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第4章 寝癖
side 藤井香澄
時間ぎりぎりで入った会議室には、もう半分くらい人が揃っていた。
席を探して、空いていた端のほうに腰を下ろす。
バッグからノートとペン、資料を取り出して整えていると、隣の椅子が音を立てた。
「あっぶね。ぎりぎり。…お、藤井さんだ。おつかれです」
聞き慣れた声。
顔を上げると、岡崎だった。
少し息が上がっているように見えた。
急いで来たのか、
ネクタイがわずかにずれていて、 それを気にするふうもなく 資料を小脇に抱えて座る。
ふわっと外のにおい。
寝癖みたいな後ろ髪の跳ね方。
よく見るとシャツの袖が少しだけ折れていて、
でもそれも含めて、どこか抜け目がないように見えてしまう。
「あっ。岡崎さん。おつかれさまです」
少しだけ会釈を返して、それ以上は目を合わせないようにした。
けれど、すぐ隣で背筋を伸ばす気配が伝わってくる。
資料を開く紙の音も、ボールペンをカチッと鳴らす音も、軽く咳払いした音もやけに耳に残る。
──また隣の席だった。
意識しないふりをしているのに、焼き鳥屋の出来事とこの間の再会を思い出すと、やっぱりどこかで緊張してしまう。
岡崎禄。
営業部のチームリーダーで、たぶん歳は同じ年か若く見えるから自分より少し下といったところ。
第一印象は、よく喋るおちゃらけた人、だった。
今はそれにもう少し加えて、「意外にちゃんとしてる人、周りをよく見ている人」という印象がある。
たとえば会議が始まって十分経ったころ、前の席の人がマーカーを探してもたついているのを、黙って手元から一本差し出すとか。
人の発言に対して、否定から入らないとか。
些細なところに、ちゃんと“距離のとり方”が見える。
──誰でもそうなのだと思う。
でも、それが“自然にできる人”はそんなに多くない。
「……というわけで、こっから先は、うちの岡崎が引き継ぎで説明します」
その声が耳に届いた瞬間、背中にぴり、と小さなノイズが走った。
──岡崎、禄。
隣の席で椅子が動き、例の軽い調子の声が室内に入り込んでくる。
「どうも。このたび“喋りだけで仕事した風を出す男”の称号を得ました岡崎です。本日はよろしくお願いします」
部屋が一瞬、笑いに緩む。
岡崎らしい言い方。
なんてことない空気に、笑いを生む。
それを意図してやってるのか、素でやってるのか。
たぶん、半分ずつ。
プロジェクターが点いて、室内が少し暗くなる。
背中にエアコンの風があたり、うっすら寒い。
持参したカーディガンを羽織りながら、仕事に集中しなければ。と資料に目を落とす。
岡崎の声が、時おりゆるく笑いをまじえながら、仕様の要点を噛み砕いて説明していく。
ただ軽口でごまかすのではなく、要点の「間」や言葉の選び方に、営業としての腕を感じる。
言ってしまえば──仕事が出来る。
プロジェクトの進捗報告が終わり、質疑応答に入るころ。
ひとつ、少しややこしい質問が飛んだ。
「その仕様変更の理由が、社内で通らなくて」と。
担当の部長が答えに詰まりかけた時──岡崎が、少しだけ前傾姿勢で口を開いた。
「それ、たぶん前回の仕様書の流用が原因かもしれないです。ちょっと分かりづらくなってるんで、あとで要点整理して送りますね。……三行で済ませます」
「3行は、助かるねえ」と、ほっとしたような部長。
「任せてください。3行主義なんで」
口の端の片側だけをニュっとあげて岡崎は返す。
また笑い声が漏れて、空気が少しやわらいだ。
ああいう場面で、出しゃばらずに“助け舟”を出せる人も、少ない。
それでいて、本人はすぐに黙る。
何かを勝ち取ろうとしてる感じが、全然しない。
自分は結構そういう“人となり”に、少しだけ弱い。
資料の端に描かれた構成図が視界の端に入る。
無造作なボールペンの線なのに、妙に見やすくまとまっている。
──頼まれてもいないことを、自然とふつうにやっている。
そう思いながら、会議が終わるまで、何度か無意識に岡崎を見ていた。