「嬉し涙だよな、それ」
わたしは頷き、そして彼の胸に飛び込んだ。
玲伊さんは、しゃくりあげ続けるわたしの髪を、優しく撫でてくれていた。
「落ち着いた?」
「うん」
彼はわたしの左手を取って、薬指に指輪をはめてくれた。
篝火に照らされたそれは、戸惑ってしまうほど、豪華で。
「ここに着いたときから、いつ言おうか、実はひそかにドキドキしてたんだよ」
わたしは鼻をすすりながら、答えた。
「どうして? わたしが断るはずないって知ってるのに」
「そんなこと、言ってみないとわからないじゃないか。お付き合いはいいけど、結婚は嫌、って言われることだってあるだろう」
「そんなはず、ないのに」
玲伊さんは照れたように、髪を掻き上げて言った。
「前にも言ったよね。男は本気の相手を前にすると、ものすごく臆病になるんだって」
でも、いつも余裕があって、わたしを手のひらで転がしてるような玲伊さんにも、そんなところがあるとは、まだ信じられない。
「もうわたし、玲伊さんと離れられないよ。それは玲伊さんもわかっているものだと思ってたけど」
「言葉にしないと本当に伝わったことにはならないよ」
「うん、そうだね……」
彼はわたしの肩に腕を回して、建物の方に歩みだした。
そして、わたしの髪に口づけを落として、言った。
「これからもそうだよ。なんでも言い合える夫婦になろう」
「うん」
玲伊さんの言葉の意味はきちんと伝わっていたけれど、わたしはそれよりも夫婦という言葉に敏感に反応して、にやけ顔になってしまった。
暗くてよかった。
さすがに、こんな締まりのない顔見せたら、また笑われてしまいそうだ。
こうして、一生忘れることのできない3日間のバカンスは、あっという間に過ぎていった。
東京に帰ってから、玲伊さんは休日のツケが回ってきたのか、前にも増して忙しく、なかなかゆっくり一緒に過ごせなかった。
その合間を縫って、結婚の意向を告げるため、玲伊さんのご両親を訪問した。
「うちの両親は話がわかるほうだから、安心していいよ」と玲伊さんは言ってくれたけれど、なにしろ、はじめてお会いするのだから、とても緊張した。
右手と右足が一緒に出てるよ、と玲伊さんに指摘されるほど。
でも、彼の言うとおりだった。
お二人はとても温かくわたしを迎えてくれた。
「美容師を目指した時点で、玲伊はうちから完全に独立したと思っているから、わたしたちになんの遠慮もいりませんよ」と玲伊さんの父、香坂昭伸氏は穏やかな様子で告げた。
物腰も話しかたも、とても柔らかいけれど、さすが大企業を率いている方だけあって、黙って座っているだけでも圧倒されるほどの貫禄がある。
彼の正面に座ったわたしは思わず姿勢を正してしまったほどだ。
一方のお母さんの美千絵さんはとても美しい、けれど、とても気さくな方だった。
玲伊さんはお母さん似で、彼女の美貌をそっくりそのまま受け継いだことがわかった。
「まあ、本当に可愛らしい方。わたくしは大賛成よ。玲伊にお見合いの話を持っていっても断わられてばかりだったから、心配していたの。この子、何か理由ありで結婚する気がないんじゃないかって」
懸案のご両親挨拶の後に待っていたのは、マナー特訓。
先生はとても物腰の柔らかい方だったけれど、指導はかなりのスパルタ。
「短期間で一通りのことを覚えるのは並大抵のことではありませんよ。ちゃんとついていらしてね」
次のお稽古までにできていないと、その日のお稽古は見てもらえないので、先生に指摘されたところを必死で覚えた。
なにしろ一周年記念のディナーパーティーは、すぐそこまで迫っている。
しっかり気合を入れて取り組まないと。
こんなに勉強をしたのは高校以来だと思いながら、深夜まで自主練を続けた。
そんななか、パーティーの席上で結婚の報告をしたい、という玲伊さんの意向で、8月末の縁起の良い日を選んで、わたしたちは入籍した。
式や披露宴は、後日、あらためて大々的にする予定だけれど、ただ入籍届を出すだけというのも味気ないので、当日、屋上でガーデン・パーティーを開いて、ごく親しい人たちの前で届けを書こうということになった。
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