外観からして、そこがレストランだと分かった
シートベルトをゆっくりと外し、森川さんが降りるのを待ってから私はドアを開けて、森川さんより遅れて車から出た
白い外壁に、木が組み込まれていてまるで外国風の一軒家のようなレストラン
窓は少なく、こじんまりと佇むように車道沿いに建っている
森川さんの後ろを歩き、数台分の駐車場からレストランに向かう
森川さんは、鉄の門扉を鈍い音を立たせながら開けると私を先に通した
「こっちだよ」
森川さんに促されるまま、レストランの中に入る
すると、天井の中央に大きなシャンデリアが目に入った
凄い……!
煌びやかで、豪華で、綺麗……
キラキラと輝きながら光を店内の天井から壁に放射して存在感を発揮しているシャンデリアに、一瞬で目を奪われた
「藍璃ちゃん、どうしたの」
「あ、な、なんでもありません」
森川さんの声で気を取り戻した私は、黒のチョッキを着た店員に店内の中央の席に案内されて、真っ白なクロスが掛かっているテーブル席に森川さんと向かい合う
どうしよう……
こんなお洒落なレストラン……来たことない
場違いなんじゃないかと、そわそわしながら曖昧に視線を彷徨わせて店内を見回した
「落ち着かない? 」
森川さんは優しい笑みを浮かべて、私を気遣うように訊く
「落ち着かないというか、こういうお店に来たのは初めてで」
質素倹約を心がけて外食なんてもってのほかとチェーンのファストフード店に行ったこともないのに、外観だけではなく内装も映画に出てくるセットの様なレストランは敷居が高そうで身が縮む
それに生まれて初めて男の人とディナーをする私は、先程まで予想だにしていなかったこの急展開の連続に驚きと、緊張と羞恥に心と思考が独占されていた
「その格好、可愛いね」
不意に森川さんが、挙動になりつつある私に綺麗過ぎる笑みを向けながら褒めた
っ!また、あの笑顔……
思わず見惚れてしまうくらい綺麗で、それから凄く恥ずかしくなる……
私の頬はじわじわと内側から熱を帯びていき、心臓が周りの客の話し声のざわめく音が聞こえないくらい、煩く高鳴り響く
おかしい……
なんで、こんなに胸が苦しくなるの?
でも苦しいのに、苦痛じゃないのは何故?
料理を待つ間、私は何を話せばいいのか分からず、無言のままたまに森川さんを盗み見ながら、下腹の前で組ませた手に視線を落としていた
数十分後、美味しそうな料理が運ばれて来たけど、何故か私は昼食から何も入れていないのに空腹を感じず、食欲が刺激されない
「もしかして、嫌いなものでもあった?俺の独断で連れて来ちゃったから、もし気に召さないなら遠慮なく言って」
森川さんは料理になかなか手を付けようとしない私に気使い、窺うように言った
私は、勢いをつけてかぶりを振る
「全然、気に召さないものはないです。……いただきます」
あまりの緊張で、つい変な日本語になってしまう
……恥ずかしい
スプーンですくって野菜のゼリー仕立てを一口食べるとつるんと喉越しが良くて、野菜の出汁の効いたあっさりとした味が美味しい
これなら食欲なくてもいけると、あっさりとした料理に少しずつ舌鼓を打った
森川さんは食べる姿も優雅で、余裕のない私とは正反対だった
私はというと食事中でも心拍数が異常に上昇していて、本当は食事どころじゃない
一回一回ゆっくりと咀嚼をして、飲み込むにも苦しかった
こんなに苦しいなんて絶対におかしいと思い、病気なのかもしれないと憶測で疑う
生まれて初めて異性と食事をして、口に食べ物を運ぶ事すら精一杯の私に、私の初めての相手の森川さんが優しく微笑んだ
ここはコース料理のレストランらしく、ゆっくりと時間をかけて前菜やスープ、メインの料理が運ばれてきた
緊張と羞恥で食欲は無くてコース料理を完食出来るか不安だったけれど、なんとか食べ切る事は出来た
食後のデザートを終え、森川さんはテーブルでいつの間にか会計を済ませて、私は今日の食事の目的はなんだっんだろうと混乱した
それから店を後にして、再び森川さんの運転で来た道を反対に進んで私のアパートの方面に赤の車で向かう
「森川さん、迷惑かけた上に食事までご馳走になるなんて申し訳ないです。私が森川さんに食べさせてもらう理由も義理もないのに……」
私は森川さんに食事に誘ってもらいご馳走になるという展開は全く予想も想像もしていなかった出来事で、それから出会って数時間しか経過していない全く見ず知らずの私を食事に誘った森川さんの意図や目的が分からなくて不思議だと思った
「俺は、藍璃ちゃんの笑顔が見たくて食事に誘っただけで、お金のことを気にさせるつもりはない」
森川さんは、切なげな表情ではっきりとしているけれど優しい口調でそう言った
「でも、やっぱり色々と気にします。森川さんがどうしてコーヒーを大事なスーツにかけた私を食事に連れて行ったのかも、分かりませんし……」
私の言葉がそこで切れると、信号機が黄から赤に点灯して森川さんは車を停止させてから顔をこちらに向けて見つめてくる
「俺が君と食事に行きたかっただけ。ただ俺のそういう勝手な目的だけで藍璃ちゃんを一方的に誘ったんだから、君は何も気にすることはないんだよ」
しばらくして青に変わり、はにかむ森川さんは車を発進させた
本当に、ただ初対面の見ず知らずの私の笑顔を見たいからという理由だけで誘ったの……?
