アリアは
黙ってその姿を見つめていた。
深紅の瞳を逸らすことなく──
ただ、静かに。
草木と共鳴するようにして
一枚の着物を編み上げていく時也の所作は
かつての彼にはなかった精緻さと
揺るぎなさを備えていた。
一本の繊維すら意のままに操るその姿に
アリアの瞳が僅かに揺れる。
否、それは驚きではない。
─確信だった─
──気付いたのだ。
その力の精密さ。
術式の淀みのなさ。
それを可能にした〝何か〟が
彼の背に在るのだと。
だから、あれほどまでに不死鳥は暴れた。
アリアの内に宿る存在は
焦っていたのだ。
再び〝環〟が揃いつつあることに。
かつて
不死鳥が産まれ直しの儀を拒絶できたのは
魔女一族の一柱が欠けていたから。
当時の世界に
あの〝祈りを紡ぐ者〟がいなかったからこそ
──けれど今は、もう違う。
「今世こそは⋯⋯護り抜かねば」
アリアは音を持たぬ声でそう心の奥に呟き
眠るティアナの身体をそっと抱き上げる。
そして、時也の傍へ歩み寄り
彼の手へ静かに指を絡めた。
その手は、炎に焼かれたはずなのに
どこまでも優しかった。
(⋯⋯帰ろう、時也)
ぽつりと落とされたその心の一言は
まるで祈りのように柔らかく
空気に溶けるよりも早く、彼の心に届いた。
時也は驚いたようにアリアの顔を見上げたが
すぐに穏やかに目を細めた。
そして、彼女の手を、しっかりと握り返す。
「⋯⋯ふふ。
アリアさんと、ゆっくり観光しながら
帰るのも悪くないと思っていましたが⋯⋯」
着物の袖が風に揺れた。
「貴女が、そう願うのならば──」
そう告げると
時也は青龍へと視線を向けた。
夕陽が
彼の後ろ姿を黄金に染め上げている。
「青龍。
アリアさんは一刻も早い
帰宅をご希望です。
さあ、皆で帰りましょう──我が家へ」
その声は、微笑を含んでいたが
どこまでも真剣で、強く、温かかった。
アリアは何も言わずに
ふわりと両腕を広げた。
背から、音もなく炎の両翼が展開される。
先ほどまで暴れていたそれとは違う──
完全にアリアの意思に従い
静かに揺れる柔らかな炎だった。
時也を優しくその腕で抱き寄せると
彼女の瞳が再び真っ直ぐ彼を捉える。
それに応えるように
時也もその腕に身を任せ
もう一方の手をそっと掲げた。
そこに
青龍の小さな身体が
ふわりと跳ねるようにして抱え込まれ
さらに青龍は
眠るティアナを自らの腕の中に収める。
三重の連なり。
それぞれが、それぞれを護る形で
一つに重なった。
アリアの翼が、再びゆっくりと風を孕む。
夕陽のなか、炎が尾を引き
彼らの影を紅く照らし出す。
空気が震え、翼が風を掴む。
草木が揺れ、花弁が舞う。
そして──
森の上空へ
四つの気配が重なって昇っていった。
⸻
夜の帳が、静かに世界を包み始めていた。
朱に染まっていた空はやがて群青へと落ち
星々がその輪郭を滲ませてゆく。
地上の森も川も
すべてが闇の中に輪郭を溶かし
ただ無数の灯りのように光る虫の残照だけが
ほんの僅かに生命の気配を伝えていた。
その空を──
アリアは、静かに羽ばたいていた。
背に燃えるような炎の両翼を広げ
その腕に包むようにして
時也と青龍、そしてティアナを抱えて。
高く。
どこまでも、ただ静かに。
空を裂くような風の音も
羽ばたくたびに揺れる炎の音も
全てがひどく遠く
どこか夢のように聞こえた。
アリアの深紅の瞳が
遥か地平を見つめていた。
広がる森。
その先にある、眠り始めた街。
街を覆うように灯る、暖かな光。
風が頬を撫で
金糸のように長い髪が
炎の明滅に溶け込んで揺れる。
そんな中で、ふと──
心の奥に沈めたはずの言葉が
ゆっくりと浮かび上がってきた。
──もしも。
その言葉は、風よりも静かで、熱よりも弱く
それでも確かに、胸の内をくぐった。
もしも、あの時⋯⋯
ほんの一瞬でも──
あの〝あの一族〟が在ったのなら。
世界は、変わっていたのだろうか。
彼女はその想いを
何度も、何百年も、否定してきた。
過去にすがるなど、無意味だと。
戻らない時間に
仮想を重ねるなど愚かだと。
けれど今──
確かに何かが、彼女の中で動いた。
時也の編み出した、あの布。
命あるものと語らうように織られたあの術式
そして、彼の背に宿るものの気配。
──生きていた。
この時代にも、まだ。
消え去ったはずの祈りが魂を廻り
今世に届いていた。
アリアの腕に
抱く時也を守るように力が込められる。
何かを逃がすまいとするように。
たとえ幻でも──
もう二度と、失わせぬように。
時也は、何も言わなかった。
ただ静かに
彼女の心に浮かんだその情景を
瞳を閉じて、胸の内で〝聴いて〟いた。
読心術はただの術ではなく──
千年を生きた一人の女の
長い祈りと悔恨を
言葉ではなく
〝想い〟として受け取っていた。
その腕にある温もり。
交わす言葉すらないまま
それでも強く繋がる感覚。
闇に溶けていく風の中で
二人の間に確かにあったのは──
決して過去に戻ることのない
けれど過去に重なるほどの
深い〝共鳴〟だった。
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