テラーノベル
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「クズは病気です。また繰り返します」
朝倉くんの声が一段と低くなった。
「朝倉は黙ってろっ!」
龍彦が怒鳴った。
「瞳子は一度の浮気で俺を見捨てるような女じゃないんだ!」
そして私の顔を覗き込む。
「そうだよな、瞳子?」
その顔が、私の知っている龍彦とは別人に見えた。
私は何も言えずに立ち尽くす。
そのとき、朝倉くんが大きく息を吐いた。そして、なぜか野々宮さんに声をかけた。
「野々宮さん。雨森さんは別れないってよ?」
「わ、私がおばさんに負けるわけないでしょう!」
怒りで真っ赤になる野々宮さん。
朝倉くんは、そんな彼女を冷ややかな目で見つめた。
「野々宮さん、可哀想。とんだ当て馬だったね!」
「ふ、ふざけないでよっ!」
プライドを踏みにじられた野々宮さんの怒りが、一気に頂点へ達した。
パンプスを鳴らしながら龍彦に詰め寄る。
「この私を振って、おばさんを選ぶなんて許さない! コンプライアンス室にセクハラで訴えるわよ!」
そう叫び、龍彦の厚い胸板を何度も叩いた。
「それだけはやめてくれっ! 一発で俺の出世が消える!」
「だったら、どうするのよ!」
「綾香、どうにかするから! 少しだけ待ってくれっ!」
その光景を見て、私は呆然としてしまった。
龍彦は、こんなにもだらしなく、どうしようもない人間だったんだ。
なぜ私は、ずっと目を逸らし続けていたのだろう。
自分が育てれば、立派な人間になると思っていたのだろうか。
胸の奥が空っぽになっていく。
私は鼻をすすりながら、顔を上げた。
「龍彦、どれだけバカなのよ……!」
涙が頬を伝っていく。
「こんな若い子に手を出して、どう責任を取るつもりなの?」
「瞳子……」
龍彦が情けない顔で私を見る。
「訴えられたら俺は終わる。三月の異動も消えてしまう。どうか最後のお願いで、大人しく俺と別れてくれないか?」
「……は?」
一瞬、意味が理解できなかった。
浮気したのは、龍彦。
謝るべきなのも、龍彦。
なのに──
「あなたが、私を……振るの?」
手を合わせて、何度も頷かれた。
この顔を作ればって表情で!
あまりにも自己中心的すぎる!
私への謝罪もない。
自分の出世の心配ばっかり。
「冗談じゃないわよっ!」
怒りで血が沸騰しそうだった。
罵倒したい。
裁きたい!
けれど、そんな男のために私の大切なエネルギーを使うなんて、もったいない。
これ以上、私の時間を奪われたくない!
私は龍彦を真っ直ぐ見据えた。
「こっちから願い下げよ! もう二度と顔を見せないで!」
「仕事ならいいよな、な?」
最後まで、自分の利益につながるものは姑息に残そうとする。
龍彦の器は、こんなにも小さかったのだ。
せめて最後くらい、男としてのプライドを見せてほしかった。
「バカ、バカ、バカッ! 職場でも声をかけないで!」
私はそう言い捨てると、駅へ向かって歩き出した。
こんな場所に、一秒たりとも長居したくなかった。
その背後から、朝倉くんの声が聞こえる。
「今後、瞳子さんに近づいたら、僕が許しません」
私は振り返らなかった。
ただ、足を止めずに歩き続けた。
*
繁華街は、こんな時間でも人で溢れている。
これだけ人通りが多ければ、涙でぐちゃぐちゃになった顔を見られても、きっと誰も気にしない。
むしろ、この場所で大声を上げて泣いてしまいたい。
それくらい、胸が苦しかった。
(辛い……辛いよっ)
正面から歩いてきた人とぶつかりそうになった、そのときだった。
腕を掴まれた。
「えっ?」
そのまま、路地へ連れ込まれる。
もちろん、朝倉くんだった。
「瞳子さん」
「朝倉……くん?」
私の顔を見た彼が、静かに言った。
「遠慮せず、泣いてください」
「……え?」
「僕はいまから電柱になります」
「電柱……?」
「はい。何も見えないし、何も聞こえない、無機質な電柱です」
思わず、涙で濡れた目を瞬かせた。
「……何、それ」
「安心してください。電柱は瞳子さんが泣いている姿を、誰にも見せないためにありますから」
そう言って、朝倉くんは上質なウールのコートを広げた。
そして私ごと、ふわりと包み込む。
ウッディノートの香水が鼻先をくすぐった。
妙な安心感があった。
彼の体温が、冷え切った心に少しずつ熱を分けてくれる。
(……この人は、男なんだ)
初めて、はっきりと朝倉くんを異性として意識した瞬間だった。
(男性に……こんなに優しくしてもらったの、初めてだ)
今まで、誰かを守ることばかり考えていた。
弟のため。
家族のため。
恋人のため。
自分がしっかりしなければ。
自分が我慢すれば。
そう思って、泣くことさえ後回しにしてきた。
けれど今は──。
もう、頑張って崩れないように力んでいることすらできなかった。
朝倉くんのシャツを、ほんの少しだけ握る。
「こ、こんなことをされたら……」
声が震えた。
「泣きたいだけ泣かせてもらおうって、素直に思ってしまうじゃない……」
「はい」
朝倉くんの返事は、とても優しかった。
「遠慮、しないでください」
その言葉に、とうとう堪えていたものが溢れ出した。
「遠慮っ……しないでっ……泣くからっ」
彼が、そっと私を抱きしめる。
温かい。
その腕の中で、私の心が少しずつ絆されていくのがわかった。
今はただの女でいさせて。
額を彼の胸元に当てた。
ぬくもりが優しくて、悔しさや寂しさのドロドロが溶けていくようだった。
牧野瞳子、二十九歳。
本日、部下を叱りに行ったら──浮気した彼氏と別れることになりました。
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