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それからというもの、天使はすっかりと大人しく──なるわけもなく、今日も元気に杖を振り回している。
「ちょっと! 手は“猫の手”って言ってるでしょ! また指切ったらどうするの、ちんちくりん!」
「……痛っ! いたたた! 痛いですってば、チコちゃん!」
こうしてポカスカと頭を殴られながら料理をするのも、もう二週間程になる。当初はまともに包丁さえ扱えなかった僕も、今ではどうにか形になってきた。
口が悪くて乱暴者な天使にも今ではだいぶ慣れてきた。とはいえ、やっぱり痛いものは痛い。
「ちゃんとしなさい! 今日は高坂さんと一緒にお弁当食べる日でしょ! あんたの血だらけのお弁当なんて誰も見たくないのよ!」
「ちゃんとします! ちゃんとしますから殴らないで下さい……!」
天使の助言のおかげで、今では友達と呼べる程の関係になった高坂さん。僕の為に現れたという天使の言葉は嘘ではなかったらしい。
それは何も高坂さんに関することだけではなく、こうして自炊するということを学べたのも天使のおかげだった。不思議なもので、自炊するようになってからというもの、随分と食べ物の好き嫌いが減ったように思う。
とりわけて変化があったことといえば、高校卒業後の進路についてだった。それまで就職することしか考えていなかった僕に、天使は大学へ進学するようにとしつこく薦めた。
久しくしていなかった受験勉強とやらも、最近では毎晩のように励んでいる。勿論、このまま大学に進学することを決めたわけではなかった。ただ、そんな選択肢が残されていてもいいのではないかと、そんな風に思えるようになったのだ。
──そんなある日の晩。
いつものように深夜遅くまで受験勉強をしていた僕は、喉でも潤そうとリビングへと向かった。その途中、漏れ出る薄明かりに気付いた僕は、祖母の部屋の前でピタリと足を止めると室内を覗いてみた。
「……チコちゃん? こんなところで何してるんですか?」
僕の声にゆっくりと振り返った天使は、部屋の真ん中に置かれたテーブルにちょこんと座りながら笑みを溢した。
「強く生きなさい、ちんちくりん」
「チコちゃん……?」
何だかいつもと様子の違う天使を前に、妙な胸騒ぎを覚えた僕は部屋の中へと一歩足を踏み入れた──その時。静まり返った家の中で一本の電話の音が鳴り響いた。
────プルルルル────プルルルル
嫌な予感がした僕はすぐさま受話器を取りに行くと、そこで告げられた言葉に耳を疑いながら自宅を飛び出した。
(ばあちゃん……、ばあちゃん……っ!)
病院へと駆け付けると、そこには静かに横たわる祖母の姿があった──。
両親を早くに亡くした僕は、まだ小学校に上がる前から祖母との二人暮らしを始めた。そんな祖母はいわゆる肝っ玉ばあちゃんというやつで、まだ元気だった頃にはゲンコツをお見舞いされることも少なくはなかった。
『強く生きなさい』
そんな祖母が口癖のようによく言っていたのを、僕は鮮明に覚えている。
一年程前から寝たきり状態になってしまった祖母は、心臓こそ動いてはいたものの最近では意識を取り戻すことさえなくなっていた。それでも、僕は回復することを信じて毎日のように病室に顔を出していた。
それは今日も同じだった。たったの数時間程前に祖母の姿を見たばかりだというのに、今僕の目の前にいる祖母の姿は先程見た時とは随分と違って見える。
「ばあちゃん……っ!」
痩せ細った祖母の身体にしがみつくと、僕はまだ温もりの残った肌を感じて涙を流した。
「北野マチコさん。午前一時四十六分ご臨終です」
「裕也……。ばあちゃんは苦しまずに逝けたそうだよ」
そんな医者と叔父の声を聞きながら、僕は涙を流し続けた。
──それから四日程が過ぎ、お通夜と葬儀を終えた僕は一人静かな家の中を彷徨い歩いていた。
「チコちゃん? どこにいるんですか?」
忙しさで気に留める暇もなかったとはいえ、ここ四日程天使の姿を全く見ていなかったのだ。一向に見つからないその姿に、怒ってしまったのだろうかと不安になる。
確か最後に見かけたのは祖母の部屋だった。それを思い出した僕は、急いで祖母の部屋へと向かうと勢いよく扉を開いた。
「……チコちゃん!?」
僕の声は誰も居ない部屋の中で虚しく響き、ここにも天使は居ないのかとガックリと肩を落とす。
そんな僕の目に留まったのは、テーブルの上にポツンと置かれた一冊のアルバム。あの時天使が見ていたものはこれだったのかと、僕はゆっくりとテーブルまで近付くと腰を下ろした。
「ばあちゃんのアルバムか……」
そこには若かりし頃の祖父と祖母の姿があり、初めて目にするその写真を前に僕は涙を流した。最期はあんなに痩せ細ってしまった祖母だったけど、当然ながら昔はこんなに元気だった頃もあったのだ。そう思うと何故だか涙が止まらなかった。
天使の“チコちゃん”とよく似た面差しの若い頃の祖母の姿。その写真を眺めながら、もう二度と天使に会うことはできないのだと僕は悟った。
【ちんちくりんの裕也】
パラリと捲ったページに収められていたのは、そんなタイトルと共に大切そうに貼り付けられた一枚の写真だった。
その写真に写っていのは、この家に引き取られたばかりの僕が祖母に抱かれて嬉しそうに笑っている姿。その写真のすぐ横には、とても小さな足跡がクッキリと残っていた。
─完─