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第44話:血の匂いを纏ったまま、迎えに行く
悲鳴、怒号、崩れ落ちる石材の音が、一気に奉納の間を満たしていく。濃密な香の匂いに、鉄錆にも似た異臭が混じり、廷臣たちは我先にと出口へと殺到していった。
「……あれほど……慎重に…………終わるのか……これで」
その混乱の中心で、玄安は、崩れ落ちた石材の傍らに、ゆっくりと膝をついていた。積み上げてきた全ての計画が、たった一振りの刃によって跡形もなく瓦解した。その事実を、彼自身が誰よりも正確に理解している。
いつもの微笑みは、もうどこにもない。ただ、ひどく老いた、疲れ果てた男の顔だけが、そこにあった。
彩は、その光景を声も出せずにただ見つめていた。父の敗北も、崩れゆく神殿の権威も、もはや彼女の理解の範疇を超えている。
焔は、刀を提げたまま、彩へと向き直った。
「彩」
呼びかけられた彩が、弾かれたように顔を上げる。その瞳には、涙も怒りも、まだうまく形を成していない、ただ大粒の涙が目から頬へとめどなく伝っていた。
焔にはそれが、子供が訳もわからず涙を流しているように見えた。
「……陛下。わた、わたしどうすれば……、わたし、わたし……、」
「……自分で考えろ」
掠れた声だった。
「お前はお前の道を歩け、自分の足でな」
彩は、何も言えなかった。ただ、焔の顔を、食い入るように見つめることしかできない。
焔も、それ以上、彼女の返事を待たなかった。踵を返し、崩れゆく奉納の間を、一顧だにせず歩き出す。
(言うべきことは、もう全て言った)
焔の手にある刀身には、まだ乾ききらない血と、赤とも黒ともつかない体液が、赤黒く滴っていた。
ふと石段の上り口に、槍を構えた衛兵たちが、慌ただしく集まってくるのが見えた。
「へ、陛下……! お待ちを……!」
震える声だった。
槍の穂先が、焔の行く手を阻むように連なっている。それでも、焔の足は止まらなかった。
「へへ、っ、陛下! どうか、御自ら縄目にお就きください……!」
若い衛兵の声が、震えながら訴えかけてくる。恐怖と忠義の板挟みになっているのが、一目で分かった。だが、答える言葉すら、焔には惜しい。
一人が槍を突き出す。焔はそれを半身で躱し、峰に近い角度で刀を振るって男の腕を打ち据えた。骨の折れる鈍い音とともに、槍が石畳に落ちる。二人目が斬りかかってくるのを最小限の動きで弾き、柄頭で鳩尾を打つ。三人目の得物を叩き落としたところで、脇腹を狙った刺突が、焔の二の腕を浅く裂いた。
熱い。
これまでの生涯で、こんな感覚を覚えたことはなかった。痛みを知らない身体で、幾多の修羅場を無傷のようにくぐり抜けてきたはずだった。だが刃が肉を裂く生々しい感触そのものが、今の焔には、ひどく新鮮に感じられる。一瞬、指先の動きが乱れた。だがその隙も、一呼吸ほどのものだ。焔は奥歯を噛み締め、痛みを捩じ伏せると、最後に残った衛兵の膝を蹴り砕き、道を完全に開けさせる。
(……こんなものか)
血の滴る二の腕に一瞥もくれず、焔は石段を駆け上がった。背後で神官長が何か叫んでいた気がするが、もはや意味のある音としては耳に入ってこない。
○
地上に出ると、王宮は既に蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。何が起きたのか、正確な情報はまだ誰の手にも渡っていないはずだ。それでも、地下から立ち昇る異様な気配だけで、只事ではないという実感が、王宮全体に伝播しつつある。
焔はその喧騒を縫うようにして厩へと向かった。厩番の少年は、返り血に濡れた皇帝の姿を目にするなり、顔面蒼白になって立ち尽くす。
「……馬を出せ」
短く、それだけを告げる。何かを問う勇気も、逃げる度胸もなかったのだろう。少年は震える手で、一番脚の速そうな黒毛の馬を、無言のまま引き出してきた。焔は、血に汚れた刀を無造作に鞘へ納め、鞍に飛び乗る。
一度も振り返ることなく、開け放たれたままの正門へと、馬を走らせた。
(――待っていろ)
整理された言葉ですらなかった。
ただ、一つの方角だけが、焔の頭の中で異様なほど鮮明に映っていた。
