卒業式が終わった教室は、妙に静かだった。
黒板の上の時計の針が、コツリと音を立てて動く。
ほとんどの生徒は校庭に出て、写真を撮ったり、涙まじりに寄せ書きを交換したりしていた。
でも私は、ひとり、この教室に取り残されていた。
理由はひとつ。
好きな人に、最後の一歩を踏み出せなかったから。
「……あーあ。もう、終わっちゃったんだ」
誰にともなくつぶやいた声が、虚しく空気に溶けていく。
机の引き出しに突っ込んだ、ぐちゃっと折れたメモ用紙。
「放課後、校舎裏で待ってます」
名前も何も書いていない、匿名の手紙。
渡すとき、彼は「なにこれ?」と笑ってた。
でも私はそれ以上言えなくて、目をそらした。
「来なかったらそれでいい」なんて言い訳してたけど、ほんとは。
ほんとは、ちゃんと伝えたかった。
最後の日だからこそ。
卒業したらもう、きっと会えないから。
「怖がってばっかだったな、私……」
ガタン、と椅子を引いて立ち上がったそのとき――
「……あのさ」
聞き慣れた声がした。
教室のドアが、少しだけ開いてる。
その隙間から覗いていたのは、橘悠真だった。
「……悠真……?」
ドアが開き、彼が教室に入ってくる。
いつものくせで、ポケットに手を突っ込んだまま、気まずそうに私を見ていた。
「……そのメモ、君だよね」
心臓がドクンと跳ねた。
彼は私をまっすぐ見ていた。
ふざけてもいない、笑ってもいない。
ちょっとだけ、顔が赤い気がした。
「なんで……分かったの?」
「字が……君っぽかった。っていうか……勘。でも、そうだと思った」
彼の言葉に、喉の奥が詰まったみたいに苦しくなる。
何も言えない私に、彼はぽつりと続けた。
「……迷ったんだ。行くかどうか。でも……行かなかったら、後悔すると思った」
「……うん……」
言葉が震えそうで、うつむいてしまった。
けど、伝えなきゃ。
今度こそ逃げちゃだめだ。
「悠真、私……」
深呼吸して、顔を上げる。
彼の目を見る。
「……ずっと、好きだった。隣の席になったときから、ずっと」
その瞬間、静かだった教室に、風が吹いた気がした。
カーテンがふわりと揺れて、彼の髪が少しだけ揺れる。
そして――
「……俺も、たぶん。君のこと、好きだった」
「え……」
「でも、タイミングとか、いろいろ考えちゃって。気づかないふりしてた」
悠真は、そっと笑った。
いつものちょっと気の抜けた笑顔じゃない。
ちゃんと、私のために向けてくれた、まっすぐな笑顔。
「卒業しても、会えたらいいなって思ってた。……これからも」
不思議だった。
さっきまで、世界が終わったような気がしてたのに。
今は、何も終わってないって思える。
「ねえ、悠真。……さよなら、って言いたくない」
「俺も」
「“またね”って言いたい。ずっと、それだけ言いたかった」
「じゃあ――」
彼が少しだけ近づいて、手を差し出した。
私は、迷わずその手を握った。
「またね、凛」
「うん。またね」
小さな“またね”が、世界でいちばんあたたかい言葉だった。
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