アパートの外で、車のエンジン音がした
それと同時に森川さんから『着いたよ。今から出られる?』とメールが来て、その文字だけで私の鼓動が早くなり、胸がナイフを刺されたみたいに痛む
キュッと痛む胸を手で押さえ、身支度の最終チェックをする
変なところは、ない、と思う
ハンドバッグを持って部屋から出ると戸締りをしてから、カンカンと鳴り響く錆びれかけているアパートの階段を降りると真っ赤の車がいた
助手席側が私の方になるように停車していて、助手席の窓が下がると薄暗い車内にいる森川さんが見えた
あ、また、胸が痛い
いや、痛いというより、むず痒い?
そして、キュッと胸が締め付けられる感じもする
「乗って」
突っ立ったままの私に、森川さんが穏やかに言った
私はおずおずと助手席のドアを開けて、森川さんの隣に乗り込むとちょうどハンドルを握る大人の男性の大きな左手が良く見えた
……あれ?
カフェではしていたはずなのに、今、指輪をしていない
もしかして、私の見間違い?
何故か森川さんの指輪の有無を気にしながら、身をなるべく小さくして太腿の上に置いた拳を見つめたまま口を開いた
「本当に、弁償は森川さんの言うことを聞くだけでいいんですか?」
森川さんは、深い吐息をつく
「君は、さっきからそればかりだ。弁償と謝罪だけで頭がいっぱいなんだね。俺はそんな表情だけじゃなく、もっと君の違う表情が見たい」
穏やかにそう言うけど、電話口から相当な怒りが伝わってきたのですが……
想像していた森川さんの態度と、今の森川さんが違い過ぎて、私は小首を傾げた
違う表情って、他にどんな表情を見せればいいの?
迷惑をかけた森川さんに、笑顔を向けるの?
そんなこと、出来ない
もし、私が迷惑をかけられ被害も被った時、相手がなんの反省の色もなくヘラヘラと笑っていたら、なんて非常識な人なんだろうと思う
だから森川さんには、申し訳ございませんという表情しか向けてはいけない
「あの、本当に、スーツとお仕事のこと、申し訳ございませんでした。どんなことでも聞くので、それで弁償になるのならなんでも言ってください」
拳に力を込めながら、頭を下げた
「頭を上げて。本当に俺は、謝罪とか弁償はもう要らないから安心して」
森川さんの優しい声が聞こえて、私はゆっくりと顔を上げた
「弁償っていうのは、ただの口実だよ」
……へ?
こうじつ?
脳に到達するまで時間がかかり、やっと口実という漢字二文字が浮かんでも、口実の意味が分からなかった
「口実って?」
森川さんの綺麗に整った唇が、弧を描いた
「君と繋がりを持つ為の口実。それと、君のことをこうして呼び出して食事に誘う為の口実。どうしても、俺は君と話したかったから。だから、謝罪とか弁償は、もう関係ないんだよ」
「もう関係ないって……?」
「もう、謝らなくていいってことだ。君の謝罪の気持ちは、充分俺に伝わっている。俺は、自分の失敗と真っ直ぐ向き合う君とますます話してみたいと思って、こうした口実を作った」
森川さんは、笑顔で私に優しい口調で言った
男の人に言うのは変かもしれないけれど、森川さんの笑顔は綺麗で、思わず見惚れてしまった
……ううん、見惚れてる場合じゃない
「本当に、もう謝らなくてもいいんですか? 」
おずおずと、私は言った
「まだ、俺が怒っていると思っているの?」
「はい」
「もう、怒ってないよ。俺はね、ただ君を食事に誘いたかっただけなんだ。あ! もしかしてもう夜、済ませたかな?」
聞き忘れていたのを思い出したみたいに、森川さんは慌てて私に訊いた
「実はまだですけど、私、ちょっと、その」
ゴニョゴニョと口ごもらせる私の顔を、森川さんは覗き込む
っ! ち、近い
……顔が近い!
