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夜会に護衛としてついてきたモランは、ウィリアムの姿が見当たらないことに不安を覚え、アルバートの元へと歩み寄った。
アルバートは先ほどまでいろんな令嬢に群がられ、身動きが出来なかったようだ。
殺人事件が起きたというのに夜会は続くし、外野の貴族の令嬢たちは犯行に及んだ子爵令嬢を指して「男を見る目がない」と笑っているくらいだ。
実際、貴族の誰が死のうが、どうなろうがほとんどの貴族は気にも留めない。
彼女たちがアルバートやウィリアムに秋波を送るのも二人が見目が良く、伯爵家の人間だからに過ぎない。
モランに促され、バルコニーのそばまで移動したアルバートは「ウィリアムのことだろう?」とモランがなにか言う前に確認した。
二人の近くには人はおらず、小声で話す分には聞こえないだろう。
「さっきからホールに姿が見えない。
私も気になっていたんだ」
「…捜査に来たホームズの姿も見当たらねえな」
「ああ、だから余計気になっているんだが、私が探しに行ってホームズと鉢合わせてはまずいからな」
なにしろ私は声を聞かれているし、とアルバートはつぶやく。
あの教会の懺悔室でアルバートは「犯罪卿」としてシャーロックと対峙している。
アルバートの声を聞けばシャーロックも気づくかもしれない。
だから今夜の夜会でシャーロックが捜査にやってきた後は、アルバートはさりげなくシャーロックから距離を取っていたのだ。
「すまないがウィリアムを探しに行ってくれないか?
…万が一とは思うが、…なにかあったらと思うと気が気でない」
「…ああ」
アルバートの表情や声音は冷静に見えるが、本心ではひどく焦燥し、動揺しているのが伝わって来た。
モランは足早にその場を離れるとホールを出る。
ホールのある階や中庭以外は、招待客でも立ち入れない。
その範囲にいるはずだが、と思って廊下を歩いていたときだ。
曲がり角から出てきた男とぶつかって、相手の顔を見て息を呑む。
「わ、悪い」
あからさまに余裕を失った様子で謝ったのはシャーロック・ホームズだった。
彼は取り繕う暇もなくそのまま足早に去って行く。
その頬にわずかに差した赤みと鼻腔をかすめた匂いに嫌な予感がした。
安物の煙草の匂いに混じったあの香りは、ウィリアムの。
モランは大股でシャーロックがいたほうに足を向ける。
曲がり角の向こう、廊下に並ぶ扉の一つがわずかに開いていた。
「ウィリアム?」
その扉の前でそっと名を呼ぶと、か細い声で「モラン?」と主人の声が返る。
「ウィリアム」
逸る気持ちを、不安を抑えて静かに中に入ると、床に座り込んだウィリアムの姿が目に入って反射的に駆け寄った。
「ウィリアム!」
「大丈夫。
なにも、ないから。
ごめん、心配かけて」
「なにも、って…!」
そばにしゃがみ込んだモランにウィリアムは気怠げに言うが、その目元は赤く腫れている。
着衣に乱れはないが、目を惹いたのは首筋に刻まれた赤い鬱血痕だった。
こんなもの、夜会の前にはなかった。ましてアルバートは服で隠れない場所に痕はつけない。
そしてウィリアムの身体からわずかに香るのは、シャーロックのあの煙草の匂いだった。
「なにがあった?
ホームズだろう?