正門を抜けた焔を出迎えたのは、いつもと変わらぬはずの王都の街並みだった。だが、空気が違う。地下で何が起きたか、詳細はまだ市井に伝わっていないはずだ。それでも、王宮から立ち昇る不穏な喧騒と、物々しく駆け回る兵たちの姿だけで、何か重大な異変が起きたことは、誰の目にも明らかだった。すれ違う人々が、血にまみれた皇帝の姿に気づき、悲鳴を上げて道を空ける。誰も、声をかけようとはしなかった。
大通りを駆け抜けながら、焔は、かつて玲を「欠陥品の薬師」と貶めた高札の立っていた広場を通り過ぎる。木片も文字も、とうに片付けられている。それでも、その場所を目にした瞬間、焔の胸の奥で、乾いた怒りが小さく燃え上がった。
(玄安の企みは、たった今、この手で完全に叩き潰した。だが――)
それが、あいつの独りきりの孤独を、少しも軽くしないことも、焔はもう分かっていた。
さらに馬を走らせる。行き交う露店の間を抜けたところで、焔はふと、見覚えのある店先に目を留めた。以前、玲を伴って城下を歩いた道すがら、練り物の匂いに玲が珍しく足を止めた店だ。あの時、玲は「材料を確かめたいだけです」と言い訳しながら、結局一つも買わなかった。
(くだらない。そんなことを、なぜ今、思い出す)
だが、思い出は止まらなかった。
城門に差し掛かると、呼び止めようとした衛兵が、皇帝の異様な姿に気づき、声を失う。焔は手綱を緩めなかった。衛兵は反射的に、道を大きく開ける。馬蹄の音だけが、石畳を打った。城門を抜けると、荒々しい馬の呼吸と共に、王都の喧騒が徐々に遠ざかっていく。夕刻に差し掛かった空が、茜色から紫紺へと、緩やかに色を変えつつあった。
街道に出た頃には、もう、国のことも、玉座のことも、玄安や彩のその後のことも、焔の頭の中には何一つ残っていなかった。ただ一つの方角と、一人の女の名だけが、焔の意識の全てを占めていた。
日が沈み切る頃には、王都の明かりは遥か後方に霞み、街道の両脇には、実りを終えた田畑の闇だけが広がっていた。馬の速度を緩めることなく、焔はひたすらに北を、森のある方角を目指す。二の腕の傷は、動くたびに鈍く疼き、血がじわりと滲み続けていた。以前の焔なら、気にも留めなかったはずの感覚だ。だが今は、その一つ一つが、やけに鮮明だった。不思議と、それが不快ではない。
(……痛みだけは、誤魔化しようがないな)
その思いつきが、堰を切ったように、これまでの記憶を呼び覚ました。
初めて出会った夜、斬りつけた自分に、あの女は命乞い一つしなかった。それどころか、こぼれた薬液を惜しんで悪態をついた。
――弁償してください。貴方の血で。
今思えば、あれほど不敵な物言いをする人間に、焔はそれまで一人も出会ったことがなかった。
玉座の間で、円卓を叩き斬ってまで玲を娶ると宣言した日のことも、脳裏をよぎる。
――お前を、俺の婚約者とする。
あの時、焔の頭にあったのは、ただ誰にも文句を言わせないという一点だけだった。玲がどう思うかなど、考えてすらいなかった。……ただ、研究棟に足を踏み入れた玲が、瑠璃の蒸留器に指先を這わせ、目を輝かせていた横顔を。あの顔を、もっと見ていたいと思った。
誰かに褒められる度、説明のつかない苛立ちが湧いた。理由を尋ねられても「別に」で誤魔化し続けた、あの感情。その正体を、焔は今、ようやく理解する。あれは独占欲などという単純な言葉では片付かない。失うことへの、剥き出しの恐れだった。
誘拐先の廃蔵で、満身創痍の自分を前に、玲が己の手首に牙を立てようとした、あの瞬間もよみがえる。
――死にたくない。
声が震えていた。あの女は、いつだって自分の命を天秤の軽い方に置いてきた。それを止めもせず、当然のように享受してきたのは、他ならぬ焔自身だった。血を分けた夜、初めて感じた痛みを堪える焔の顔を、玲は見抜いていた。痛かったでしょう、と尋ねた彼女に、焔は知るかとしか答えられなかった。あの一言で、二人を繋いでいた「痛みのない夜」が、もう戻らないことを、玲は悟っていたはずだ。それを、慰める言葉一つ、かけてやれなかった。
そして、文机の上に置かれていた、たった一行の置き手紙。
治療完了。契約終了。以上。
