コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
夜の研究室は、昼よりも静かだった。
試薬の匂いに、かすかにコーヒーの香りが混ざる。
机のランプの光が器具や資料をやわらかく照らし、微かな機器の動作音だけが夜の時間を刻んでいた。
「先生、まだ残ってたんですか」
ツナっちがマグカップを二つ手に持って入ってくる。
「もう少しデータまとめたら帰るよ。君も遅くまでご苦労さま」
くられは穏やかに笑う。
ランプの光が揺れて、二人の影が床に長く伸びた。
ツナっちはマグカップを机に置き、もう一つを先生へ差し出す。
「熱いので、気をつけてくださいね」
くられが受け取ろうとした瞬間、ツナっちの手がそっと添えられた。
指先が、ほんの一瞬かすかに触れる。
それだけのことなのに、空気が少し濃くなった気がした。
「……ああ、ありがとう」
自然に出た声が、いつもより低く響いた気がする。
マグカップの温かさと、触れた指先の余韻が混ざり合い、呼吸のリズムがわずかに乱れた。
ツナっちは何事もなかったように席に着き、少しだけ距離を詰める。
そのわずかな近さが、不思議と意識に残った。
ランプの灯が揺らめき、コーヒーの湯気がふたりのあいだを静かに漂う。
静寂の中、機器のランプが小さく瞬き、研究室を淡く染めていく。
くられはマグカップを手に取りながら、指先に残る微かな感触を思い返した。
どうして、ただそれだけのことで心臓が落ち着かないのか――
思考の片隅で、小さく首を傾げる。
ツナっちはその視線を横目で捉え、ふっと微笑んだ。
その笑みはどこか確信めいていて、夜の静けさにゆっくりと溶けていく。
やがてツナっちは立ち上がり、軽く伸びをした。
「そろそろ帰ります。先生、あんまり無理しないでくださいね」
「心配性だなぁ。大丈夫だよ」
「……そうですか」
ツナっちは小さく笑い、手を振って研究室を出ていった。
扉が閉まる音だけが響き、再び静寂が戻る。
くられは手元のマグカップを見つめ、ゆっくりと息を吐く。
湯気の向こうで、わずかに残る指先の感覚が蘇った。
理由もなく、胸の奥が騒がしくなる。
それが何なのか――自分でも、まだうまく言葉にできなかった。
廊下の向こうで、ツナっちは小さく呟く。
「……気づいてないんですね、先生」
その声は、夜の冷たい空気に溶けながら、どこか嬉しそうに響いていた。