。
「お疲れさま」
「あぁ、お疲れさま。ありがとう」
それだけだ。
喧嘩はない。
怒鳴り合いもしない。
笑顔はそれなりにある。
でも、
触れなかった。
長いこと、
妻には触れていない。
触れられない理由を、
俺たちは確認しなかった。
確認しなくていい形にまで、
整えてしまった。
だから、
欲しかったのは女じゃない。
欲しかったのは、
自分がまだ
誰かに必要とされる感覚だった。
夜、シャワーを浴びたあと、
なんとなくスマートフォンを開く。
既婚者専用のマッチングアプリ。
広告は、やけに明るかった。
ーー自分のために生きてみる。
やけに、
その言葉が胸に残った。
軽い気持ちだった。
いや、
軽いふりをしていただけだ。
壊すつもりはなかった。
守る覚悟も、なかった。
ただ、
誰かに
「大和」と呼ばれたかった。
役割じゃない名前で。
夫でも、父でもない名前で。
それだけだった。