一体、なにが」
「…わからない」
「わからねえって…!」
「…わからないよ。
…わかりたくない」
最初ごまかしているのかと思ったが顔に手を当て、無残に傷ついたように表情を歪めて震えた声でこぼしたウィリアムに、そうではないのだと気づく。
ウィリアムは“わからない”のではない。理解したくないのだ。
彼にそう思わせることが、シャーロックとの間にあったのだ。
そう思いが至ると、どろりと腹の奥底にどす黒い感情が澱んだ。
だがウィリアムの身体がモランの胸に寄りかかってきたので反射的に抱き留めてしまう。
「…ごめん。
ちょっと容量を超えちゃったみたいで…」
「おい、ウィリアム」
「………ごめん」
腕の中に倒れ込んだ身体からふっと力が抜ける。
眠りに落ちたウィリアムの身体を抱きしめて、モランは足下から這い上がってくる恐れを必死で押し殺す。
やめてくれ。
それが誰に対しての懇願なのか、自分でも本当はわかっていた。
そのあと、アルバートと一緒に馬車でロンドンのモリアーティ邸まで帰って、意識のないウィリアムの服を楽な衣服に着替えさせ、モランやアルバートも正装から着替える。
モランがウィリアムの部屋に行くと、既に彼が眠るベッドのそばにアルバートの姿があった。
ベッドサイドのチェストの上に置かれたランプがほのかに主人の寝顔を照らしている。
「…アルバート」
声をかけるかわずかに躊躇ったのは、アルバートも気づいているとわかっていたからだ。
ウィリアムの目元の涙の跡にも、首筋の鬱血痕にも。
ウィリアムの服を着替えさせたのはアルバートなのだから。
「大佐。
…大丈夫だよ」
モランの胸中を読んだように、アルバートはベッドのそばの椅子に腰掛けたままわずかに口元に笑みを浮かべる。
それは穏やかなものではあったが、どこか心許ない微笑にも見えた。
「だいたい察しはついている。
私がわかっていて挑発したんだよ。
ホームズを」
「…挑発した?」
「彼が見ていると知っていて、ウィルにキスをした」
続いた言葉にかすかに息を呑む。
「その結果、彼がウィルになにかしたとして、責められるべきは私とホームズだ。
ウィルに非はない。
それをわからず手酷い真似をする気はないよ」
アルバートはモランが、ウィリアムが目が覚めた後にアルバートが彼を手酷く抱き潰すのではないかと危惧している。
そう考えているのだと気づいて、モランは逡巡する。
そのことを心配しなかったと言ったら嘘になるが、自分の頭の半分を占めているのはシャーロック・ホームズがウィリアムになにをしたかだ。
「…俺は、ホームズがウィリアムになにをしたか、それが許せない」
「わかっている。
私も同じ気持ちだ。
大佐は、なにがあったと思う?」
「…廊下でホームズにぶつかった。
俺がモリアーティ家の使用人だって察しもつかないくらい、余裕がなかったように見えたし、あいつの身体からわずかに、ウィリアムの香りがした」
「ウィルの身体からもホームズの煙草の匂いがしたな」
「ウィリアムが頭の容量を超えるほど、処理しきれないほどのことが起こったってことだろ?
…なあ、アルバート。
おまえ、わかってたってなんのことだ?」
先ほどアルバートは「わかっていて挑発した」と言った。
それはおそらくウィリアムの気持ちのことじゃない。
「…ああ。
薄々察していたと言うべきか…」
アルバートは橙色の明かりに照らされた弟の寝顔を見つめ、優しく撫でながら眉根を寄せる。
その表情だけで気づいてしまった。
そもそもあのとき、廊下で会ったシャーロックの様子を見れば察しはつくのだ。
「…まさか、ホームズも?」
かすれた声がモランの口から漏れる。
「…ホームズも、ウィリアムを…?
