「ほら、言った通りだ。エーミ、来てる」グリュエーの問いには答えず、ノンネットはモディーハンナの首にしがみつきながら笑いかける。
「私も、魂の憑依とやらでちょっかいを出してくるだろうとは予想していましたよ」とモディーハンナが子供みたいに言い返す。
「分かってないなあ、モディーハンナは。ワタシはようく分かってるからな、ベルニージュのことは」
グリュエーもベルニージュも虚を突かれる。
「え? ワタシが何か関係ある?」とベルニージュが困惑しながら問う。
「何かって、きっとベルニージュならエーミから離れられないだろうなってな」とノンネットは当たり前のことのように言った。
グリュエーもベルニージュも一瞬お互いに目を合わせる。別に仲が悪いわけではないが、そのような予測をされるほどの関係だとも思っていない。
「ねえ、一体誰なの? 使い魔の誰か?」
グリュエーの問いかけにようやくノンネットは目を合わせて答える。「それが知りたければ大人しく救済機構に戻ってきなよ、エーミ」
グリュエーはベルニージュの影に隠れるように、その腕に縋りつく。
「リューデシア王女の記憶が曖昧なのもそういうことか」とベルニージュは冷静に努めて理解を進めようとする。「操作か、憑依か。いや、それよりも何でリューデシア王女を解放したの?」
「そこなの?」とグリュエーはベルニージュの袖を引いて疑問をぶつける。
「大事なことだよ。ノンネットを救うためにもね」
「残念だけど、ノンネットは救えない。折り目は負い目ってね」とノンネットは他人事のように言った。
「話してしまうんですか? 釣り餌にするものかと」とモディーハンナが聖女に問う。
「釣り餌になんてならないからな」とノンネットは冷笑するように言った。「他者のために僅かな可能性を信じて危険も度外視して飛び込めるような人間じゃないんだ、エーミは」
グリュエーが返す言葉を思いつかないでいるとベルニージュが問いかける。「どうして救えないっていうの? リューデシア王女は元通りだけど」
「もう分かってるだろ?」とノンネットはほくそ笑む。「あの加護はそれだけ強力だということだ。ワタシも随分助けられた。たとえ心臓を貫かれても、精神を上書きされても、生を取り戻してしまう。さしずめ母の抱擁に遠慮なしってところか」
「精神の上書き? それじゃあノンネットは――」
「ワタシを除去したところで廃人だ」ベルニージュの言葉を遮ってノンネットの形をした者は言った。「生ける屍ということだ」
ノンネットの言葉と同時に二人の背後で地面を叩く音がする。
使い魔鎮める者が、その憑代が樹上から落ちたのだった。剥がれた封印は風に乗ってグリュエーの手に収まる。
「へえ、思っていたより器用なこともできるんだな」とノンネットは意外そうに呟く。
「誰だか知らないけど、お前の言葉なんて信じない!」とグリュエーは怒鳴った。
しかしノンネットは意に介さず、「何より手続き無し! 魂の分割と憑依が意のままとは、やはり君は特別だな」と称賛した。
「見たことも聞いたこともない妖術です。巨人のそれに似てはいますが」とモディーハンナも感嘆する。
「だが巨人なんていくらでもいる。あ、いた、か。盛者の微睡、死の褥ってね。これはもっと希少だよ」ノンネットの昂奮は収まらない様子だ。
「この力が目的だったの?」とグリュエーは確認するように問いかける。「そうじゃないかとは思ってたけど」
しかしノンネットは少し首を傾げた。
「いや、別にそんな力はどうでもいい」
さっきまでの賞賛が嘘だったかのようにノンネットの昂奮は火に水をかけたように収まった。
グリュエーはますます分からなくなった。何故グリュエーを欲しているのか、聖女に選び、体を乗ったりたいのだとして、その理由は何なのか。肝心なことには答えてくれそうにない。
「まあ、君に言ったとしても分からないだろうけどな」そう言ってノンネットはモディーハンナの細い肩に座って頭をひじ掛け代わりにする。モディーハンナの方は重さをまるで感じていないようだった。「ユカリちゃんなら分かるかも。たぶん、おそらく、だけどね」
そしてノンネットはモディーハンナを踏み台にして、跳躍し、グリュエーに飛び掛かる。どういう魔法かグリュエーには分からないが、矢のように一直線に飛来した蹴りは華奢な体からは想像もできない重さだった。ベルニージュは脇腹に過ぎ去ったノンネットの速さに追いつけなかったのか、あるいはノンネットへの攻撃を躊躇ったのか、対応も反応もできなかった。
肩を蹴られたグリュエーは吹き飛ばされる。飛ばされ続ける。ノンネットは跳んだのではなく、飛んでいた。気が付けばグリュエーは腕を掴まれ、低空を飛んで連れ去られようとしている。
「このままシグニカに帰る? 産湯の温もりを覚えている者はいないって言うしな」