「――違うだろう」
(お前は、逃げたんじゃない。……怖かったんだろう)
これまでの人生で、誰からも必要とされた経験のなかった女が、初めて「必要とされること」の心地よさを知り、それを失うことを、誰よりも先に恐れた。跡取りが生まれた瞬間、お役御免として切り捨てられた、あの幼い日の記憶と、焔の治癒とを、無意識に重ね合わせてしまったのだ。
(俺が、迂闊だった)
玲を壊れない玩具として扱っていた頃の名残を、焔は自分でも気づかぬうちに、ずっと引きずっていたのかもしれない。乱暴な言葉、命令口調、独占欲剥き出しの態度。それらの裏に本物の想いがあることを、焔自身は分かっているつもりだった。だが、玲にそれが伝わっていたかと問われれば、答えは否だ。あいつは、俺の治療係でも、所有物でもない。対等な、一人の人間だ。それを、俺は一度も、ちゃんと言葉にしてこなかった。
それに、もう一つ。気にかかっていることがある。あいつの身体は、定期的に血を摂らなければ、頭が割れるほどの頭痛と衰弱に見舞われるはずだ。この数週間、あいつは何を飲んで凌いできたのか。まさか、また昔のように、獣の血で誤魔化しているのではないか。想像するだけで、腹の底が冷えていく。
夜風が傷口を冷やし、一瞬、視界が揺れる。血を失った分の消耗が、今更のように焔の身体を苛み始めていた。だが、構ってなどいられない。焔は手綱を握り直し、馬の腹を蹴った。契約でも、治療でもない。呪いが生んだ都合の良い依存でもない。ただ、あいつがいい。あいつじゃなければ、駄目なのだ。馬の脚は、まだ止まらない。夜の闇が、いよいよ深くなっていく。
○
やがて街道は途切れ、道は次第に鬱蒼とした木々に囲まれていく。馬も、ここまでの全力疾走に疲れ果てていた。
荒い息を吐く馬の首を一度だけ撫でると、焔は鞍を降り、手綱を近くの木の幹に結びつける。ここから先は、獣道に近い、細く頼りない小道だった。月明かりだけを頼りに、焔は歩き出す。木々の隙間を縫うようにして進むたび、下草が足元を鳴らし、遠くで梟の声が響いた。
この森のどこかに、あいつがいる。幼い頃、実家から追いやられ、独りで薬草を育てながら生きていた場所。あいつの原点だ。振り出しに戻っただけだと、玲は自嘲していたと、椿から聞いた。
(振り出しになぞ、戻っていない。戻させるつもりも、ない)
下生えを踏み分けながら、焔はなおも足を進める。傷の痛みは、もうほとんど感じなくなっていた。単に慣れたのか、それとも、それどころではないのか、焔自身にも判別がつかない。しばらく歩くと、木々の合間に、小さな明かりが見えた気がした。焔は思わず、足を速める。近づくにつれ、粗末な木造の小屋の輪郭が、闇の中に浮かび上がってくる。屋根は苔むし、壁板のあちこちが傷んでいる。それでも、窓の隙間からは、確かに、淡い灯りが漏れていた。
――いた。
安堵とも呼べない、形を成さない感情が、焔の胸を突き上げる。血の匂いを纏ったまま、返り血に汚れた姿のまま、玉座も、名誉も、国そのものすら捨てて、焔はここに立っている。これまでの人生で、これほど何も持たずに、誰かの前に立ったことは、一度もなかった。血と汗の匂いが、自分の全身から立ち上っているのが分かる。これでは獣と大差ない。だが、身なりを整える時間も、その意味も、今の焔には見出せなかった。
何と言えばいい。あれだけの間、道すがら考え続けてきたはずなのに、言葉はまだ何一つ、まとまってはいない。それでも、焔の足は止まらなかった。小屋の戸口まで、あと数歩。
焔は、血に汚れた右手を、そっと、木戸へと伸ばした。
コメント
1件
うわあああああ焔っ!!😭💦💦💦 ついに覚悟決めて走り出したんだね…玲のもとへ。血まみれのまま、玉座も国も捨てて、一人の人間として会いに行くってのがもう尊すぎて泣ける…🥺💕 「対等な、一人の人間だ。それを、俺は一度も、ちゃんと言葉にしてこなかった」って焔がようやく認めたところ、エモすぎて何度も読み返したよ…!!しかも痛みを感じるようになった焔、少しずつ“人間らしくなってる”感じがたまらないんだよね…。扉を叩く前の緊張感とか、どうかちゃんと想いが届きますように!!続きが気になりすぎるよぉ…✨