再び、私の胸に小さなナイフが刺さる
「どうしたの? まだなら、行けるよね?」
行けますが、その……はっきりと金欠ですって言えないんです
お金がないのに森川さんと食事に行くなんて、まるであてにするみたいで気が引ける
森川さんは吐息を吐いてから、突然エンジンをかけた
「もう行くよ。食事がまだなら、お腹が空いているはずだからね」
何も言い出せない私をよそに、森川さんは車を発進させた
「そういえば、まだ君の名前を訊いてなかったね。なんていうの?」
お金のことを気にしていた私は、森川さんに返事をするのにしばらく時間がかかった
名前……
男の人に自分の名前を言うの、学校の先生とカフェの店長や学生のバイトさん以外初めてだ
「椎奈 藍璃 です」
「しいな あいりちゃんか。あいりって漢字でどう書くの?」
「藍色の藍に、瑠璃の璃です。画数多いですよね」
いつも名前を記入するの、大変なんだよね
改めて自分の名前の画数が多いことに、溜息をついていると森川さんが軽く笑った
「藍璃って名前、可愛いね」
可愛いかな?
結構ある名前だと思うけど、どこが可愛いんだろう……?
「可愛い、ですかね?」
「うん、可愛いと思うよ。 名は体を表すっていうけどまさに君にぴったりって感じで」
思い上がりもいい加減にしろと言われそうだけど、それって、私が可愛いと森川さんは言っているとそう都合良く解釈していいのかな?
森川さんのことが分からない
今日出会ったばかりで分からなくて当然だけど、一体どんな意味で言ったんだろう?
それとも、さほど深い意味は無いとか?
……うん、それだ
きっと深い意味なんてない
森川さんの上手いお世辞だ
「私にぴったりって、そうですかね」
私は笑いながら、森川さんの横顔に言った
「ぴったりだよ。君がそう思ってなくても、俺はそう思っている。君のこと、藍璃ちゃんって呼んでもいいかな? って、初対面なのに馴れ馴れしいか」
……藍璃、ちゃん
森川さんの声が、私をそう呼ぶ
そう思っただけで、痛かった胸に今度はなにか温かいものが貯まっていった
「全然、馴れ馴れしくなんてないです」
気づけば口が勝手にそう言っていた
「私のこと、下の名前で呼んでください」
自分からこう言うのは図々しいと分かっていても、呼んでほしいという気持ちに負けてしまう
こんなに名前を呼んでほしいって思ったの、初めて
しかも、まだ知り合って間もない人なのに……
「藍璃ちゃん。 うん、良いね。じゃあ、藍璃ちゃん、藍璃ちゃんって、今何年生くらい?」
……藍璃ちゃんって、3回も言った!
それだけで、胸いっぱい
何年生って、大学のこと?
「連れ回そうとしている俺が訊くのもおかしいけど、藍璃ちゃん、高校生くらいだよね?」
「いえ、つい最近まで高校生でした。まだ誕生日来ていないので18です。早生まれなので」
森川さんは安心したかのように大きな吐息を吐き、笑顔になった
その時、信号が黄から赤に変わり森川さんは車を停止し、私の方に視線を向ける
「青少年育成条例には、ギリギリ違反していないな。もし藍璃ちゃんが現役高校生だったら、こうして食事には誘えなかったね。本当は、どちらにせよ早く確認するべきだったかもしれないけれど」
真剣な眼差し……ということは、
「森川さん、私が18って、がっかりしましたか?」
森川さんの表情からそう読み取った私は、急に切なくなりながら森川さんに言った
青信号が点灯し、森川さんは車を発進させる
「がっかりなんて、するわけない。それから、もし藍璃ちゃんが高校生だったとしても、誘っちゃってるかもしれないしね」
森川さんは、ちらりと私を見た
えっ……
それって、悪い大人、かも?
すっかり気を和ませている私は、森川さんの質問に対して答えていった
高校に入ってすぐ一人暮らしを始め、高校生活を送りながらアルバイトを掛け持ちして自分の生計を立てていたことや、現在は大学には進学しておらず、バイトで糊口を凌ぐ日々を過ごすフリーターだということを、森川さんの質問に沿って教えた
森川さんは深い質問をしなくて、ただ他愛のない会話のように質問して、応えてくれたりした
「朝は朝刊のバイトに、夜までカフェかぁ。朝早いから一日結構大変じゃない?」
「初めは大変でしたけど、今はもう慣れですかね。体力もついて疲れは感じなくなりました」
「すごいな、俺は一つの職種だけで精一杯だよ」
……そういえば森川さんの職業の、債権回収会社ってどういう職業なんだろう?
別に少し気になる程度だし、森川さんの職業を私が知る必要もないよね
今じゃなくて、またもし機会があれば、今度訊いてみよう
自分でも気付かないうちに、森川さんと会えると勝手に決めつけてしまっていた
しばらく車を走らせてから、森川さんは不意にスピードを減速して、とある場所に入って行った
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