二階建ての年季が入った私のアパートの前に、車は停車した
シートベルトを外して外に出る準備を始めると、森川さんが微笑を浮かべながら私を見つめた
「今夜は、君と食事が出来てとても楽しかった。それから昼間、君が俺にアイスコーヒーをこぼしてくれて良かったよ」
「えっ……?」
どういう意味なんだろうと思い小首を傾げながら、森川さんを見つめ返した
「君のことを食事に誘って、こうして君と繋がりを持つきっかけになったんだから。……だから、本当に弁償とかはもう関係ないんだ。わざと弁償と言ったのも全て君と繋がりを持つきっかけを作る為の口実だったんだ」
森川さんは少し身体を私の方に傾けて、至近距離という距離空間まで私に近づくと優しい口調でそう言った
私の心臓は破裂しそうなくらい早鐘を打ちながら耳の鼓膜を振動させていて、ドクンドクンという脈打つ音しか聞こえない
森川さんの端整な顔がすぐ目の前にあった
切れ長の少し冷たさを持つ瞳に見つめられて、射竦められ身動き出来ない
「藍璃ちゃん、また、食事に行かない? だから今度連絡してもいいかな?それとも、もう弁償とか関係なくなったし、そもそも見ず知らずの俺に勝手な目的で食事に誘われるのが嫌ならもう今夜限りにするよ。気持ち悪いと言われてもおかしくない事をしているんだから、藍璃ちゃんが嫌なら嫌とはっきり言ってくれて構わない」
森川さんはゆっくりともせかせかともしていない聞き取りやすい口調で、高くも低くもない落ち着きがある完璧とも言えそうな声で、まるで身体の奥に心地良く響く様な言い方でそう言った
「私が嫌……と言ったら、森川さんはどうするんですか?」
自分でも随分と上から目線な質問だと思っているけれど、私の答え方次第で森川さんが決めると気付いた私はおずおずと蚊の鳴くような声で訊いた
「どうもなにも、連絡も一切しなければ会う事も今後ないだろう。だから、藍璃ちゃんと俺は今夜限り…だね。……でも、俺はちょっとそれは淋しいな」
森川さんは私の耳元で、囁く様に最後にそう付け加える
「連絡、下さい。私も森川さんと今夜で会えなくなるのはそっちの方が嫌です。あと、それから昼間は本当にごめんなさい。あと、とても美味しかったです。ありがとうございました」
私は頬から全身を火照らせて、早口言葉のように全く落ち着きのないせかせかした声で森川さんに言った
本当にご飯は美味しくて、食事中無愛想でその上無言で食事をしていた私に、森川さんは『美味しいね』と感想を言ったり、『ここは前からどの料理も高評判だと知っていて、一人では入れる様な店じゃないから君と来れて良かった』と笑顔でもう一つの理由を教えてくれたりと時折話をしてくれて、久しぶりに温かい食事を経験した
普段の食事はアパートの室内で、一人細々と自分で作った食事を黙々と淋しさと虚しさを誤魔化すためにたまにテレビを見ながら、食べる
けれど、何故か味はするのにしなくて、とても淋しくて虚しい食事
でも今日は……今夜は、忘れかけていた久しく人と食べる温かさと楽しさを、初対面の人である森川さんが思い出させてくれた
だから、また森川さんとお食事が出来る機会があるのならばこれを逃したくない
森川さんと会えるなら、また会いたい……
そう強く思った
「良かった、これから藍璃ちゃんと会えるなんて嬉しいな。じゃあ、また連絡するから。今夜は付き合ってくれてありがとう」
私は頭を下げてから車を降り、それからもう一度下げた
部屋に入るまで見届けるという森川さんに見られながらアパートの階段を上がる
二階の一番端の部屋の鍵を開錠してキ、キーと音を鳴らしながらドアを開けると、中に入った
数分後、車の発進の時のエンジン音が遠くから聞こえ、何を思ったのか慌ててドアを開けてアパートの共同廊下に出た
闇夜に遠ざかっていく赤の車の後ろ姿を、段々小さくなって次第に見えなくなるまで目で追った
ピンク色の甘い吐息を一つ吐きながら、森川さんの今度の連絡はいつなんだろうともう既に待ち侘び始めた
また会いたいと思えたのは、森川さんが初めてだった
こんなに強烈に、心が奪われ、締め付けられたのも、森川さんが初めてだった
私は当初の“弁償”という森川さんと会う目的を綺麗に忘れて、ただ森川さんに会えるのを楽しみにしていた
宙を舞う気分でシャワーを済ませてから布団に潜ったけれど、夜中を過ぎてもなかなか寝付けなかった
森川さんの一挙一動、言葉、低くて心地良い声、表情が何度も何度も頭の中でリピートした
初めて逢った人なのに、こんなに心が熱を持ったり苦しくなる
ずっとずっと、止まること無く飽きることなく、忘れること無く、森川さんで頭の中がいっぱいになって、考えている
何故、森川さんの事ばかり、森川さんの事しか思い浮かばないの?
布団の中で何度も寝返りをうって、そうなる原因を発見しようとしたけどやっぱり分からなかった
スマホを無意識のうちに弄り、森川さんの番号がデータ登録されているアドレス帳を見たり、森川さんからメールか何か来ないだろうかと図々しくも期待していた
ようやく寝付けた頃は、空が明るくなりだしてからだった
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!