まるで落下するような速さで戦場から離れていく。グリュエーは暴れ、力づくでノンネットを引き剥がし、風を纏って宙に浮かぶ。ノンネットの方は停止できないようで、まるで引き合う連星のように一定の距離を保ってグリュエーを公転する。
「ノンネットがずっと練習していた魔法がそれ? 体を軽くしようとしていたよね」
「ああ、身体規定を気にしていたから快く学んでくれたよ」
「お前が使うために?」
「ただ使うだけじゃないぞ。飛び切り天才のワタシは魔法を反転することもできる」
ノンネットとグリュエーの距離が縮み、まるで体が封印になったかのようにぴたりとくっつく。グリュエーはもがいて離れようとしたが、もがくことすら出来なかった。二人は空中に浮かびながらゆっくりと回転している。
「そんなことよりあれを見なよ」とノンネットがグリュエーの頬に頬をぴたりとくっつけたまま言う。
遠くで激しい炎が吹きあがった。紅と蒼の炎が捻じれるようにして、天を突き破る槍の如き火柱を立てる。ベルニージュとモディーハンナだ。
「どっちが勝つと思う?」とノンネットに問われる。
その時ノンネットの重さが弱まり、グリュエーは押し退けながら言い返す。
「ベルニージュが、負ける訳ない!」
「そうだな。モディーハンナも優秀だが、ワタシの半分にも及ばない。つまり、あっちが決着する前にエーミを連れ去らないといけないってことだ」
ノンネットの嘲笑うような笑みから逃れるようにグリュエーを包み込む風が真下に吹き降りる。
「逃げの一手か。賢明だな。だけど――」
まだ何か言っているノンネットの声が遠ざかる。真下は葉が落ちて雪の積もった森だ。隠れるには覚束ない。
「ベルニージュの方に逃げよう」と風が提案する。「足手纏いになるかもしれないけど、でも――」
方向を変えようとしたグリュエーの背中に痛みが走り、声帯を圧し潰したような声が漏れ出た。踏みつけられ、森に落ちる。グリュエーの魂を分けた旋風はなんとかその主を受け止める。そうしなければ死んでいた。死体でも構わないのだろうか、と頭の隅で考える。
風の魂を回収し、雪に分け与える。凝縮した雪は雪像となって氷のように固くなり、追撃に落ちてきたノンネットを防ぐ。
「それは魔法少女か? なかなか良い造形じゃないか」
確かに雪像の服装や装飾は変身したユカリに似ている。ノンネットの指摘で初めて気づいた。グリュエー自身がそう指示した訳ではないが、分け与えられた魂もグリュエーだ。それがグリュエーにとっての守護者の姿なのかもしれない。
雪像は魔法少女の持っているような杖を形成し、ノンネットに殴りかかるが、易々とかわされる。
「でもそれだけだなあ。魂を分け与える妖術。それは確かに特別で、見たことも聞いたこともない。だからこそ、そこに何か意味があるのかと思ったが凡庸もいいところ」
「じゃあ何でグリュエーをつけ狙うの!?」
「大切なのは中身だよ。そして中身欲さば器からってね」
二人の間に立ちはだかった雪像は、しかし抵抗すらできずに空へと浮き上がっていく。代わりに再び風に魂を宿し、ノンネットを退けるべく吹き付けさせる。が、意にも介さないようにノンネットは一歩一歩歩みを進める。
「さて、もう間に合いそうにないな」ノンネットはグリュエーの所までたどり着くと、少し上背のある高みから見下ろし、その頭を撫でた。「いい子にしているんだよ。きっとまたすぐに迎えに来るからね」
その時、二人の間を高速で通り過ぎるものがあり、ノンネットは飛び退いた。飛来したのは巨大な銛で、木々を幾本も薙ぎ倒していった。
「漁る者。君を奪われたのは痛手だな」
グリュエーとノンネットの視線の先、やって来たのはベルニージュと、益荒男の胴体に羊の頭部、獅子の後肢を持つ怪物だ。鋼の肉体に舵輪を背負い、三本の虎の尾が鞭のように撓っている。いつの間にか元通りに手の裡に戻ってきた青銅の銛は雷を放っていた。
「本当に思ってるか?」漁る者という怪物がうんざりした様子で言った。「まあ、どうでもいいけどよ。あっちへ行ってもこっちへ行っても支配されるだけだぜ、オレたちは。忌々しいことに」
「さっきも言ったけど、ワタシはあんたたちを解放しようとしてるんだよ」とベルニージュが説明する。
「それも疑わしいぜ。そういう奴には見えねえけどなあ」
「まあ、それを願っているのはユカリだけど」とベルニージュは白状してしまう。
「良いけどよ。逃げてっちまうぜ。聖女さん」
「放っておいても良いよ。殺す訳にもいかないし」ベルニージュは飛んで逃げ去るノンネットからグリュエーに目を向ける。「元に戻す可能性、探すでしょ?」
グリュエーは頷く。しかし何も希望を抱いてはいなかった。
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