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くたり──。
その小さな身体は
すべてを使い果たしたかのように
静かに崩れた。
ティアナはふらりと歩み寄り
焔が鎮まったアリアの膝元へと身を委ねた。
まるで、そこが
唯一の安息の場所だと知っていたかのように
柔らかな白い毛並みが
そっとアリアの脚に触れ
意識がふっと遠のく。
瞼が落ち、尾がゆるやかに揺れたのち
完全に動かなくなる。
アリアは瞳を伏せると
静かに掌を持ち上げた。
無言のまま、指先に小さな炎を灯す。
それは燃え上がることなく
ただ
風もないのに揺らめきながら形を変えていく
細く、細く、糸のように。
やがて一枚の羽根となり
鋭利な刃へと変化する。
そのまま、彼女は何の躊躇いも見せず
その刃を自らの掌へと滑らせた。
──スッ
鈍く低い音とともに、紅い雫が滴り落ちる。
しかしその手は微動だにせず
ただ静かにティアナの背へと伸ばされた。
白い毛並みの上
斑に滲んだ紅がさらに濃く染まる。
アリアはティアナの傷を優しく撫でた。
その動作に、冷酷さはなかった。
無言であるがゆえに
より深く伝わる慈しみだけがあった。
「ティアナさん、お疲れ様でした⋯⋯
あとで、綺麗に洗って差し上げますね」
その声は、すぐ隣から届いた。
しゃがみ込んだ時也が
そっとティアナの頭を撫でながら
微笑んでいた。
彼の指先もまた、血と灰にまみれていた。
だが、どこか神聖な祈りのような所作で
傷ついた毛並みに触れていく。
その掌──
両腕は、先ほどまでの激しい熱によって
焼け爛れていた。
皮膚は裂け、深い赤が滲み
指の動きすら痛ましく見える。
けれど、彼はそれを隠そうともしなかった。
アリアは黙ってその腕をとると
再び自身の掌を切り裂いた。
落ちた血は、時也の皮膚に触れた瞬間
淡く光りながら染み込んでいく。
赤い筋が彼の腕を伝い
その炎のような血が
痛々しく黒ずんだ肌に沿って滲んでいく。
その再生は、奇跡でも祝福でもない。
呪いの代償として与えられた
苦しみを伴う治癒──
しかし、時也の顔は──
ほとんど安堵に満ちていた。
「ありがとうございます。
アリアさんがご無事で⋯⋯
本当に、本当に良かった⋯⋯」
その声は、途切れ途切れだった。
少しだけ震えていた。
だがそこにあったのは
痛みでも、涙でもない。
彼にとって重要なのは、ただ一つ。
──彼女に、再び触れられたこと。
──彼女を抱きしめ、名を呼べたこと。
そのたった一つの〝奇跡〟が
彼にとってはすべてだった。
今、その腕にある熱は
痛みではなく誓いの証として刻まれ
アリアの前に膝を折り
静かに──静かに、時也は頭を垂れた。
深い森の静寂を破ることなく
ふわりと風が吹いた。
陽が傾き始めた空は金と紅の狭間に揺らぎ
木々の間を縫うように差し込んだ光が
緑に埋もれた地面を斑に染めていた。
頭を垂れた時也のもとへ、足音もなく──
否、風に乗るように──
一人の幼子が現れた。
全身を包帯で覆い
銀色の髪を靡かせるその姿。
山吹色の瞳は、冷静で
それでいて深く主を見据える。
「時也様。
アリア様も落ち着かれたようですし
そろそろ帰路を⋯⋯。
私が、街へと出て服と、帰りの車の手配を
して参りましょう」
その申し出に
時也は静かに頷こうとした──が。
何かが、違った。
胸の奥から
ふつりと湧き上がる感覚があった。
それは、力──
否、もっと繊細で、精密で
澄んだ〝気配〟だった。
指先に意識を集中するだけで
周囲の植物たちがそっと反応する。
草の葉がわずかに震え
小さな蕾が音もなく膨らむ。
「⋯⋯青龍、少々お待ちを。
服は⋯⋯今、ここで仕立ててみましょう」
時也は目を閉じ、呼吸を深く整えた。
手をかざすと
周囲の植物がその気配に応じて
ざわめくように揺れ始める。
まず応じたのは、野生の麻だった。
森の奥に自生していたその茎が
時也の術に引かれるように
根から浮かび上がり
空中で静かに繊維だけが分離されていく。
まるで糸を撚るように、繊維が絡み合い
細く、しなやかな糸となる。
次に集まったのは、葛の蔓。
柔らかく丈夫な繊維質が
麻糸に編み込まれるように吸い込まれていく
一度も人の手を通していないというのに
糸たちはまるで意思を持ったように結び合い
撚り合いながら布の形を成し始めた。
時也の指が空をなぞるたびに
その動きに従って糸が織られていく。
絹糸に似た光沢をもつ麻布に
蓼藍の葉が自然と滲み込み
深い藍色がゆっくりと布へ染みていく。
「⋯⋯これほど
護符も無しに精緻に操作できるとは⋯⋯」
呟きは驚きに満ちていた。
今の時也には
一本の糸の張りまでが
手に取るように見えていた。
彼の異能は
意思の流れそのもの──
植物の生命と意志に共鳴し
共に在ろうとする術。
繊維たちは、主の意に応え
誇り高く衣となる。
裾は軽やかに風をはらむ形で
裏地には白い桑の葉の絞りが
施されているような模様を浮かべる。
帯には柳の繊維が編み込まれ
しなやかで強い反発を持ち
結び目は自然と身体に馴染むように
整えられていく。
やがて
全ての糸が収まるべき場所に収まり──
一式の着物が
何の音も立てずに空中に完成した。
それはまるで
森そのものが
時也の衣として姿を変えたかのような──
〝自然〟と〝異能〟が溶け合った一枚だった
時也は静かに手を差し伸べると
漂うようにその着物が彼の身体を包んだ。
深い藍の衣に
差し色のように薄緑が走る袖の内側。
彼の動きに合わせて、しなやかに揺れ
纏う風までもがその布に馴染んでいた。
彼は一つ息を吐いた。
「青龍⋯⋯これなら、僕はもっと
皆を──アリアさんを護れるでしょうか?」
その言葉に、幼子の姿の青龍は
微かに眼を細めた。
「時也様の術がこの世界でも
弱ってなどおらぬ証拠ですな。
⋯⋯お戻りの際
皆に誇ってご覧にいれると良い」
時也は
恥じらいを滲ませたように小さく笑い
遠く森の上空を見上げた。
桜の花弁が一枚、彼の肩へと舞い降りる。
その布の上で静かに揺れ
まるで共に在ることを
誇っているかのようだった。