テラーノベル
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目を開いた瞬間、詩乃の胸にひやりとした違和感が走った。
見上げた天井は高く、白く、どこか無機質だ。そこにあるのは病室の見慣れた照明でもなければ、鼻につく消毒液の匂いでもない。
(……ここは……果穂の……)
意識がはっきりするにつれて、昨夜までの記憶が一気に押し寄せてきた。
妹の身体。入れ替わり。
乃亜。幸人の冷えた視線。荒れ果てた部屋。
そして――小さな寝息。
詩乃はゆっくりと顔を横へ向けた。
すぐ隣で、小さな身体が丸まって眠っている。薄い掛け布団にくるまれた乃亜はまだ夢の中にいるらしく、規則正しい寝息を立てていた。
(……夢じゃない……)
果穂の身体の重さも、視界に入る見慣れない指先も、昨夜から心に残り続けている痛みも、すべてが紛れもない現実だった。
その時、乃亜がもぞりと動いた。
布団の中で小さな腕が揺れ、ゆっくりと瞼が開く。まだ眠気を残した瞳が天井から隣へと動き、詩乃の姿を捉えた瞬間、はっと大きく見開かれた。
小さな身体が強張る。
乃亜は逃げようとするように布団の端を掴み、身をすくめた。
「……っ……」
声にならない息が漏れる。
その反応を目の当たりにして、詩乃の胸が締めつけられた。
今、乃亜が見ているのは自分ではない。
この子をずっと怯えさせてきた、“果穂”の顔なのだ。
詩乃はすぐには手を伸ばさなかった。少しでも怖がらせないように距離を保ったまま、できる限り穏やかな声を出す。
「……おはよう、乃亜。お腹すいた?」
乃亜は答えず、ただじっと詩乃の顔を見つめていた。
昨日まで知っていた母親の顔と、今目の前にいる人間の声や表情が違うことを、幼いなりに感じ取っているのかもしれない。
詩乃は無理に笑おうとはせず、目元だけをやわらかく緩めた。
「大丈夫。怒らないよ」
その一言に、強張っていた乃亜の肩からほんの少しだけ力が抜けたように見えた。
「起きよっか。一緒に朝ごはん、食べよう」
まだ迷うように詩乃を見つめていた乃亜だったが、やがて小さくこくりと頷く。
たったそれだけの仕草なのに、詩乃の胸には熱いものが込み上げた。
(……この子を、もう二度と一人にしない)
自分は本当の母親ではない。
果穂の身体に入り込んだ、偽りの母親でしかない。
それでも、この子の前では母親として生きよう。
詩乃は、この朝からすべてをやり直すと決めていた。
***
詩乃は乃亜を怖がらせないよう、一つひとつの動作に気を配りながらベッドを下りた。
まだ自分のものとは思えない身体には違和感が残っており、足元もわずかに覚束ない。
乃亜も布団を抜けると、何も言わずにドアへ向かった。けれど、その足取りがどこかぎこちないことに、詩乃はすぐ気づいた。
昨夜見た、オムツの下の赤くただれた肌。
まだ痛みが残っているのだろう。
こんな小さな子が、どれほど長い間あの痛みに耐えていたのか。考えるだけで、胸の内側が鈍く痛んだ。
リビングへ出ると、昨日よりは多少片付いていたものの、まだ生活用品やゴミがあちこちに残っている。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、荒れた室内を容赦なく照らし出していた。
ダイニングテーブルには、一枚のメモが置かれている。
『家政婦 橋本一恵 九時訪問予定』
それだけだった。
用件も、気遣いの言葉もない、ひどく事務的な文字を見つめながら、詩乃は昨夜の幸人の冷えた眼差しを思い出す。
(……綾咲さん、もう出たんだ……)
胸にわずかな重苦しさを覚えた、その時だった。
乃亜が迷いのない足取りでキッチンへ向かい、低い棚から菓子パンの袋を取り出した。
スティック状のパンが何本か入った袋は口が開いたままで、乃亜はそこから一本を取り出すと、当たり前のように小さな口でかじり始める。
その手慣れた動きに、詩乃は息を呑んだ。
(……朝ごはんが、これだけ……?)
昨日、部屋のあちこちに散らばっていたパンの袋が脳裏に蘇る。
もしかすると朝食だけではないのかもしれない。
これまで乃亜は、空腹になるたびに自分で菓子パンを取り出し、こうして食べていたのではないか。
栄養も、温もりもない。ただ空腹を満たすだけの食事。
乃亜は何も言わず、黙々とパンを口へ運んでいる。
保育の勉強をしていた頃、食事は子どもの身体だけでなく心も育てる大切な時間なのだと、何度も教えられた。
(……ちゃんと食べさせてあげないと)
詩乃がそう思った時、玄関のチャイムが静かな家の中に響いた。
乃亜の手がぴたりと止まり、無意識に詩乃を見上げる。
「大丈夫。一恵さんだと思う」
安心させるように小さく頷き、詩乃は玄関へ向かった。
コメント
1件
寺島あおいです🌷 朝の光が差し込む中で、詩乃が乃亜を怖がらせないように距離を取りながら「おはよう」と声をかける場面、とても胸に響きました。自分が“果穂の顔”でしかないと自覚しながら、それでも母親として生きようと決意する詩乃の強さと切なさが、ひしひしと伝わってきます。 乃亜が慣れた手つきで菓子パンを手に取るシーンは、言葉にできない寂しさがあって……。この親子に、温かい朝が訪れますように。続きが気になります。
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#王子
すっこ
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碧星_Aoi
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