だからおまえ、強引にウィリアムを手に入れるようなこと…」
「そうだよ。
わかっていたからやったんだ」
違和感を覚えてはいた。
アルバートはなぜ、ウィリアムを強引に手に入れるマネをしたのか。
もちろんウィリアムがシャーロックを想っているというのは大きな要因になり得るだろう。
けれどそれだけか?という違和感があった。
だがもしも、それがウィリアムの一方通行の想いでないならば。
「ウィリアムを初めて抱いた日に、大学で話す二人の姿を見たよ。
ウィリアムを見つめるホームズの瞳はひどく優しくて、恋しがるようで、…あれがほかの意味だなんて思えなかった」
アルバートの声はどこか侘しい、物悲しい響きだ。
ああ、だから彼は強引にウィリアムを手に入れようとしたのか。その心を引き裂いてでも。
そう、やっと腑に落ちた。
「…私たちの道は交わらない。相容れない。
わかっていても恐ろしくて堪らなかったんだ。
ウィルをさらっていくかもしれない男が」
そう言ってアルバートはシャツから覗いたウィリアムの首筋に指を当てる。
「見てご覧。
この痕。
私がつけたものじゃない。
男の身体にこんなものを刻む奴が、ウィルに執着してないはずがない」
「………どうする気だ?」
「…殺しはしないよ。
彼は既に、我々の計画に必要不可欠な存在だ」
忌々しげなアルバートの声。その端正な横顔に浮かぶのは怒りと憎悪と、そして切なさがない交ぜになったような複雑な表情だった。
「…どうしようかな。
ホームズでなければ扱いに困ってはいないが、…ホームズでなければ、そもそもウィルはこんなに心を乱されはしなかっただろう」
アルバートはウィリアムから手を離し、足を組む。
膝の上に手を乗せて物憂げにため息を吐いた。
「犯罪卿が義賊だという認識を得る前から、ホームズはウィルが犯罪卿だと疑って、いや、そうであればいいと願っていた。
それはつまり、それだけウィルが彼にとって魅力的であり、心を惹きつける存在だったと言うことだ。
ただ一度会っただけで、だ。
ホームズはそれだけ強い興味を、執着をウィルに抱いたし、ウィルも一度の邂逅だけでホームズを計画のために必要な存在と認識した。
…なんだかあまりに運命的過ぎやしないか?」
そこで初めてモランのほうを見上げたアルバートの顔ににじむのは、自嘲のような歪な笑みだ。
「ウィリアムにとっての運命があの男だと言われているようで、ひどく腹立たしいし忌々しいよ。
私にとってウィリアムが運命そのものだったのに、ウィリアムにとっては違うなんて、…そんなものを神に突きつけられるのが罰か」
地獄に堕ちる覚悟ならばあった。報いを受ける覚悟はあった。
けれどこれが罰なら、なんて惨い罰だ。
アルバートの口調にはそんな響きがあった。
モランにはなにも言えず、ただ黙したままゆっくりと部屋を出る。
今夜、シャーロック・ホームズとウィリアムの間になにがあったか正確にはわからないが、察しはつく。
廊下の途中で立ち止まって、モランは息を吐き出した。
「…だからどうした」
そう、自分に言い聞かせるようにつぶやく。
ウィリアムの運命があの男?
それが、だからどうしたというのだ。
運命の主君だった。自分の全てだった。死ぬまで、ずっと。
「…運命なんて、最初からそんな大それたもの望んじゃいねえ。
俺にとってあいつが運命だった。
…それだけで十分だ」
そうだ。見返りも報いも、望んでいない。
自分が彼に出会えた。彼が自分にとっての運命だった。
それで十分じゃないか。
モランが退室した後、アルバートは眠ることなく椅子に座ったままウィリアムの寝顔を眺めていた。
どのくらいそうしていただろう。
ようやく窓の外が白み始めた頃に、深い眠りの中にいた弟のまぶたがわずかに震えた。
「…ウィル?」
「…兄さん…」
ぼうっとまぶたを開けたウィリアムが、そばにいたアルバートに視線を向け、何度か瞬きを繰り返す。
だが不意にハッと息を呑んで勢いよく起き上がる。
「…兄さん。
僕…」
「夜会の途中で眠ってしまったんだよ。
おまえがその状態になるとは、よほど頭の処理が追いつかないような事態があったらしい」
「…あ、の」
後ろめたそうに、不安そうに目を逸らし、右腕で自分の身体を抱くようにしたウィリアムを見つめ、アルバートは小さく息を吐くと立ち上がり、ベッドの縁に腰掛ける。
そしてうつむくウィリアムの身体をそっと抱き寄せた。
「…兄さん?」
「…すまない」
「……兄さん?
