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時計の針はもうすぐ17時を回ろうとしていた。
客の合間に駆けこんだレストルームには、化粧ポーチを開いた莉奈がいた。
「あ、瀬川ちゃん」
オレンジ色のリップグロスを塗りたくった唇がそう呟く。
「ホント、店長って強引だよねー。マジでごめんねー?」
さっぱり心の籠らない口調でそう言うと、彼女の視線はまたミラーの中の自分に戻っていく。
「でも多少強引だけどさー、前の店長よりはマシだよね。なんだっけ、名前」
「ああ……」
真珠は忘れた記憶をたどるフリをする。
「佐久間店長?」
「そうそう!ネチネチ虐めてくる系の!」
パッと唇を開いた莉奈が鼻で笑う。
「あいつ、キモかったよね」
背中から首元にかけてザワザワと鳥肌が立つ。
「まだ姿くらましてるんだっけ?ホントなっさけなー」
莉奈がグロスの蓋をカラカラと回しながら続ける。
「なんだっけ。奥さんに浮気がバレたんだっけ?」
真珠が恐る恐る聞くと、
「ねー、よくやるよ。ハゲ親父が」
莉奈は長い髪の毛を軽く左右に揺らしながら笑った。
「それはそうと本当は用事あったの?瀬川ちゃん」
ちっとも興味の籠らない声でそう言うと、莉奈は瞼を引っ張り上げながらアイラインを引き直した。
―――よかった。話題が変わった。
真珠は内心の安堵を悟られないように、何でもないような顔をして答えた。
「ああ、うん。でも19時に出ればだいじょ―――」
「瀬川ちゃんの弟くんって―」
莉奈が言葉を被せてくる。
「……イケメン?」
ミラーの中の視線が、ちらりとこちらを見つめる。
「んんー。どうだろ」
真珠は本気で考えた。
物心ついたころにはすでに隣にいた琥珀。
鼻水を垂らしながらついてきた琥珀。
先生に廊下に立たされていた琥珀。
そして―――。
************
『制服できたの?似合うじゃん』
中学校に上がる前、少し大きめの学ランに袖を通した日の琥珀を思い出す。
『……うっせーよ』
姿見鏡の前で満更でもなさそうに仁王立ちしてたくせに、真珠が声をかけると、そっぽを向いてしまった。
その顔は変に男臭くて、それでいて妙に他人行儀で、
思えばあの頃から、真珠にとって琥珀は「可愛い」存在ではなくなっていたのかもしれない。
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「瀬川ちゃん?どしたー」
莉奈がミラー越しではなく、直接覗き込んでくる。
「ええと。女の子には昔からモテたかな」
「ふーん。じゃあ、彼女とかいちゃう系だ?」
「あ、それはいないかも。ものすごく奥手だから……」
「……へえ!」
莉奈はつけまつげのせいで大きく見える目をさらに見開いた。
「確かに瀬川ちゃんも顔は整ってるもんね!」
「そんなことないよ。それに―――」
真珠が続けようとしたところで、
『門脇様、ご来店』
店長の声がインカムに流れてきた。
「あ、トイレに入ろうとしてたんだよね。引き留めてごめんねー?」
莉奈はそう言うと、ジュエルビーズをあしらったファンデーションのコンパクトをパチンと閉めた。
「お茶出しといてあげるから、ゆっくりきなよー」
莉奈はそう言うと鼻歌混じりにレストルームを出て行った。
「…………」
真珠は小さくため息をついた。
莉奈と話すのは、いつも少しだけ緊張する。
鏡の中の自分に向き直り、胸元の小さなポーチからコンパクトを取り出した。
莉奈みたいに綺麗なジュエルがあしらわれたものではなく、コンビニで買った1,200円のファンデーションだ。
黒い髪を掻き上げ、額のテカりを押さえる。
『―――弟くんってイケメン?』
なぜかその言葉が胸に重く残っている。
「……イケメンだよ。それでね」
真珠は小さな声で囁いた。
「私とは、全然似てないの」
◇◇◇◇
門脇はぴったり17時に現れると、キッズスペース脇の商談席に座った。
今年小学2年生になったという兄と年中の妹は、噂に違わぬやんちゃぶりで、たちまち閉店間際の静かなショールームの雰囲気を壊していった。
試乗が終わり、査定が済む頃にはすでに飽きだして、キッズスペースから駆け出していく兄、靴も履かずに追いかけようとする妹。
その二人を叱る母親の声が無人となったショールームに響き渡る。
なるほど、これでは商談にならない。
いつも何かと莉奈と比べ、真珠には当たりのきつい渡部が、少しだけ可哀そうになった。
しかし悠長に観察している暇はない。
もう18時半を過ぎている。
そろそろ動き出さねば……。
「ねえねえ、お姉さんと折り紙やらない?」
そう言うと、兄の方が露骨に顔をしかめた。
「えー。女じゃねえんだから」
言うことだけは一丁前だ。
真珠は思わず微笑むと、
「じゃんっ!」
後ろに隠していた折り紙を掲げて見せた。
「おお!『悪滅の剣』じゃん!!」
最近小中学生を中心に流行っているアニメの折り紙に、兄が食いついた。
「これね、線通りに折って切ると、悪刹隊の隊服になるんだって」
「すげえ!」
「ふっ。さすが悪滅……」
途端にキラキラと目を輝かせ始めた我が子を見ながら、母親がやれやれと商談席に腰を下ろした。
「アイもアイもー!!」
妹も手を伸ばし、二人は仲良く並んでキッズスペースの机に腰掛けた。
「―――最高グレードぉ?だからその金はどこから出てくるんだよって話!」
少し口調が乱暴な母親も、やっと商談に集中してきたらしく、子供たちから視線が離れた。
――そろそろかな。
真珠は大人たち3人がこちらを見ていないのを確認しながら、胸元に隠していたカッターナイフを取り出した。