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夏目莉央
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131
くま🐻☁️
12
※
「よかったぁ……姉さん、目の腫れはだいぶ引いてきたよ」
私はソファーに寝転がり、腫れた瞼に蒸しタオルを当てていた。
李人がタオルを交換してくれた。
新しい蒸しタオルを目元に当て直し、しばらくしてから、そっと取り外す。
露わになった私の目を見た一瞬、李人は眉を下げた。けれど、昨日より腫れが引いていることを確認すると、ほっとしたように表情を緩めた。
「ん……ありがとう。そろそろ、いいかな」
私はゆっくりと起き上がった。
今朝は経済新聞にも目を通せず、そのままリビングテーブルに放置している。
いつもなら朝食を済ませ、新聞を読みながらコーヒーを飲む。それが私の朝のルーティンだった。
なのに今日は、新聞を開く気力さえなかった。
(朝のルーティンもこなせないなんて。情けない……)
自分では大丈夫だと思っていたけれど、身体は正直なのかもしれない。
「ねえ、昨日の夜、何があったの?」
李人が、濡れた瞳の子犬のように私を見つめてくる。
この表情も、昔から変わらない。
(不安なことがあると、この顔で私の横にぴたりとはりつく)
両親が亡くなったあの日から、私はずっとこの子の前で泣かないようにしてきた。
熱があっても、仕事で失敗して落ち込んでも、龍彦との関係に悩んでいた時も──。
李人が不安にならないように、私はいつだって「大丈夫」と笑ってきた。
どうしようもないため息が、胸の奥から漏れる。
「大人の世界には色々あるのよ。でも、もう解決したから大丈夫」
そう言って、いつも通り口角を上げた。
けれど、李人は気まずそうに視線を下げた。
「僕には言えないよね……」
「李人が気にするようなことじゃない。それだけよ」
「本当に?」
「目が腫れたくらい、なんてことないわよ」
「姉さんがくたばったかと思ったよ」
「私、そんな簡単にくたばらないわよ」
「見たことはないけど……」
李人は小さく笑ったあと、また真剣な顔に戻った。
「僕には姉さんがいるけど、姉さんには頼れる人がいない。僕、姉さんに何もしてあげられないんだ」
唇を尖らせて拗ねる李人が可愛くて、頭を撫でてあげたくなる。
こんなふうに心配してくれる弟がいるだけで、私は幸せを感じている。
(私が暗い顔をしたらいけない)
私はむくれる李人の額を、中指で弾いた。
「イテッ。何すんの⁈」
不意打ちを食らった李人が、目を丸くして額を押さえる。
その顔がおかしくて、私は思わず小さく笑った。
「李人が社会人になったら、今までの恩はきっちり返してもらうから。だから今は、自分が成長することだけ考えてなさい」
「恩って……」
「大学まで行かせてあげたんだから、たっぷりあるでしょう?」
冗談めかして言うと、李人は目を潤ませた。
「姉さんにも守ってくれる人が必要だよ!」
その声が、少し震えている。
「もし僕に遠慮しているなら……!」
守ってくれる人──に、昨晩、裏切られた。
龍彦の顔と、あのネオンの中で見た光景が脳裏をよぎる。
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
目の奥が熱くなって、せっかく抑えた涙が逆流してきそうになる。
「ちょっと待って! それ以上は言わなくていい」
私は勢いよく手のひらを李人に突きつけた。
これ以上、言葉を続けさせたら、泣いてしまう。
「ああっ、姉さんの目がまた充血してる!」
李人が慌てたように身を乗り出してくる。
「僕、バイト休んで看病するよ」
「姉さんは無敵なの」
私はできるだけ明るく言った。
「そんな甘い考えでは留学は夢で終わるわよ」
「……わかったよ」
しょんぼりした李人の頭を、今度こそ優しく撫でる。
「私は大丈夫。ちゃんと出勤するから、安心してバイトに行っておいで」
私がいつも通りに微笑むと、李人はようやく安心したように笑った。
頬に、小さなエクボが浮かぶ。
「今度、姉さんを鳳凰ホテルのラウンジに連れていくね!」
「私を?」
「うん! あそこのガレットデロワを食べれば元気百倍だよ!」
「ふふっ。そうね。楽しみにしてる」
「任せて!」
嬉しそうな顔をする李人を見て、胸の奥が温かくなる。
こんなに優しい弟がいて、私は幸せ者だ。
「じゃあ、行ってきます」
「気をつけてね」
「姉さんもね!」
李人が玄関を出ていくのを見送る。
扉が閉まると、家の中が急に静かになった。
私はしばらくその場に立ち尽くしてから、出勤前に手鏡を手に取った。
鏡に映った自分の顔をじっと見る。
目の腫れは、昨日よりはずっとマシになっている。
(これくらいなら、お化粧でごまかせるかな)
指先で目元をそっと確認してから、手鏡を机に伏せる。
そして、大きく息を吐いた。
今日をこなせば、明日は週末だ。
あと一日。
今日一日だけ頑張ればいい。
(こんな困難、なんてことない)
今までだって、この何倍の悲しみも乗り越えてきたじゃないの。
両親を亡くした時だって。
李人が引きこもってしまった時だって。
私は逃げずに、この子を守ってきた。
だったら、昨日のことだって乗り越えられる。
私は机に両手をつき、勢いよく立ち上がった。
「よしっ!」
気合いを入れるように声を出す。
その勢いのまま、机の端に積まれていたチョコ菓子を一つ手に取った。
包装を剥がして、ぱくり。
甘いチョコレートが舌の上で溶けていく。
(うん。糖分は大事よ!)
少しだけ元気が戻った気がする。
私は鞄を手に取ると、背筋を伸ばした。
「行ってきます!」
誰もいない家に向かって声をかける。
そして私は、いつも通りの顔を作って、会社へと向かった。
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