どうして、兄さんが謝るんですか?」
「…わかっていて、私が挑発したんだよ。
ホームズを。
いや、あの日からわかっていた。
おまえが彼に口にしてはいけない想いを抱いたように、彼も…」
アルバートの言葉にウィリアムが小さく息を呑む。
そのこわばった身体を優しく撫で、怖がらないでいいと告げるように宥めた。
「だから、おまえを無理にでも手に入れようとしたんだ。
…彼に奪われたくなかった。
私こそ、おまえに責められるべきだ。
私が、おまえを責める権利はなかった…」
「…アルバート兄さん」
「すまない。
ウィリアム」
腕の中に収まる身体は、大人の男の肉体だ。
けれどそれでも、自分よりは細い身体だ。
彼を誰にも渡したくないと、そんな濁った愛執を抱いたのは、いつからだったのか。
出会った時からだったかもしれない。
あの孤児院の教会で彼を見た日から、彼の向こうに見える新しい世界を、見てしまった日から。
(おまえは私の全てだったのに)
「………僕は、アルバート兄さんが好きです」
しばらく黙っていたウィリアムが、密やかな声で告げた。
「きっと、兄さんが考えるよりずっと、兄さんのことが、好きです。
…それが特別だと思っていました。
なにより特別なものだと、…彼に会うまで、疑うこともなく…」
「…ああ」
「…怖いんです。 …兄さんに繋ぎ止めてもらって、それでも歯止めがかからない。
自覚したらなおさらに惹かれてしまう。
目を逸らそうとしても、余計に…」
恋は自覚すると加速度がつくという。
自覚しなければ、させなければまだ、マシだったというのか。
「だから、もっときつく、僕を縛り付けてください。
僕がどこにも行けないように。
兄さんで、僕を縛り付けて。
帰る場所はここしかないと、教えてください」
「…いいのか?」
自分に縋り付く弟の身体を、今すぐにきつくかき抱いてしまいたかった。
その想いをわずかに縫い止めたのは、あの日大学で見た二人の姿。
シャーロックと話す弟の、初めて見た幸せそうな笑顔。
「…おまえが望めば、手に入るものだ。
たとえ、束の間の夢でも」
その言葉にウィリアムが小さく息を呑む。
「そうだろう…?
ウィル」
きっと、シャーロック・ホームズはその想いをウィリアムに告げただろう。
与えただろう。
だからウィリアムはそのことを受け止めきれず、眠りに落ちたのだ。
彼にとって「自分がシャーロック・ホームズに愛されること」はあってはならないことだったのだから。
「………そうですね」
ウィリアムは否定せず、詰めていた息を吐き出して肯定した。
アルバートのシャツを弱々しく掴んで、震えた声で。
「…僕が望めば、手に入れられる。
束の間でも、彼の最愛になれる。
彼の時間を、愛を、心を手に出来る。
…たとえうたかたの幸せであっても、それでも──」
たとえそれが、朝になれば泡となって消える夢でも。
いつか消える束の間の幸福であっても。
アルバートの腕の中で、彼ではない男の胸に身を委ねて、ウィリアムは悲しげに、愛おしげに微笑んで告げた。
「…切ないほどに、そうしたいと思う」
今にも泣き出しそうな、儚い表情で。
「…でも、僕は犯罪卿。
彼が裁くべき敵です」
ぎゅっとシャツを掴む手に力を込めて、涙を堪えるように目を閉じて続けた。
「それはもう揺らがない事実で、運命です。
だから、早く気づいて欲しい。
暴いて欲しい。
僕が犯罪卿だって。
彼が暴いたなら、僕を敵として見たなら、…それで、きっと」
(終わらせられる)
続く言葉は、声にならなくてもわかった。
痛いほどに。
「言わないのか?
…彼に」
「言いません。
死んでも。
…だって、幕を引くのは彼だもの」
そっとアルバートの肩に頬を寄せ、ウィリアムは優しく微笑んで答える。
その緋色の瞳が濡れて揺らいでいても、アルバートの位置からは見えなかったし、見えなくてもその声音でわかった。
「僕を終わらせるのは、彼だから」
そう言ってウィリアムは己の胸に手を当てる。
銃口を突きつけるように。
「僕は、それで十分」
そう、満ち足りた声で告げる弟に、それ以上なにが言えただろう。
「…そうか。
ウィリアム」
否定も肯定も、してやれない。
胸を軋ませる淡く切ない痛みが、自分のためなのか弟のためなのかもわからなくて、ただ苦しくて悲しかった。
「……………そうか」