※ ※ ※
──さむい。
温かいものに触れたいとヒラリと手を動かす。
バタバタと床をさ迷わせてから、有夏は上体を起こした。
「ヤバ。痛て……」
そのまま床で寝てしまったようだった。
感覚では僅か数分ほどに感じたのだが、夜の静けさはもう深夜のそれである。
数時間ほど寝てしまったのか。
どうりで背中が痛いはずだと腰をさすっている時である。
ドスドスドス。
荒い足音が近付いてくる。
有夏は顔をしかめた。
隣に住む女が酔っぱらって帰ってきたに違いないとでも思ったか。
「あのクソビッチ、たまに1人ですごい叫んでんだよな。キモいわ」
吐き捨てた瞬間、その足音がクソビッチのものでないと悟る。
ガチャガチャと鍵を開ける音がやけに近い。
この部屋だと気付いたのだ。
「ありかぁーーー!!!」
隣りのクソビッチの叫びなんてものじゃない。
玄関での絶叫は静かな夜を破壊した。
「有夏、玄関はちゃんとチェーンしとくようにって言ったでしょ。危ないから! 何で電気もつけてないの!? 窓が真っ暗だったからびっくりしたよ! ああ、窓も開けっぱなしで。2階とはいえ閉めなきゃ! 物騒なんだから。変質者が侵入してきたらどうするの!」
「あぅ……」
窓辺で固まってしまった有夏の所へ駆け寄ってきたのは長身の眼鏡──幾ヶ瀬である。
戻ってくるのは明日の筈ではと口にしようと、しかし驚きのあまり舌が回らない様子。
パクパクと息を吸うばかりで、窓辺に座り込んだままだ。
ちらりと座卓の上に視線が泳ぐ。
マズイ、と表情が歪んだ。
カップ麺は片づけてないし、お菓子も散乱したままだ。
見付ければ幾ヶ瀬が発狂して面倒臭いことになるのは目に見えている。
「無事で良かった! 有夏に何かあったんじゃないかと思うと、いてもたってもいられなくて」
「無事って何の話だよ?」
無事に決まってる──そう言いかけて、彼は顔を引きつらせた。
何かを忘れていたと思った。
──連絡入れるから電話でてよ。もし無理ならメッセだけでも返してよ。
夕べしつこく言われた言葉を思い出したのだ。
離れていると心配だからと、それはもうクドクドと。
「昼間はまぁ……有夏め、怠けてるなと思ったけど、夜になっても1回も返信がないから心配になって。具合が悪くなって倒れてるんじゃないかとか、暴漢に襲われてたらどうしようとか。俺の心配が現実になってたら大変だって」
電車がないのでタクシーで帰ってきたと言う。
「タクって……幾らかかって……」
金に汚い幾ヶ瀬に、これは悪いことをしたと有夏もうなだれて反省した様子。
「返事待ってずっとスマホの画面見てたら、悪い想像ばっかりしちゃって。俺の心配したとおり、暴漢が押し入って、有夏があんまり可愛いもんだから床に押し倒して服を剥いで両足広げさせて……ああっ!」
「……幾ヶ瀬?」
「暴漢5、6人に代わる代わる何度も……あああっ!」
「……なに言ってるの?」
「お尻に太いの挿れられて泣いてる有夏に、さて、口でも奉仕してもらおうかって無理矢理突っ込んで……うあああっ!」
「……ねぇ、なに言ってるの?」
「有夏もイヤだって抵抗するんだけど、イイとこ擦られて感じちゃうのを必死に我慢して……あああんっ!」
「………………」
「そんなこんなで、心配になって帰ってきちゃった。明日の始発で戻ったら仕事は何とか間に合うし」
テヘ、といった表情で肩をすくめる幾ヶ瀬。
「………………」
「そ、それはともかく、既読すらつかないから心配したのはほんとだよ!」
さすがに咎める口調だが、有夏に通じる由もない。
可愛らしく小首をかしげてから、とんでもない一言を放った。
「有夏、自分のスマホ……実はもう何か月も見てない」
「え?」
「有夏の部屋のどこにある……はず」
チラと自分の部屋の方向に視線を走らせる。
隣室の角部屋は例によってゴミ屋敷だ。
小さなスマホはどこに埋もれているやら。
当然、充電も切れていよう。
「あの中から探せと……。え、俺が? あっ、俺が探すんだ……。どうりで毎日帰る時メッセ送ってるのに反応がないわけだ」
「は? あの距離でいちいち帰る連絡とかキ……」
キモいんだけどと言いかけて有夏、言葉を噤む。
代わりにごめんと呟いた。
「でも幾ヶ瀬が帰って来てくれて嬉しいよ。1人じゃ寒かったから」
幾ヶ瀬の胸に頭を凭せかける。
「有夏……?」
戸惑ったような声。
有夏のいつになく素直な振る舞いに面食らっているのが分かる。
「ま、またエアコン強くしすぎてたんじゃないの。勿体ないじゃない。風邪ひいたら……」
幾ヶ瀬の手が、有夏の肩に触れるか触れないかのところをうろうろさ迷っている。
その手の気配を感じたか、有夏が低く笑う。
「さっき花火してたんだけど。知ってた?」
「あ、あーそっか。今日だったんだ」
「有夏、1人で見たし。つまんねぇし」
「あ、見たんだ! ベランダから? ちょっとだけ見えるでしょ。ビルの隙間から」
うん、ちょっとだけねと呟いて有夏はもたれていた頭をずらして、幾ヶ瀬の胸に顔を埋める。
「けっこうキレ。カラフルで。来年は一緒にみよ」
「え……何? それ何かのフラグ? 俺死ぬの?」
明らかにうろたえる幾ヶ瀬を有夏が睨む。
「フラグも何もないよ。来年、一緒に見ようって言ってるだけ!」
たっぷり2呼吸の間、幾ヶ瀬は固まっていた。
ゆっくりと息を吐くと、無言で頷く。
それから有夏を抱きしめた。
「カラフル」完
8「ヘンタイメガネの変態たる所以」につづく
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